慈善活動

 雨川高校3年・住吉良。街灯に照らされ、ゴミ袋を横に立つこの少女は、誰もが秀才少女と呼ぶしかない成績を修めている。

 校内の下駄箱付近のフローリングスペース、普段は数人の空手部が稽古をしているその空間の壁には掲示板があり、校内テストや全国テストの校内順位とその成績が貼り出される。貼り出されるのは校内上位組のみだが、俺が入学して以来、彼女の名前は常にその欄の1番上に記されている。特筆すべき事項は、彼女はマーク式テストにおいて塗り潰す記号も番号も間違えたことがない。つまり、全て満点の成績を誇っているのだ。

 学業において絶対の地位を築く彼女は帰宅部で、しかしながら塾に通っているというわけでもないということだけを知っていた俺は、放課後彼女がこんなことをしているとは思いもよらず、驚きを隠せない。他校の生徒が彼女を見ても、なかなか非凡な頭脳を有しているようには見えないだろう。彼女の容姿は整っているが、その顔立ちは、肩にかからない長さのショートカットヘアも相まって、運動部で日々汗を流す青春ガールと想像するのがしっくりくる。ちなみに彼女の運動能力はごくごく平均的らしい。俺の元にまでそういう話が伝わってくる程度には、彼女にはカリスマ性があった。


「慈善活動さ」


 慈善活動。胸を張ってそう言う秀才少女に対して、どうにも俺にはその言葉がしっくりこなかった。

 彼女が先刻までしていたことはおそらく街の清掃活動。それも自主的なものだ。「慈善」はあわれみ助けるようなことを指す。彼女がもし、募金活動をしていたのなら、慈善活動と称したのにも納得がいく。けれども、街の清掃活動で、一体何を哀れむというのか。そんな思考が顔に出ていたのだろうか、彼女は空いていた左手を顎にあて、ふむふむ言いながらその手でビシッと俺を指差した。

「あれを見たまえ」

 あれ、という指示語に後ろを振り返ってみると、街で遊んでいたのだろうか、歩道に横並びになって駅の方へ進む学生の集団があった。どうやら、指差したのはあの集団だったようだ。ファストフード店に寄っていたのだろうか、めいめいになにかを口にしながら歩いている。

 言われるがままに見ていると、騒がしい集団のうちの1人が無造作にぽいと、紙袋を放り捨てた。ぽてんとコンクリートに落ちた紙袋は、その瞬間からゴミになった。ゴミは風に流されて、歩道脇の木の元へころころと転がっていく。

「哀れだろ?」

 その声につられて彼女の方を向く。瞬間、鳥肌が立つ。表情でわかる。目を細めてくだんの集団を見つめる彼女は、怒りもなく、そこにただ哀れみの念だけを浮かべていた。

 俺はポイ捨てをする人間が嫌いだ。それは自分の中にポイ捨ては良くないことだという思想があって、それに反する人間が気に食わないからだ。そう、気に食わない。俺は今のポイ捨て現場を見て、かすかな苛立ちを覚えた。苛立ち、「怒」の感情だ。だが彼女は違う。ポイ捨てを良しとしない上で、思想に反する人間に対しては諦観している。彼女の目には、口元には、「怒」が存在しなかった。自分より1つ学年が上の人間が、ここまで冷酷に理性的であることに、畏怖の念を抱かないわけがなかった。

「彼らのような無自覚で無責任な人間から環境破壊はすすむのだよ。私は今そんな人間たちを哀れみ、その尻拭いをしているわけだ。ほら、慈善活動だろう?」

 首筋を冷や汗が伝う。この顔は、絶対に彼女が普段学校では見せていないものだと確信する。そして、必ず隠し通さなければならないものだということもわかる。これが人当たりのいい笑顔の裏にあったと考える人間がいるはずがない。

 薄笑いを浮かべていた彼女はそこまで言って、両の目をハッと見開いたかと思うと手に持っていたトングを取り落とした。

「違う、違うこんなこと言うつもりじゃなくて…」

 両手の平を頬に当てて、唐突に顔を左右にブンブン振り始める彼女。表情は見えないのだがさっきまでの凍りついた空気は弛緩して、俺はほっと胸をなでおろす。おおおおぉぉぉ、と呻きながらうずくまってしまった彼女は小動物的な可愛らしさを醸し出している。さっきまでの彼女は恐ろしかった。別次元の怪物だと思えるまでに。

 ぱっと人間が顔を上げる。頭を回して脳が揺れていそうなものだが、三半規管が強いのかふらつく様子はなく、彼女は真っ直ぐに俺の目を見てきた。口を真一文字に結び、真面目な顔をしている。あまりにまっすぐ見てくるものだから、俺は少々恥ずかしくなって、けれども顔を逸らすのも失礼かと思い結果として目が泳ぎまくってしまった。

「君、名前は?」

「え、千早優です」

 突然名前を聞かれて、反射的にフルネームで返してしまう。

「ふむ、優というのか」

 彼女はまた左手を顎にあててふむふむ言っている。考え事をするときの癖なのだろうか。いつもの表情、というか普段は目にしないのでいつもの表情と思われる表情に戻った彼女は、人柄の良さそうな雰囲気を漂わせていて、さっきまでの一連の出来事は幻覚だったのかと錯覚させかける。

 瞑目していた彼女が右目と口を開く。

「君は、私と同類の気がするね」

 突飛な推測に面食らってしまった俺をよそに、彼女は言葉を紡ぎ始めた。

「名を覚えたよ、君のことはこれから千早君と呼ぼう」「とりあえずさっきの私は見なかったことにしてくれるかな」「私にも隠し事の1つや2つ、10や100はあるものさ」「ああ、同類と言ったことも気にしなくていい、只のひとりごとさ」「それはさておき君は何か悩み苦しんでいるね?」「隠したって無駄だよ、私にはわかる」「昔からそういう目が利くのさ」「ところで千早君は部活動に所属していなかったね」「明日暇ならまたここに来てくれないかい?」「む、残念ながらデートの誘いではないぞ、君がそう思いたいのならそれでもいいのだけれど」「単純に、君と少し話がしたいのさ」


 紡ぐというより、まくし立てるという感じだった。全くこちらの話を聞く気がなかったな…。

 言いたいことを言って満足したのか、彼女はニコニコと可愛さ増し増しスマイルをこちらに向けてくる。この人こんな軽口叩くようなキャラなの? なんか違うんじゃない? うわかわいいな? なんて余計な思考を振り払って、俺は彼女が、俺が悩んでいるという事実を見抜いていることに意識を向ける。

 君と少し話がしたい。この言葉が意味するところはなんなのだろう。俺は彼女の名前を知ってはいたが、彼女のことを知っているわけではないし、彼女に至っては有象無象である俺のことを知っているはずがないのだ。だから、考えられるのは、彼女が俺に対して何かしらの興味を抱いたということだけ。それが何なのかは、彼女と神のみぞ知るところなのだろうけれど。

 こんなことを言うつもりではなかったと、彼女は言った。だから俺は、あの恐ろしい姿が、彼女の「裏」なのだと思う。けれども、それが彼女の本質としての全てではないはずだ。彼女は受験生で、そんな時期の大切な時間を割いてまで街中のゴミ拾いをしている。いくらかの道行く人たちが彼女を視界に捉えれば、心の中で感心するであろうその「表」の姿も、きっと彼女の善性に基づいて始まった行動で。「表」も「裏」も、その人間の本質であることに変わりはないのだ。

 彼女は「善」だと、本能的に感じた。おそらく、見返りのない善行を、徳を積むつもりもなく続けている。彼女の何も知らないけれど、彼女には、なぜだかそう感じさせるものを見にまとっていた。

 だから俺は、その誘いに惹かれてしまった。

「…時間は?」

 俺から、彼女の目を見た。今度はしっかりと、逸らすことなく。いたずらっぽい口元が、視界の隅に映っている。彼女は一歩、後ろに下がった。闇に混じっていてわからなかった顔色が、はっきりとわかった。

「9時だ。できれば動きやすい服装で来てほしいのだが」

「わかりました」

 答えはきっと、最初から決まっていた。最も近くに見つけた善に、俺は近づきたかったのだ。

「私の慈善活動も今日は終わりだ。ではまた明日、千早君」

 くるりと体を回して、表情で「さようなら」と伝えてきた後彼女はその場を去っていく。俺はその姿をぼんやりと眺めていた。闇夜に溶けていくその姿が、なぜだか明るく輝く光のようだった。


 去りゆく彼女を見送ってから、今更、「慈善」の哀れみは、彼女の言う哀れみとは違うのではないかということに気づき、俺は自分が如何に余裕がなかったのかを再認識させられた。そうして、あんな表情でも遊び心を持っていた彼女はやはりどこまでも理性的で、そんな彼女が俺のような人間にうっかり隠し事を漏らしてしまったことが、不可解だった。

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