善力少女は挫けない

ジャスミン茶

何もない少年

 一人でいることに寂しさを感じたのは、小学校6年生の時だった。それまでの俺は、スポーツクラブで汗を流していたわけでも、ピアノ教室でたどたどしく鍵盤を叩いていたわけでも、中学受験に向けて塾に通っていたわけでもなく、放課後になれば学校の図書室に足を運ぶような本の虫でしかなかった。その頃は、何事もなく日常を楽しめていた。

 孤独と不安が胸中に渦巻き始めたのに特別なきっかけはない。きっと、誰もが通る道で、俺は特別な人間ではない。誰もが抱く、普遍的で不変の苦しみ。そこから脱するために俺がとった行動は、「人に親切にすること」だった。優しい人は素敵だと、母親がいつか零した言葉に縋って、俺は自分なりに、他人に親切にするようにした。

 それは側から見れば、「都合のいい人間」だったのかもしれない。親切の中には「宿題を写させてあげる」なんてものもあった。優しさを履き違えていると教えてくれる大人はいなかった。一つ、存在した事実は、「ありがとう」と「優しいね」が自分に向けて発せられていたこと。俺は大いに満足した。孤独ではなくなった。不安感も薄れた。それが「偽善」で成り立っているものだということを、その言葉すら知らない俺は、全く気づいていなかった。



********************



 校内の駐輪場の側には、どこの誰が植えたのか、一本の桜の木が行き交う生徒たちを見下している。春の風物詩である桃色の花は、今やその生徒たちにすら見下されているありさまだ。あんなに綺麗だの趣があるだのもてはやされていたのに、今では見向きもされず無惨に踏み潰される。可哀想な桜たちに同情の念を込めて手を合わせ、俺はその場を後にした。

 冬になると俺たちは「3年生0学期」なるものに捕らえられ、勉学地獄の入り口へ案内されるらしく、各部活動の先輩たちは口を揃えて「遊ぶなら今だぞ!!」と忠言してくるそうだ。部活に所属していない俺はそういう話は人づてに聞くしかないので真偽は定かではないのだが、クラスメイトたちはそれを受けてかいささか落ち着きがなくなっているように見える。

 教室の窓際、1番後ろが俺の席。騒がしい教室の後ろの扉から静かに自分の机に一直線。到着。無駄に重たい通学かばんを机の横に乱雑に置いて、席について一息ついていると、いつものがやってきた。

「おはよう千早ァ!! 助けてくれ!!」

 千早は俺のことだ。千早優。これが俺の名前だ。相手が何を助けてほしいのか、すでにわかっている。俺は挨拶とともに返事をする。

「おはよう佐川、お前いい加減自分で英訳しろよな」

「あれ見てたら眠っちまうんだよ! なんでみんな解けんの!?」

「いや、授業聞いてたらそれなりには…」

「聞いてても眠っちまう!」

「お前どうやって高校受かったんだ?」

 たわいないやり取りを交わす。相手が求める助けは、英語の宿題写させてー! だ。俺の「親切」は今だに続いていた。それが祟って、こうして宿題写させてだのノート見せてくれだのいう輩は後を絶たない。高校生になっても、勉強をしないやつはしないのだ。

「やろうとする努力はしろよ」

 そう言ってまたしぶしぶというフリをして、いつものように宿題を渡す。俺が1人にならない方法は、これしかないのだ。

「救世主…! 恩にきるぜ!!」

 サボり魔佐川は礼を言って、机の上に購買のクロワッサンを1つ置いて去っていった。鞄にものを入れるスペースはない。空腹でも満腹でもない胃に、もらったお礼を駅で買った缶コーヒーと一緒に流し込んで、俺はグッドスメルを吐いた。

 高校に入学する少し前に、俺は自分が、偽善者でしかないことをようやく理解した。そうして自分が、偽善をせずに孤立しない方法を、何一つ持っていないことに気づいて、ただただ、酷い虚しさを感じた。俺には、何もなかった。

 この世に生を受けて、「優」という名前をもらった。優しい人間になってほしいと、そういう願いを込められた名だ。優しい人間は他人の評価によって作られ、優しさは与えることのできるものではない。優しさは、環境で成り立つものだ。今の俺は名前の通り、「優しい人間」らしい。クラスメイトの評判も悪くない。どこかの誰かさんが自分のことが好きだという話も聞いた。けれどもそれらは全て、偽善の上に成り立っているだけのもので。俺はそれが、たまらなく苦痛だった。その苦痛と共に得られる安心に、流されるままに浸っている自分も、嫌いだった。

(俺は一生、このままなのかな)

 そんな思考をしている内にも地球は回り、時は進む。結局その日も、いつもと変わらず、俺は偽善の限りを尽くした。



********************



 目的のない1日はやけに長く感じてしまう。義務ではないのに、束縛にしか感じられない学業を終えて、生徒たちは談笑しながら次々と教室を飛び出していった。少し前に受けた化学の状態変化の話がふと頭に浮かんで、1人でこの場合はどういう変化が起きたかな? などと自問自答しながら、俺は駐輪場に向かった。

 部活動に所属していない俺は、基本的には放課後になると寄り道することなく家に直帰する。けれども毎月第2と第4金曜日だけは、1時間程、通学ルートとは少し離れた街の方へと寄り道をする。大手の書店に寄って本を買い、肉屋の安うまコロッケを2つ買って食べる。月に2度のルーティン、密かな楽しみだ。今日は4月の第4金曜日。街に繰り出した頃には、日は沈みかけていた。

 中学生の頃は寄り道が校則で禁止されていたが、高校生はそこのところはある程度ルーズで、俺がこうして制服で文庫本を物色していても物申してくるような大人はいない。好きな作家が特にいない俺は気になった本を適当に購入するタイプなので、毎度書店の隅々までをぐるりと巡ってしまい結構な時間を要してしまう。不審に思われないのは心が楽。

 興味を引く本があまり見つからず、うろうろふらふらしていると、気がつくと1時間も経っていた。いつもは30分あたりで購入する本を決めて肉屋へ向かうのだが、今日はいささかぼんやりし過ぎている気がする。悲しいかな、この時間になると肉屋はもう店仕舞いを始める。コロッケにはありつけない。

 くぅ、と小さく腹の虫が鳴いた。

「小腹を満たせる場所…」

 肉屋は駅付近にあって帰り際に寄っていけるのだが、他の飲食店は駅から少し離れた場所にある。なので普段は足を運ぶことがないのだが、いかんせん胃が食事を求めている。

「マック行くか」

 この日は本を購入することなく、俺は飲食店街へ向かった。

 日は随分前に暮れていた。春と言えども、夜の空気は肌寒い。飲食店街まではそう遠い訳ではないのだが、全く通ることのない道を歩くのは新鮮で、辺りを見回そうとすると自然と歩みは遅くなった。周りに特に何かがある訳ではない。歩道の端の方に等間隔で植えられた何の種かわからない木は自分の住む地域でも目にする。けれどもなぜだか、目に新しく感じる。不思議なものだ。こういう心理も、心理学で解明されていたりするのだろうか。

 もうすぐ飲食店街、というところで、俺の目に、自分の学校の制服を着ている人間が留まった。黒を基調としたセーラー服。緑色のリボンは暗がりだと全く緑だとわからない。短く揃えられた黒髪。整った顔立ち。俺はこの生徒を知っている。

 その生徒がただ街の近くで遊んでいるのを見かけただけだったなら、俺はきっと興味を持つことなく立ち去っている。だが、その生徒を見て、遊んでいると思う者はいないだろう。視線を下に、右手にトング、左手にはゴミ袋。ゴミ拾い、清掃活動。こんな時間に1人で、空き缶や紙くずを拾い集めていた。一体、なぜ。

 棒立ちで凝視していたせいか、視線に気づいた相手がこちらを向く。同じ高校の制服に気づくと、彼女はこちらに駆け寄ってきて、馴れ馴れしく声をかけてきた。

「やあやあ、雨川生徒君。部活動の帰りかい?」

 明るく、人当たりのいい笑顔。噂通りの人だ。

「いえ、俺は部活はしてないんです」

「おやおや、それじゃあ遊んでいるのかい? 遊べ遊べ! 学生は遊んでなんぼさ!」

 貴方は遊んでないじゃないか…。

 俺からも、彼女に質問をする。

「貴方は…、住吉さんは、何をしているんですか?」

「おや、私のこと知ってるの」

「有名ですよ」

 そう、彼女はうちの学校じゃ有名だ。2年の俺が知っているくらいだ。

「ふふ、照れるねぇ」

 全く動揺するそぶりも見せず、いけしゃあしゃあと照れるだの言って彼女はその話をさらりと流す。この辺りも、さすがというところだろうか。

 こほんと、咳払いが1つ挟まれた。

「私が何をしているかだったね、見ての通りだよ」

 どさっとゴミ袋を地面に置いて、彼女は胸を張って言う。


「慈善活動さ」


 彼女………俺の通う学校、雨川高校3年、秀才少女住吉良は、トングをかちゃかちゃと鳴らしながら、ニヤリと笑みを浮かべてこちらを見据えた。

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