第107話

 二人が駆け出す。

 二人の世界は瞬間に加速した。

 彼らの目には、世界がスローモーションに動くように映った。

 相手以外は。

 笑う獣。

 迎撃する獣。

 どこまでも動物的な彼らの思考はもはや、殺すことにのみ傾倒していく。お互いの息の根を止めることに目的は狭められていく。


「ふっ!」


 阿賀野の握りしめた左拳がコンパクトな軌道を描きミカエルの腹に突き刺さる。その威力は見た目に反して絶大。脅威の身体能力から放たれる拳は軽々しく骨を折ってしまうほどの威力を持つ。


「ハハッ!」


 だが倒れない。

 獰猛な笑みは消えることなく、ミカエルは右腕を横に凪ぐように振るった。バランスが取れていないのか、動きはどこか不自然で避けるに容易い。


「……っらぁ!」


 後ろに足を下げて、紙一重でそれを回避し、カウンターの右ストレートをミカエルの顔面に叩き込む。


「ギッ……、ヒ」


 顔を殴りつけられたミカエルと阿賀野の距離が数メートル開く。

 ミカエルは鼻から溢れる血を拭く。

 そして、何かを慣らしていくかの様に右手首を数回振って、その場で軽く飛んで、深呼吸をする。


 足を前後に少しだけ大きく広げて、ミカエルは構えた。左足が前、右足が後ろになる様な姿勢。

 それは蹴りを主体とした戦法を取るためだろうか。


「腕がないのは、どの道ハンデだ」


 ミカエルの取ったその構えを見て、阿賀野は言い捨てる。

 元来、格闘技といったものの殆どは五体満足である事を前提に作られている。そして、ミカエルが修めた格闘技もまた、両腕両足のある事を前提としたものであった。


 両手両足のある阿賀野に対して、ミカエルは即席の片腕による技術で対応せねばならない。四肢欠損は余りにも大きなハンディキャップである。


「どんくらい出来んだか……」


 踏み込んだ阿賀野には慢心などなかった。懐に潜りこみ、阿賀野が左拳で下から抉りこむように水月を殴りつけようとする。


「シッ……!」


 反応速度ギリギリの蹴りがミカエルの右足から放たれ、それは阿賀野の腹に突き刺さる。


「ごはっ……!」


 威力は凄まじい。

 今までに受けたことのある打撃でも、ここまでの破壊力は経験したことがない、

 まともに喰らった阿賀野は思わずよろけて、数歩後ろに下がってしまう。


「ちっ、何だよ。その身体で……」


 阿賀野の文句も続かない。

 数歩の距離など簡単に。

 ミカエルの追撃が迫る。より鋭く、洗練された足技。


「ぐっ」


 両腕を盾にしてもビリビリと伝わる振動に思わず呻き声が漏れる。


『ハハッ、慣れてきたなぁ』


 小さな呟きがミカエルの口から漏れた。それはアスタゴの言語であり、阿賀野には聞こえるほどの声量ではなかった。

 この短時間に片腕での格闘術への切り替えと技術への慣れの速さは、ミカエルが天才と呼ばれるが所以か。

 一層に笑みを深めたミカエルが、阿賀野の目を見た。


「楽しいよ、陽の国の戦士!」

「……そうかよ、俺は全くだ」


 迫る蹴りの数々を受け流し、拳を返す。お互いの、たった一撃が絶大な威力を誇る。

 怪物同士のぶつかり合い。

 常人はその攻撃の応酬を理解することは不可能で、まさに頂上決戦とでも呼ぶべきだ。阿賀野もミカエルも強大な戦士であるが故に成り立つ、命の奪い合い。


 空を歩く様に浮かんだミカエルの右足の蹴りが弾丸の様な速度で斜めに振り落とされる。それを左腕で受け止める。


「ガラ空き」


 その瞬間に左膝が阿賀野の顎下に迫る。


「ちっ」


 迫る左膝を後方転回をして避けると共に、蹴り上げる足による牽制を行う。

 立ち上がった瞬間には既にミカエルは阿賀野のすぐ前。そうなることは分かっていた。


「はぁっ!」


 ミカエルが放ったのは左からの横蹴り。

 これもまた阿賀野は左腕に力を入れて、ダメージを極力分散させる。


「避けらんねぇよな」


 ミカエルが右足を蹴り上げる事はできない。また左足による追撃を放つにも時間が足りない。隙を理解している阿賀野は、前へと踏み込み胸へ、拳を放つ。


 力強く握り締められた右手は抜群の破壊力を持ちながらミカエルの胸へと突き刺さる。

 バキと、ミカエルの身体から骨の折れる音が響く。


「ア、ハハッ、ハ。まだ、まだぁ……」


 口元から垂れる赤の混じった液体を拭いながら、ミカエルは喜悦を顔に浮かべながら阿賀野を睨む。

 骨が折れていると言うのに。腕がなくなっていると言うのに。まるで倒れる気配が見えない。

 その姿は天才などと言うよりも、化物と称した方が良い様に思えた。

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