第2話

【2】


 正直なところ、おばさんの家に向かえと葛西に言われた時は、間違いであって欲しいと思った。ずっと昔から知っている人であり、母親を早いうちに亡くしてしまった江崎にとっては、幼馴染達の母親というものが、自分の母親代わりのようなものだった。その中でも特に、江崎の生活に密接している人物こそが沙織の母親であり、だからこそ江崎は高校に入ってから自身を改めたのだ。はっきり言ってショックだった。


 おばさんは玄関口に立ち尽くしたまま動かない。口を開きもしない。ただただ悲しそうな目で江崎達のほうを見ているだけだ。


「おばさん。俺には貴方がお悔やみ様だという根拠が幾つかあるんだ。まず、クラスメイト全員に送られてきたメール……。あれを実行するには、クラスメイト全員のメールアドレスを知っているという前提が必要だった。そして、貴方ならその条件を満たしているんだ――。かぁこ、確か前に言ってたよな? さおりんなら、クラスメイト全員のメールアドレスを知ってるって。すなわち、さおりんのスマートフォンさえあれば、貴方にもクラスメイト全員のメールアドレスを知ることができた」


 葛西が佳代子のほうに向かって振り返ると、佳代子はなかば放心したまま頷いた。そこで、まだ両手が自由になっていなかったことに気付いた江崎は、慌てて佳代子に駆け寄ってロープをほどいてやる。もしかすると、おばさんと対峙することから逃げたかったのかもしれない。


「そして、決定的な証拠を程島が残してくれた。実は死の間際に、程島がしょーやんにメールを送っていたんだ。内容は『おく』と、たった二文字のみのものだった。これだけだと全く意味が分からないし、偶然にも『おくやみさま』と打ち込んでいる最中のものであるようにも見える。でも、実際は違ったんだ。程島は犯人の名前をしょーやんに伝えようとした……」


 葛西はそう言うとスマートフォンを取り出した。そして、それをおばさんに向かって突きつける。


「今のスマートフォンは、そのほとんどがフリック入力式になっている。実際にその画面を見ながら俺の話を聞いてくれると、理解が早いと思う」


 おばさんに向かって言った言葉なのだろうが、江崎はスマートフォンを取り出した。ポケットからスマートフォンを取り出した佳代子は、恐らく電源が落とされていたのであろう。スマートフォンを起動するところから始める。


 フリック入力とは、スマートフォンから導入された文字の打ち込み形式である。上段に【あ行】【か行】【さ行】、中段には【た行】【な行】【は行】、三段目には【ま行】【や行】【ら行】のキーが並ぶ。最下段は濁点や小文字を打ち込むためのキー、そして真ん中に【わ行】、右端に句読点や記号を打ち込むためのキーが並んでいる。


 これの特徴的なところは、それぞれの文字を打つ時にフリックを行うことである。【あ行】で例えてみると、【あ】を打ち込みたいときは、そのまま【あ行】をタップする。【い】を打ち込みたい時は【あ行】をタップした指を左へとスライドさせる。【う】の場合はタップした指を上へ、【え】の時は右へ、【お】を打ち込みたいなら下に指をスライドさせればいい。このようにすることで、限られたスペースで効率的に文字を打てるようにしているのが、フリック入力だ。


 ガラケーに慣れていた頃は考えられなかったことではあるが、一度覚えてしまうとフリック入力のほうが遥かに速く文字を打ち込める。今のスマートフォンユーザーのほとんどが、この入力方式に慣れていることであろう。もちろん、死の間際に江崎へとメールを送った遼子も、この方式で江崎にメッセージを送ろうとしたわけだ。


「程島は犯人の名前を打ち込もうとした。しかし、屋上から落下してしまい、死の間際であったために、あるミスをしてしまったと思われる。そのミスこそが、このダイイングメッセージをわけの分からないものへと変えてしまった――。では、そのミスとはなんだったのか? 俺はこう考える。程島は目測を誤ったんじゃないかって……。本来なら打ち込みたかったはずの文字列が、ひとつずつ左にずれてしまった。だからこそ、彼女のメッセージは伝わらないものになってしまった」


 葛西はそこで言葉を区切ると、江崎のほうへとこんなことを聞いてきた。


「しょーやん、フリック入力画面で【あ行】の右隣にあるのは?」


 葛西が何を言いたいのか全て理解したわけではなかったが、言われた通り【あ行】の隣のキーを答える江崎。


「そりゃ【か行】になるな」


 当たり前だが、フリック入力画面で【あ行】の右隣にあるのは【か行】になる。江崎もフリック入力画面を出しながら答えているのだから、間違いはない。


「じゃあ、かぁこ――。【か行】のさらに右隣にあるのは?」


「うん……【さ行】だよね?」


 江崎に遼子からメールが送られていたことは、犯人には知りえない情報だった。そして、この遼子からのメールこそが、犯人の正体を葛西に気付かせた決定打だったのである。たった二文字のメッセージが、これまで葛西の頭の中に混在していた情報を全て結び付けてくれたのだ。


「それじゃあ【あ行】における【お】を【か行】で打つと、どの文字になる?」


 おばさんの表情が強張こわばっていくのが見える。遼子のダイイングメッセージの存在を知らされ、そして目の前で自身の名前が浮き彫りにされるのだから、いい気分になる人間などいないだろう。


「――【こ】になるよな」


 葛西が言わんとしていること。そこに犯人の名前が記されていることに気付いた江崎は、葛西へと答えた後に「そういうことか」と呟き落とした。


「かぁこ、同じように【か行】における【く】を【さ行】で打つと?」


「うん……【す】になるよね?」


 葛西は佳代子の答えに力強く頷いた。つまり、遼子は『おく』と文字を打っている最中に力尽きたのではなく『こす』と文字を打っている最中に力尽きてしまったのだ。そして、この『こす』に続くであろう文字ならば心当たりがある。


「程島が正確にメールを打てていたならば、もっと早く犯人にたどり着けたのかもしれない。だが、彼女が最期の力を振り絞ったからこそ、こうして真相にたどり着くことができた。恐らく、この文字列に続く文字は『濁点』と『え』だと思う。これを続けて読むと――俺達の良く知っている人物の名前になるんだよ」


 江崎、葛西、そして佳代子の視線がおばさんに向けられた。おばさんは困惑したかのように首を横に振った。


「これまでは当たり前のように【親しき仲にも礼儀あり条約】を守ってきたけど、紛らわしいからいつも通りの呼び方で呼ばせて貰うよ、おばさん――」


 葛西はそう言うと、一呼吸を置く。沙織の母親であるおばさんが持つ、もう一つの立場のほうの名前を吐き出すために心の準備が必要だったのかもしれない。


「いいや、……」


 そう、江崎達の目の前にいたのは、沙織の母親であると同時に、三年一組の担任でもある糸井梢いといこずえだった。


 当然ではあるが、担任の先生が沙織の母親であることは、江崎はもちろんのこと葛西と佳代子も知っていた。他のクラスメイトはきっと知らないとは思う。沙織が学校で母親の話題を出すのを嫌い、極力話さないようにしていたから――。まぁ、離婚によってバラバラに暮らすことになった母親が担任だなんて話、喜んでしたがる娘などいないだろう。

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