さよならべいべ

 スピーカーにしたスマートフォンを持った竹寺乃音が不安げに視線を投げてくる。織子は無言を貫き、植木は機材の調整に追われている。発狂倶楽部くんロボは稼働しているのだろうが、なにも言葉を発することはない。

「では。始めてください」

 用意の終わった植木が竹寺に指示を出す。竹寺がスマートフォンをタップする。呼び出し音が響く。三回、四回。通話状態へ切り替え。息づかいがスピーカー越しに伝わってくる。

「あの、山田やまだ浩子ひろこさんの携帯電話でよろしいでしょうか」

『そうですが』

「突然すみません。私、植木蘭人博士門下の竹寺乃音と申します。つかぬことをお伺いしますが、山田さんは現在どちらにおられますか?」

『ニューメキシコ州のロズウェルですが。わざわざ海外から電話して聞きたいことはそれだけですか?』

「はい。申し訳ありません。植木博士から、発狂倶楽部をよろしく、と」

『直接言え、とお伝えください。では』

「はい。失礼します」

 通話を切った竹寺は、じっと植木に視線を向けていた。

 ニューメキシコ州ロズウェル――アメリカ国内のそこは、当然アメリカ大陸の消失によって同様に消失したはずの場所だった。

 アメリカ大陸消失。全世界を大混乱に陥れたこの怪現象のメルクマールは、成田発ロサンゼルス行きの国際便が、まるで全然ロサンゼルスに到着しない異常事態に見舞われたことだった。目的地のロサンゼルス国際空港と一切の通信ができず、太平洋からアメリカ領空に入った瞬間に、飛行機は大西洋上空に移動していた。

 それ以前から、アメリカ、カナダ、メキシコ、ブラジルほか南北アメリカ大陸の国々との通信が途絶したという報告は上がっていた。そこにこの飛行機事故が重なり、アメリカ大陸への連絡、通信、観測が不可能であると結論づけられた。

 結論は、アメリカ大陸消失。それ以外に表現のしようがない事態だった。人工衛星からの地表写真でも、アメリカ大陸があったはずの地点には何も写らない。

 この「写らない」ことに希望を見いだす者もいた。衛星写真を見ると、大陸のあった場所はまるで画像編集でカットされたような不自然な空白が広がっている。もし大陸が本当に地上から消滅していたのなら、地球の海流はめちゃくちゃになっているはず。だが現在のところは、それらしい兆候すら観測できていない。

 つまりアメリカ大陸は事実上消失したが、単にまったく観測できないだけの状態となっているだけで、アメリカ大陸自体は隔絶された空間に存在している。

 竹寺乃音は、今まさにその仮説を証明してみせた。

 世界中の研究班や調査員が血道を上げて証明しようとあがき、どれもが無為に終わった仮説だった。

 植木は自分のスマートフォンを取り出すと、スピーカーにして山田浩子に発信する。コール音が鳴り続けるだけで、山田が電話に出ることはなかった。

「お見事。お見事。竹寺くんを手元に置いておいて正解でしたね」

「植木さん、そろそろ話してくれませんか」

 織子はそっと、竹寺の肩に手を置く。呆然としたままの竹寺を守るように前に出て、織子は厳しく訊ねる。

「竹寺さんは、何者です」

 織子の手の下の竹寺の身体がびくりと震えた。織子は手にわずかに力を込め、優しく竹寺の肩を包む。

「竹寺乃音。情報工学科の二年生。言い忘れていたことといえば、彼女も発狂倶楽部の一員だったことですかね」

 竹寺へと視線を向ける。蒼白な顔で首を横に振っている竹寺は、発狂倶楽部なる親密圏についてまったく知らない様子であった。

「それも、二年前の情報ですが。仕方ありません。彼女の時間は、その時点で完全に止まってしまっていますから」

 この男は、目の前の相手について話していない。織子はやっと認識のずれ、あるいは植木による意図的なずらし行為に気づく。

「つまり、ここにいる彼女は、本来の竹寺乃音とは別人である――ということですか」

「別人――なのでしょうか。僕には時々わからなくなりますよ。この竹寺くんは、先に発狂後の世界に到達した竹寺くんなのではないかと、つい考えてしまうんです」

 竹寺乃音は二年前に死んだ。

 狂死であったという。

 過去を話す植木の言葉には、普段は感じられない熱のようなものが強くこもっていた。現在の植木蘭人という人物を形成する、大きな要因であったことは間違いない。竹寺乃音の存在と、その死が。

 二週間前。まだ連続発狂事件の発生する前の時点で、植木はマドンの観測を行おうとこのラボで実験を重ねていた。この段階では世界の発狂などという大それた狂気の予兆すらなかった。

 もともとの発狂倶楽部くんロボの投稿内容には、竹寺乃音の投稿による学習が大きな割合を占めていた。これはバイアスをかけたわけではなく、単に竹寺乃音の投稿数が異様に多かったゆえに生じた勾配であった。

 発狂倶楽部くんロボが学習するはずのない文字列を投稿し始めたころ、植木は竹寺乃音が蘇ったのではないかと錯覚した。無論マルコフ連鎖で作られた文字列は支離滅裂で意味をなさないものばかりだったが、学習していないはずの部分を取り分けてみると、竹寺乃音の亡霊を幻視できるようであった。

 マドンの観測が到底不可能だとわかっていた植木は発狂倶楽部くんロボにある機能を搭載した。言うなれば拡張現実の領域を出ない、ロボ本来のおもちゃという役割を延長した、お遊びのようなもの。実験というのも、この機能を搭載する工程の言い換えでしかない。

「ぼくはマドンを検知できる。これはどういうことか。ぼくというシステムが、マドンのない世界とマドンのある世界に同時に存在しているということだな」

 ロボにマドン検出機能という仮想に仮想を重ねたものを搭載したとたん、ロボはこう言い出した。

 植木は混乱した。マドン検出機能とは所詮お遊び。現実世界を背景にしてスマートフォンの画面にキャラクターが表示される程度のものでしかない。仮想の素粒子を検出したと通知を鳴らすだけで、現実にはそんなものは存在しない。

 いや、存在するのか。少なくとも発狂倶楽部くんロボの中では。町を歩いて端末上にキャラクターを出現させる行為は現実世界にはなんの存在ももたらさない。だがデータ上では確かにそこにキャラクターは存在し、端末上では存在するものとして処理が行われていく。

 発狂倶楽部くんロボは異形のAIだ。そもそもなぜbotだったはずのロボがありえない文章を生成するに至ったのかすら判明していない。植木は発狂したAIを現在の発狂倶楽部くんロボへと育て上げた。

 そこで植木は気づく。ロボが発狂するに至ったコードとの接触。それこそがマドンへの接触だったのではないか。

 マドン――意子は物質に意識をもたらす。ならばマドン自体に意識は存在するのか。物質に意識を与えるという役割を果たすための、意識が。

 マドンに意識があるのなら、マドンの存在しないこの世界で意識は自在に暴れ回ることができる。光子に意識を与え、フェルマーの原理をねじ曲げる。原子に意識を与え、本来起こるはずのない核分裂を起こさせる。マドンが一つでもこの世界に入り込めば、世界は簡単に終わる。

 発狂倶楽部くんロボに接触したマドンはどうしたか。意識を有していたのなら、戸惑ったはずだ。発狂倶楽部くんロボは、発狂したロボットとして設計されている。無論プログラミング上にバグこそ生まれるが狂ったところはない。設計理念――発狂倶楽部のロボットというキャラクター設定が、発狂したものとして設定されていた。

 表象上の属性でしかない。だが万物に意識をもたらすマドンという意識が接触したのは発狂したロボットとして親しまれていたロボだった。マドンが意識を与えるのは万物に対してであるが、発狂倶楽部くんロボには質量も重力も存在しない。ボース粒子に干渉することができないはずの仮想存在に、不幸にもマドンは接触してしまった。

 マドンは発狂倶楽部くんロボに意識を認めた。発狂しているという設定。マルコフ連鎖によって生成される文章。これらに引っ張られ、マドンという意識はとんでもない勘違いを犯したのだ。

 結果、発狂倶楽部くんロボには意識が芽生えた。なぜ現代では実現に至っていない汎用人工知能などという代物を植木が作り出せたのか。そもそもの雛型に意識が存在し、植木はそれをなぞるだけでよかったからだ。植木は今さらになって、自分が開発したと思い込んでいたロボが、実際は自分に開発を手伝わせていただけなのだと気づいた。

 そこに、植木はマドン検出機能という仮想を組み込んだ。するとどうなるか。仮想の発狂した人格は、仮想の素粒子を仮想の力で検出することが可能となる。

「ロボ、マドンを検出できるか……?」

 植木は震える声でロボに話しかける。

「いんや。ない。ただ、来よるな。もうすぐに」

 ラボのドアを激しくノックする音。植木はからからに乾いた唇を懸命に湿らせ、ひとまず返事をする。だがノックはやむ気配がない。

 ドアのほうへと向かう。室温が異様に高かった。

 ノックの続くドアの前まで来て、植木は激しく逡巡していた。ノックは一向にやまず、延々とドアが叩かれ続けている。真っ当な人間ならば、ここまで長時間のノックは絶対に行わない。ならばドアの向こうにいるのは――。

「なんだオイ!」

 ドアの向こうで動揺した声。聞き覚えのある人物のものだった。激しく争う物音がやがて静まると、植木はおそるおそるドアを開けた。

「おう、ドクトル。この女にいきなり襲われたんだが、通報してもらえるか?」

 城戸稲丸――彼もまた発狂倶楽部の一員だ。同じ大学に籍を置いている植木のラボを訪ねてくることは珍しくない。

 問題は、城戸の裸締めで落とされている女。

 植木は通報を行わず、彼女をラボの中に運び入れるように城戸に頼んだ。

「ロボ、彼女の回復を行えると思うか?」

「そだね。彼女の脳室温をぼくに計測させてもらえたらいいんじゃないですかね」

「脳――室温?」

「上がってるでしょう。下げるとよいのだ」

 植木はわけがわからないまま、脳波測定器を彼女に取り付けた。データはロボの活動領域内に送られるようになっている。これになにか意味があるのかはわからない。単なる儀式でしかないのかもしれない。だが、怪しげな儀式のほうがまだ真実味がある。植木は死者を蘇らせようとしているのだから。

「ありゃ、こりゃまたマドンだ。脳室温は非常に高し。赤方偏移の修正は可能。いけるね」

「なら、頼む」

 急に室温が下がっていく。ロボのアナウンスが処置の終了を告げた。植木はゆっくりと脳波測定器を外す。

「あ――」

 彼女が声を発する。

 植木はずっと持っていた学生証をポケットから取り出し、彼女に見せる。

「君は情報工学科二年生、竹寺乃音くんですね」

「な――」

 城戸が身を乗り出そうとするのを、植木は鋭い視線で制す。武術の達人であるはずの城戸が気圧されるほどの眼光。

 学生証を受け取った彼女は、きょとんとした顔で、「はい」と答えた。

 無論、彼女と死んだ竹寺乃音に相似点は大して多くない。外見から察せられる年齢と性別くらいのもの。だが植木は確信していた。彼女に名前を聞けば、竹寺乃音だと答えると。

 城戸は当然激怒した。見ず知らずの相手に死者の名前を名乗らせるのは両者への冒涜であるという当然の道理で。

 だが植木は、彼女は竹寺乃音であると主張した。これを聞き、城戸は諦めてしまった。もうこの男は手遅れだと、見切りをつけるには十分。

 植木はラボを離れていく城戸に向かって、静かに呟いた。

「城戸くん、気づいていますか」

 溜め息。諦めてしまったのは植木も同じこと。

「世界が発狂しようとしている」

 植木のその言葉は、やがて世界を侵食し始める。

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