Beautiful Madness
話を聞き終えた竹寺は、長い間沈黙を貫いた。
織子も植木も無言。ロボもまた発言を行わない。沈黙がラボを支配していた。
竹寺は突然ラボに現れた狂人。ロボによって回復した彼女に、植木が死人の名前と身分を与えた。それ以前のことは全くわからない。
設定されていない――と言ったほうが正確か。竹寺は以前にそんなことを口走っていた。
いずれにせよ、竹寺がこの世界のものではないことは確かだ。竹寺は消失したアメリカ大陸との交信を可能とした。
「アメリカ大陸は、発狂したと考えていいのですか」
沈黙を破ったのは織子。口を噤んで必死に何かに耐えている様子の竹寺の肩を優しく叩き、植木と向き合う。
「面白い物言いですね。ですがそう言うこともできるのが現状です。アメリカ大陸全域は、一足先に発狂後の世界へと移行した――と僕は考えます」
「つまり、マドンが存在する状態になっているということですか」
「話が早くて助かります。マドンが存在する区画は現行の人類では観測することができない。あらゆる物質が意識を持つ領域を観測しようとすれば、人類の感度はオーバーフローしてしまいます」
「なら、私は――」
竹寺がか細い声を発する。
「竹寺くんはマドンでできています。肉体と意識の組成全てにマドンが介在している。この世界で唯一、発狂後の世界を観測できる存在と呼べるでしょう」
容赦のない通告。
竹寺はこの世界の存在ではない。マドンの存在を証明している時点で、彼女は発狂後の世界の人物だ。
「さて、マドンの研究の中で僕は面白い事象を観測しました。和泉さん、あなたも何度か感じたことがあるはずです。室温の上昇を」
確かにこのラボの中で、急激な温度変化を感じたことはある。
「マドンが活性状態となる際、つまり発狂に近づく時に、マドンは意識熱とでも呼ぶべき熱を放射します。ですが、これは通常は観測できません。体感で室温が変化したと感じても、実際の室温に変化は見られない。なぜか。これが脳室温の上昇だからです」
「脳室の温度という意味ですか」
「脳の室温という意味です」
どちらにせよ意味はくみ取れない。
「マドンの活性によって放射される意識熱を、ロボがそう呼んだので使っています。この狂気の熱量が高まった状態と、励起していない状態のマドンを量子化し、スペクトル投影した時に現れる輝線を比較すると、熱量が高いほうのスペクトルが赤方偏移していることがわかります」
織子はうっすらと汗をかいていた。室温が高くなってきている――これも脳室温とやらなのか――せいもあるが、植木の理論がどの程度破綻しているかがわかりかねていたからである。植木の言ったような実験を行えるような設備はこのラボには見当たらない。大学の施設を使ったとしても、もともと観測できないと言っていたはずのマドンの輝線を観測することは不可能に思える。
この男の並べ立てている理論は、全て脳内の妄想――それこそ脳室温が高くなりすぎたために現出したものなのではないかという疑念。
「赤方偏移はドップラー効果によって起こります。救急車のサイレンが有名な例ですね。スペクトルの赤方偏移は、遠ざかっていくドップラー効果によって起こります。脳室温が高くなればなるだけ赤方偏移する。脳室温が高くなればなるだけ、そのマドンは遠ざかっていくことになります。そして、このマドンが遠ざかっていった果てこそが、発狂後の世界なのです」
どこまでだ。どこまで狂っている。
自分に専門知識がないことがここまで歯がゆいとは。織子の知識では植木の理論が完全に破綻していると喝破するには足りない。狂っているとはわかる。だがどこからどこまでが狂っているのか、正確に指摘しなければ植木は止まらないだろう。指摘したところで、さらに狂った理論を重ねて突き進んでいくことはわかりきってはいるが。
「赤方偏移はもはや止まらない。手始めにアメリカ大陸が向こうへ行ってしまった。やがて世界中が発狂後の世界へと移行するでしょう。ですが、あがくことはできる」
植木はかつて竹寺の頭に貼り付けた電極パッドと、そこに伸びるケーブル類をテーブルの上に置いた。
「このまま、この世界は新しい、発狂した世界へとまるごと塗り替えられてしまうでしょう。作り替えられた世界で僕たちがどうなるのかはわかりません。だから、先に楔を打ち込んでおきます」
「はいよ。脳室温バトルの稼働開始だな」
ロボの言葉とともに、ラボの室温が急激に上がり始めた。
「脳室温の上昇。これこそが今この世界と、発狂後の世界に共通した現象です。現行世界で脳室温の上昇が進めば、世界は発狂へと進みます。では、発狂後の世界で脳室温の上昇が進めばどうなるか。世界はさらなる発狂へ向かったとして、その行き着く先はどこでしょう。発狂に発狂を上書きして、世界は新たな発狂を形作るのでしょうか。いいえ。お気付きでしょうが世界は円環になっています。世界の発狂に脳の発狂が合わさればそれすなわち正気へと返るわけです」
ここまで来ると知識云々はもはや関係がなかった。単純に植木が狂っているとわかる。
「和泉さん。あなたがここに来たのは、世界の意思だったのでしょう。あなたは発狂しない。発狂後の世界へと向かうこともない。なので僕はあなたに、脳室温バトルの運営をお願いしたいのです」
「その脳室温バトルというのは」
「僕がこの日のため、来たるべき発狂後の世界のために開発した、ホビーゲームです。脳室温の上昇量を対戦相手と競うだけの単純な遊びですが、無論、目的はほかにあります」
「――脳室温の上昇」
「はい。発狂後の世界でこの脳室温バトルを一大ムーブメント化し、大規模な脳室温の上昇を起こします。発狂した世界においての発狂は困難を極めるでしょうが、やがて、脳室温の上昇が世界の殻を破るまでに至った者が現れた時、発狂後の世界からこの世界への脱出が果たされることとなるでしょう」
話し終えた植木は小さな笑みを浮かべながら、スマートウォッチをこつんと叩く。
「ロボも今までありがとう。これから大変だと思うけど、和泉さんをサポートしてあげてほしい」
「ドクトル――」
竹寺が静かに前に出る。
「ああ。竹寺くん。君もお疲れ様でした。あるべき場所へ帰る時が来たようだ」
織子はとっさにスマートフォンを取り出して世界地図を開く。アフリカ大陸――消失。南半球――消失。ユーラシア大陸――消失。北海道――消失。九州――消失。間もなく、最後に残った日本列島が消失するところだった。
「私は、そちらには行きません」
「――なに?」
植木が眉を顰める。
「この世界でドクトルに正気にしてもらった以上、私はこの世界の理で動いています。もともと私が発狂していて、今も発狂していたのだとしても、私はこの世界に触れてしまった。ドクトルは言いましたよね。発狂に発狂を上書きしたら正気に返る――って。だったら、私は発狂した世界からの最初の脱出者になります」
毅然とした竹寺の言葉にしばし呆然としたのち、植木は朗らかに笑った。
「そうか。そうか。わかりました。どうやっても、僕に死者は取り戻せないらしい。では、君と和泉さんの二人、それとロボで、脳室温バトルの運営をよろしくお願いします」
織子のスマートフォン上の地図から、全世界が消失した。
「なぜ、私なんだろか」
植木が消えたあとのラボで、織子はぽつりと呟いた。
置いていかれた。世界に。狂気に。無数の人々に。
喪失感というよりは、気疲れに近い。
ラボを出て、大学の構内を歩く。織子の知っている大学の建物の上に、見知らぬ建造物がオーバーレイ表示されていた。その皮膜を挟んだ向こう側には、無数の人々が歩いていた。だが彼らは織子を認識することはない。織子には触れることすらできない。
どこに行っても同じだったので、ラボに戻ってきた。
竹寺がぼんやりと植木の使っていた椅子に腰掛けている。
「和泉さん、私、思うんです。和泉さんが発狂しなかったんじゃなくて、和泉さんは、発狂後の世界で発狂していたんだって」
「それは――」
「世界が塗り変わったんです。時間とか、因果律とか、関係ないんだと思います。だから、和泉さんは世界の敵だった」
織子は大きく息を吐く。そうか。織子はどちらの世界にとっても敵だった。発狂へと向かった世界。発狂したあとの世界。発狂を拒む世界。発狂を歓迎する世界。どんな世界においても、織子の正気が担保されていることは不都合を生む。
だから織子は取り残された。
「では、私たち二人、互いに脱出者ということですね」
「はい。新しい脱出者が来るのを待ちますか」
頷く。狂ってしまった世界から脱出してくる者たちを迎えるのが織子たちの役割らしい。もしそれが待ちきれないのなら、世界の脳室温を疾く上昇させるしかない。
織子は発狂倶楽部くんロボに向かって、宣言した。
「じゃあ始めようか。脳室温バトル」
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