第3話

 教室に戻っても、その雰囲気は変わらなかった。みんな、必死に沙織のことを忘れようとしている――と、勝手な解釈もしてみた。人当たりが良く、クラスでも目立った存在であった沙織の死は、その差はあれどクラスメイトの心に闇を落としたに違いない。そんな簡単に、浦沢沙織という存在が消えるわけがない。少なくとも、葛西はそう思いたかった。


 葛西が自分の席へと座ると、溜め息の増えた佳代子が、その隣の席へと座る。葛西の後ろの席には江崎がどかりと腰を下ろした。切っても離せない超腐れ縁であるがゆえに、6月の頭にやった席替えでも、ごらんの有様だ。それは、もう一人の幼馴染も例外ではなく、葛西の前の席には白い花瓶にさされた菊の花が、ついさっき摘んできたと言わんばかりに、水々しく咲き誇っていた。


 葛西を経由して、授業中に佳代子と手紙を何通もやり取りしたり、休み時間になると振り返って葛西へと話しかけてきた沙織は、もういない。こんな言い方をしたくはないが灰になってしまった。そこにいたはずの人間が、全ての痕跡を消して存在しなくなる。人の死とは、こんなにも虚しく、消失感にあふれたものなのであろうか。


「おい、お前ら席に着け! さっさとホームルームを終わらせるぞ」


 がらりと教室の引き戸が音を立て、ジャージ姿の関谷が入ってくる。がっしりとした体格に無精髭。いつもと同じジャージを着ている関谷の姿に、教室のどこかから溜め息が漏れた。


「今日も関谷かよ――。あいつ、このまま担任に成り代わる気じゃねぇだろうな」


 真っ先に悪態をついたのは江崎だった。とにかく江崎と関谷はそりが合わないようで、江崎の口から関谷に対する好感的な意見を聞いたことがなかった。かくいう葛西も、教師という立場を利用して横柄に振る舞う関谷は、どちらかと言えば嫌いではあるが。


 帰り際のホームルームは、実に簡潔に済まされた。連絡事項といえば、今後の授業の日程くらいである。それこそ関谷は沙織のことなどには一切触れようとしなかった。生徒を気遣って、あえて触れないようにしたのではないだろう。余計な仕事が増えていい迷惑だ――投げやりに連絡事項を通達する関谷からは、そのような雰囲気が伝わってきた。


 ホームルームが終わり、それぞれが帰り支度を始める。気の早いクラスメイトが教室から出て行き、ちらほらと空席が目立ち始めた。佳代子は部活のことで少し用事があるということで、葛西と江崎は一足先に教室を後にして、校門の前にて佳代子を待つ。


 帰宅する他の生徒を尻目に、江崎は校門へと寄りかかり、葛西は腕を組んだまま仁王立ちで佳代子の姿を待ち続ける。下校をする生徒達が、葛西達の目の前を通り抜け、そしてそれぞれの帰路に着く。潮風が頬をなで、うみねこの鳴き声が聞こえる。これが曇り空ではなく、カラッとした晴天ならば、どれだけ気持ちいいことか。


 ――海見灘かいげんなだ高等学校。名前の通り海が見え、町では比較的高い場所にある高等学校。葛西達の学び舎だ。進学校でもなんでもない、ごくごく普通の偏差値の、ごくごく普通の学校である。凪町はもちろんのこと、周囲の市や町から生徒が集まっている。


 一学年の人数はおおよそ百十数人程度で、クラスは一組から三組まで分けられている。全校生徒を合わせても五百人までは届かない。近隣にも高校が幾つかあり、そちらのほうが栄えているせいか、倍率もそこそこ。下手をすると定員割れする時もあるそうだ。海しかないような港町の学校よりも、飲食店や寄り道ができるスポットの多い市街地のほうに人気が集中するのは、仕方のないことなのかもしれない。学校は勉学に励むためだけに通うものではないのだから。


 行こうと思えば葛西も市街地の学校に入学できる頭はあった。それでも地元の高校に進学したのは、単純に近場だからである。熾烈しれつな受験戦争をしている人達には申し訳ないが、良い高校に入って良い大学に行き、大手の企業に勤めることに興味がなかったのだ。そもそも、学歴なんてものは会社に入るまでの限定的な片道切符にすぎない。むしろ、余計なプライドばかりが大きくなって、邪魔になるだけだ。勉強ができるのと頭が良いのとでは次元が違う。とにかく、学歴が一人歩きをするような生き方はしたくなかった。もっとも、高学歴で活躍している社会人も数多くいるわけであるし、あくまでも葛西の価値観での話だ。それが正しいかどうかは分からない。


「あはは……ごめんごめん。お待たせぇ」


 どれくらい待っただろうか。ようやく校門へとやって来た佳代子は、いつものような気の抜けるような笑いかたをしながら、葛西達のほうへと駆けてきた。外面は取り繕っているものの、明らかに元気がないと分かるのは、葛西が佳代子と超腐れ縁だからなのかもしれない。


「おーし、行くぞ。かぁこ、今日はご馳走してやる」


 江崎は江崎なりに、佳代子に気を遣っているのだろう。わざとらしく声を張り上げると、佳代子の頭をぽんぽんと叩いた。


「――本当?」


 佳代子の表情が、ほんの少しばかり明るくなった。いつものように無邪気に跳ねて喜ぶような真似はしなかったが、多少は喜んでくれているようだ。


「あぁ、たっちんの奢りだからよ。好きなもんを食っていいぞ」


 そう言って、さっさと歩き出した江崎の背中に、葛西は慌てて文句をつける。


「しょーやん、俺が一人で奢るなんて一言も言ってないぞ」


「はぁ? かぁこにご馳走してやろうって言い出したのは、たっちんだろ? 俺は奢るなんて一言も言ってねぇし」


 真っ先に提案してきたのは江崎だというのに、ここでまさかの手の平返しである。確かに、江崎が奢るとは一言も言っていないが、これではまるでトンチ合戦だ。さらに言い返してやろうとも思ったが、佳代子の申し訳なさそうな眼差しに気付いて、葛西は折れることにした。ここで佳代子に余計な気遣いをさせてしまったら本末転倒である。


「あぁ、そうだったな――。今日は俺が出そう。かぁこ、好きなものを食べていいからな」


 そう言ってやると、佳代子はほっとしたかのように溜め息を漏らし「うん!」と、笑みを浮かべた。少し垂れ目であるがゆえに、笑った時は小動物のように見える佳代子。しかしながら、そこには少しばかりのかげりが見えたような気がした。


 ここは自分が大人にならなければならない。まんまと江崎の口車に乗せられたことに、ほんの少し後悔をしながらも、それで佳代子が少しでも喜んでくれれば良いと、無理矢理に自分へと言い聞かせた。後で財布と相談をしなければならないようだ。江崎も便乗するつもりに違いないから。


 学校を後にすると、海に向かって坂を下る。その先はもう駅前通りだ。こんな港町にも辛うじて電車が走っており、小さいながらも有人の駅がある。そこを中心として、ちょっとだけ周囲が栄えているのだ。もっとも、個人経営のスーパーや食堂、そしてこれから向かう富々があるくらいなのだが――。申し訳程度に、これまた個人経営の衣料店や床屋、酒場などもあるのだが、やはり市街地の栄え方には逆立ちしてもかなわない。


 この高校に通っている以上、学校帰りにチェーン店のハンバーガーショップやカフェショップに寄ったり、小洒落たファッションビルに寄ってウインドウショッピングをしたりなんてことはできない。あえて対抗するのならば海が近いということと、新鮮な海鮮物を食べられることくらいか。学校帰りに食堂に寄って、刺身を食べながらお喋りに興じるとは、中々に斬新な青春である。そう考えると、学校帰りに寄る場所としては、富々はけっこう洒落たスポットなのではないだろうか。


 駅前はメインストリートということもあり、同じ高校の制服がちらほらと見受けられた。今日は午前放課となったわけだし、普段よりも学校が終わる時間が早い。きっと市街地のほうへと遊びに出る生徒もいることであろう。喪に服せとまでは言わないが、沙織の死をないがしろにされているみたいで、少しばかり悲しかった。もっとも、周りから見れば、自分達も学校帰りに寄り道をする高校生にしか見えないのであろうが。

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