第9話
「ねえ、松野」
松野は廊下で背後から声をかけられて徐に振り向いた。彼女の後ろに立っていたのは、いつも一緒にいる竹崎だった。
「竹崎」
「あのさ、渡したいものがあるんだけど」
竹崎は少しだけ恥ずかしそうな顔をして、頬を掻きながらそう言った。
「今日、夜に時間大丈夫?」
「……うん、大丈夫」
返事をするまでに少しだけ間を感じたが、どうやら松野には特に用事がなかったみたいだ。
ただ、その光景を見ていたものが三人。四島と、飯島、そして山本。
誰もが不安に思っていた。山本はアイコンタクトで飯島に今は話しかけるなと訴える。それは無事に伝わったようだ。
一緒に中栄国との戦争に行くことになった彼らの存在は、松野には重たいのだ。否応にも戦争を意識させる。
「あのさ、松野……いや、美祐」
松野の目をしっかりと捉えて、竹崎は名前を確かに読んだ。
「私のこと、
「……真衣。これでいいの?」
「前から思ってたんだ。仲良いって思ってたのに、苗字で呼ぶなんて他人行儀だよね」
竹崎はふと笑う。
だが、竹崎と松野では精神的状況があまりにも違った。
「──ねぇ、何で竹崎は優しくしてくるの?」
松野が吐き出した言葉は責め立てるように語気が荒く、思わず、竹崎は後ずさる。
「私に同情してるの?」
涙を流しながら、松野は叫ぶ。
松野の浮かべる表情が余りにも痛々しくて、竹崎には見ていられない。竹崎はさっと顔を逸らしてしまう。
「やめてよ! 私が死ぬから、私が戦争に行って死ぬから、そうやって突然に優しくしだしたんだ!」
「違……!」
「違わない!」
負の感情が溢れて、それは松野には止められない。責め立てるような声と表情に、竹崎は
ドン。
その結果、誰かにぶつかってしまう。
「ちゃんと前見て歩けよ」
頭上から聞こえた声に竹崎は視線を少しだけ上に向ける。そうすることで漸く、自分のぶつかった相手がわかったようだ。
「お前ら、廊下で騒ぐんじゃねぇよ。迷惑だろうが」
竹崎がぶつかった相手、──阿賀野はまるで、彼女たちのやりとりに興味もなさげにすぐに通り過ぎて行ってしまう。
ただ、そのことによって先ほどまでの険悪な空気は壊れたのか、竹崎と松野は気まずげに目を伏せて、黙り込む。
「……なあ、松野」
険悪な空気が霧散したことで、飯島はそろそろ良いかと松野に声をかける。ただ、どうにも山本の真意は通じていなかったようだ。
飯島の顔を見た松野はさあっと顔を青ざめさせ、昨晩、山本と出会した時の様に後ろに振り返って、逃げ出す様に走り去る。
皆んな、同情しているのだ。
「竹崎はいつもはあんなんじゃない……」
あんな気を伺う様な顔はしない。笑っているのだ、もっと自然に。だから、そんな普通じゃない彼女が、余計に死という文字で脳を侵していく。
誰も彼も普段、日常と違う中でいつもと変わらない者を松野は知っていた。
阿賀野だけなのだ。あの傲岸不遜な彼だけはきっと、自分に同情などしないだろう。
松野はそう思って、また突き放される事も想像しておきながら、阿賀野と話したいと思ったのだった。
「阿賀野……」
どれだけ素っ気なくとも良い。いつもと変わらないことが、彼女にとっての救いだった。
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