エピローグ

 まずいことになってしまった――。妊娠検査薬を手にした浦沢沙織は、全身の血の気が引いていくのを感じた。結果は陽性。これで三度目の検査であるが、どうやら結果は変わらないようだ。


 一番の問題なのは、誰が父親なのか分からないということ。幼馴染達すらも知らないだろうが、これまでやってきた援助交際のおかげで、複数の男と関係を持っている。時期的に逆算できたとしても、誰が父親であるか断定するのは不可能に近い。それに一度限りという話になっているため、あちらの連絡先はすでに消去してしまっている。仮に断定できたところで、あちらから連絡がない限り、こちらからは連絡が取れない状況にある。


 両親が離婚をし、寂しい思いをしながら成長した沙織は、どこかでねじ曲がってしまったのか。小遣い稼ぎでちょっとだけのつもりが歯止めが利かなくなり、こうして今のような問題に直面している。表では良い子ぶっているだけに、この問題を相談できる相手などいないし、ましてや母親に打ち明けることもできなかった。


 悪いことをやっているという自覚はあった。しかしながら、男の相手をしている時は全てを忘れることができた。両親の離婚、実の母親が自分の担任であるというストレス、寮母に気を遣いながら暮さねばならない毎日――。それらを全て忘れることができた。父親が暴力を振るうような人間だったせいで、優しいお父さんに憧れを抱いていた。だから、援助交際で相手をするのも、ひとまわりもふたまわりも年が上の男ばかりだった。


 どうにかしないと――。当たり前ながら、だれが父親なのかも分からぬ子供を産むつもりはない。両親の離婚の経緯を見ているだけに、結婚に対する憧れのようなものは一切ないし、高校生でありながら母親になるなどあり得ない。堕胎するにしても金がいるし、これはいよいよまずいことになってしまった。いずれ訪れるかもしれないと思いながらも、ずっと見て見ぬふりをしてきたがゆえに訪れた結果なのかもしれなかった。


 その時、ふっと沙織の頭に悪魔のような考えが浮かんだ。子供ができてしまったことは仕方がないこと。ただ、その理由によっては、むしろ同情されるような方向に持って行くことすらできるのではないか。


 ――レイプだ。レイプされたことにすればいい。自分の意思ではなく、無理矢理に乱暴されて子供ができてしまったことにすれば、あの母親のことだ。堕胎の金を用意してくれるだろう。


 正直、これまで我慢に我慢を重ねてきた。両親の身勝手で片親になり、そして最低の父親と一緒に暮らさねばならなくなった。はっきり言ってしまうと、性に関して感覚が麻痺してしまったのも父親のせいだ。そう、実の娘に欲情をしてしまう、あの鬼畜のせいである。


 両親が離婚するまでは、それでも沙織自身が被害に会うことはなかった。父親の自分勝手で自己中心的な振る舞いは、全て母親のほうへと向けられていたのだから――。よって、離婚が決まって父親に引き取られることになった時は、この世の終わりではないかと思った。今度は自分のほうへと矛先が向いてしまうかもしれない。そんな沙織の予感は、見事なまでに的中してしまった。


 事が事であるがゆえに、誰にも相談することはできなかった。いや、例え勇気を振り絞って相談することができたとしても、無駄に外面だけは良かった父親だから、誰も信じてはくれなかったであろう。まだ女になっていない娘を、実の父親が夜な夜な抱きにくるなんて話を――。自分が泣きながら、父親を受け入れざるを得なかったことを。きっと誰も信じてはくれないのだ。


 その反動だったのか、それとも外面が良い父親の血を受け継いだのか。沙織は周囲に対しては、必要以上に明るく振る舞った。そうでもしなければ、精神的に潰れてしまいそうだった。こうして、夜な夜な性的虐待を受け続けてきた沙織は、どこかで感覚が麻痺してしまい、そして現在へといたる。


 こうなってしまったのは両親の責任だ。両親が離婚さえしなければ、心に大きなトラウマを負うこともなかった。幼馴染達と同じように、ごくごく普通の高校生になれたことであろう。ただ、悲しきことに父親の血をしっかりと受け継いでいた沙織は、そんな闇の部分を周囲には一切見せなかった。幼馴染達でさえ、裏で自分が援助交際を行っているなど知らないことであろう。外面だけは――悲しきことに外面だけは良かったから。


 自分の生い立ちはさておき、このまま子供を産むわけにはいかない。一人で育てていく自信もないし、なによりも高校生で母親というのは、世間的に体裁がよろしくない。無意識なところで世間体を気にしてしまうのは、やはり父親の血を引き継いでいるからなのだろうか。せっかく父親から解放されたというのに、心のどこかに確実に父親の存在があって、沙織を束縛しようとする。これは一生逃れることのできない呪いなのかもしれない。


 既成事実を作らねばならない――。その一心で沙織は早速行動を開始した。念のためにこっそりと産婦人科を受診したが、やはり妊娠は確定。もはや後には退けない。


 そこで思いついたのは、母親に妊娠を打ち明けると同時に、その証拠を送りつけてやることだった。例えば、ダイレクトなものでなくてもいいから、襲われる直前のような動画を撮影して、それを送りつけてやればいいだろう。母親は離婚をしたことにより自分に対しての負い目を感じている。なぜ、襲われる直前の動画が娘本人から送られてきたのか――そんな細かいところまで気は回らないだろう。騙し通せる自信があった。


 問題はどのようにして動画を撮影するかだった。当然ながら、自分一人ではどうにもならないし、自撮りでは幾らなんでも不自然すぎる。かと言って、誰かに頼むのもリスクが伴う。どこから情報が漏れ出してしまうか分からないからだ。


 動画の撮影に協力はしてくれるが、しかし絶対に口外をしない人間――。そんな知り合いは……いた。一人だけ。人間は自分にデメリットがあることは口にしないものだ。ならば、動画を撮影したことが明らかになった時点で、自身の立場が不利になってしまう人物に動画を撮影させればいい。


 同じクラスの平沢。学校では大人しい地味な生徒を演じてはいるが、実は近辺の界隈を牛耳るカラーギャングのリーダーだ。本人はそれを周囲に知られたくないのか、必要以上に普通の高校生を装ってはいるが、知られているところには知られているものだ。以前、援助交際を抜きにして個人的に相手にしたチンピラ崩れの男から聞いていた沙織は、本人が絶対に口外したくないであろうことを知っていたのである。


 放課後に平沢へと声をかけ、彼の弱みを盾にして話を持ちかけた。思っていたよりもあっさりと、彼は協力することに同意してくれた。そんなに周囲にばれることが嫌ならば、いっそのことカラーギャングのリーダーなどやらなければいいのに。トントン拍子に話が進んでいたからか、そんなことを考える余裕すらあった。


 平沢と打ち合わせをして、動画を撮影した。内容はこちらの要望通り、どうとでも解釈できるような曖昧なものとなった。


 そして現在、母親に妊娠した事実を打ち明けると共に、例の動画も送りつけて現在にいたる。あちらがどう出てくるかは分からないが、なんせ離婚したことで負い目のある母親だ。細かいことは気にせずに、まさか娘が自分を騙しているとも思わず、連絡を寄越すことであろう。


 自分でも、よくもこんなにねじ曲がったものだと思う。表向きは誰に対しても明るい浦沢沙織を演じておきながら、裏では闇を抱えた浦沢沙織が存在する。どちらが本物なのだろうか。いいや、間違いなく今の自分である。周囲の人間を利用して、まだ偽物の浦沢沙織を演じようとしている浦沢沙織こそが、本物の浦沢沙織だ。


 メールの返事はない。もしかすると、もう就寝してしまっているのかもしれなかった。全くもって――使えない母親だ。娘よりも自分を優先した挙げ句に離婚をし、そしてどういう運命の巡り合わせなのか、担任になった今でも、どこか負い目を感じないように、必要以上に教師として接してくる母は、きっと自分がこれ以上傷付きたくないだけなのであろう。


 スマートフォンのディスプレイに反射する自分の顔は、整っていながらどこか不気味なものがあった。普段は抑えつけている自分が、一人の時には遠慮なしに表へと出てくる。この先もきっと、二面性を抱えながら生きていくのだ。周囲が抱いている理想の浦沢沙織の仮面をかぶり、本物の浦沢沙織は息を潜めながら生きていく。


 がくりとこうべを大きく垂れた沙織は、慌てて顔を上げた。どうやらメールを待っている間に眠っていたらしい。スマートフォンの時計を確認すると、午前二時を回ったところだった。メールの返信はない。


 シャワーでも浴びようかとベッドから起き上がる。押入れの前まで歩み寄ると、中から引っ越しの際に使って余ったままだったビニールテープを手に取る。押入れの中に収納してある衣服ボックスから下着を取り出そうとしたのにだ。そのままハサミで程よい長さにビニールテープをカットした。自分はこれからシャワーを浴びる準備をしなければならないはずなのに。


 それは自分の意思ではなかった。シャワーを浴びようとしているだけなのに、どうしてビニールテープを用意し、椅子を引っ張り出して天井のはりにくくりつけているのか、自分でも分からない。抵抗しようとするが、その手は止まってくれなかった。


 ――なにが起きているのか分からない。分からないが、まるで自分の体が何物かの意思によって動かされているかのごとく、混乱する沙織を尻目に、着々と不吉な準備を進める。そこでようやく沙織は気付いた。自分に重なるようにして……それこそ二人羽織をするかのように手を動かす影の存在に。声を上げようとするが、なぜだか声が出ない。死ぬ間際の金魚であるかのごとく、口がパクパクと動くだけだ。


 体が言うことを聞かない。乗っ取られてしまったかのごとく、梁にくくりつけたロープの先端で輪っかを作った。ここまでくれば、自分の体が何をしようとしているのかは明白だった。この輪っかに首を通して椅子を蹴飛ばせば――首を吊ることになる。


 やめて。私はまだ死にたくない。どうして自分がこんな目に遭わねばならないのか。しかも、現実的には説明できないような形で死の間際に立たされてしまっている――。沙織は必死に抵抗した。しかし、両手は作った輪っかをしっかりと広げ、そこに首を突っ込もうとしている自分がいた。


 ふと、下腹部が熱を帯び、その熱源がぽとりと床に落ちた。それを見て沙織は息を飲んだ。体が小刻みに震えていたのは、必死に抵抗をしているから――という理由だけではなさそうだった。


 赤ん坊の泣き声が聞こえる。しかも自分の耳元で。床に落ちたそれは小指くらいの大きさではあったが、しっかりと人の形をしていた。うるさい、うるさい、うるさい、うるさい――。耳を塞ごうにも、両手はしっかりと輪っかを持ったまま動こうとしない。


 顎を突き出し、とうとう輪っかの中に自分の首が収まった。呼吸が荒くなる。心の臓が激しく脈打ち、額からは汗がこぼれ落ちる。そればかりではなく、目からは涙が、鼻からは鼻水が、そして口元からはよだれが垂れる。赤ん坊は泣き止まない。まな板の上の魚であるかのように、ぴちぴちと跳ねていた。


 恐れていた瞬間は、不意に訪れた。それこそ、沙織に散々の恐怖を与えようとせんばかりの間を空けて、心の準備さえもさせまいと、いきなり椅子を力強く蹴り出した。首に全体重が一気にかかり、これまでは当たり前のように許されていた呼吸なる権利が剥奪された。


 両足がばたばたと動いた。両手を輪っかにかけたまま、それでもなんとか抵抗をしようとした。赤ん坊の泣き声が小さくなる。視界もまた狭くなっていく。――浦沢沙織は、両手をだらりとぶら下げ、ただただ吊るされたタンパク質の塊と化した。


 スマートフォンの画面が明るくなり、勝手にメール画面が開かれた。宛先のアドレスは母親であり、勝手に画面には文字が打ち込まれる。


 ――お悔やみ申し上げます。


 メールの送信音が部屋の中へと響き、スマートフォンの画面は何事もなかったかのようにスリープ状態になった。


 この土地には古くからある伝承が残されている。善い行いをする者には慈悲を与え、悪しき者には祟ると言われる存在――お悔やみ様。それがただの戒めなのか、それとも実在するものなのか。未だに真相を知る者はいない。ただ、これから先もずっと口伝くでんされ続けるのであろう。


 ――そう、お悔やみ様は悪鬼に祟ると。


―完―

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お悔み様は悪鬼に祟る 鬼霧宗作 @onikiri-sousaku

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