第106話

 どうしてだろうか。


「ハハッ……」


 今までにない程にミカエルの気分は高揚していた。脳内麻薬が異常分泌されているのか、左腕はないと言うのに。血は吹き出して、足りていないと言うのに際限なくこの世界は見えて、いつも以上に多色に見えて、初めて彼は人間であることの実感を得た。

 自分は人間である。

 それは生物学的にそうであったのだが、そういった話ではない。

 退屈な勝利を重ね、退屈な人生のページを重ねていく。どこまで行っても、どれだけページを捲っても、変化の訪れない日記帳。


 今日の天気は晴れでした。

 今日もゲームをしていました。

 今日はドラマを見ていました。


 幾度も変わらない言葉を綴り続けた。

 そんな、ある日にこうして、目の前で覆された。

 ふと、彼は記憶を思い出していく。

 学校に通っていたミカエルは、いつも通りの一位を取っていた。


『流石だな、天才は……』


 などと、感心しているのか諦めているのか。それはどうでも良かった。

 誰にもミカエルは越えられなかったから。勝ちたいと思う以前に彼は勝ってしまうのだ。それは何よりもの退屈なのである。

 退屈を埋めようと、格闘技やゲームに熱を出してみた。それが彼の心を焦すほどに熱を放つことはなかった。


『クソっ……!』


 悔しげに涙を流した彼らに同情もできなかった。興奮も覚えなかった。

 回顧をしてみても、やはり生きているような感覚はなかった。

 ただ、この瞬間は生きている。

 生の実感が湧き上がってくる。

 振り向けば、いや、目の前にある死の実感が否応なしに生を証明していく。

 生きているが故に死はある。

 死があるからこそ、人は生きている。

 生物の到着点を理解して、人は原点を悟る。


 そして、生きている事を実感した彼はより深く、この感覚に溺れていきたいと願った。今、感じる快楽に身を落としてしまいたいと。

 だから、笑った。悦楽に浸り込む様に。

 今、この瞬間を圧縮して向こう数百年、ずっと続けば良い。殺し殺される、そんな殺伐としたこの関係に何よりもの喜びを感じていた。

 思い出したのは、悔しげな顔を浮かべながら、ミカエルを見上げた彼ら。

 いや、そこではない。

 同程度の実力により完全に拮抗した戦い。勝つか負けるかの瀬戸際に立つ彼ら。

 この心地の良さと、緊張をミカエルは初めて認識した。


「アハハ……、アハハハハハハハハ!!」


 勝ちたいのか負けたいのか。勝ちたくないのか、負けたくないのか。生きたいのか、死にたいのか。

 そんなことはもうどうでも良くなって、気持ち良くなって、脳から電流が走ったかの様な鮮明さに、彼は打ち震える。

 感動と言うものを覚えた。

 涙なしでは語ることのできない映画と騙る映画以上の感動が心を打つ。


 拍動はより激しく、強く、ドクドクと飛び出してしまいそうだ。

 今までにない程の最高の熱に浮かされていく。身体は羽根の様に軽く感じてしまうほどに浮かれて。

 永遠を誓いたくもなってしまうほどに、彼の心は熱烈。ミカエルの青色の瞳は目の前に立つ阿賀野だけを熱心に捉えていた。

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