世界が終わる瞬間

「それは、あなたが目指す世界ですか」

 織子の問いかけに、植木は急に力が抜けた表情を浮かべてだらしなく笑った。

「まさか。まさか。僕はこれでもこの世界を守ろうと懸命に頭を働かせているんですよ」

「博士は妙なところで律儀だもんでいかんわ」

 ディスプレイの中のロボが頓狂なモーションを見せながら発言する。

「マドンというのは、あくまで頭の中に思い浮かべる仮想のボース粒子なんです。そうでなければいけない。これが存在することになれば、世界は僕たちにとってあまりに都合がよすぎるものに成り下がる」

「あなたは汎心論を掲げているのでは?」

「ええ。ただこれはどちらかといえば信仰の問題です。僕が信じるものがその通りに存在し得ることは、僕の理念に反する。インテリジェントデザインを肯定する生物学者は、キリスト教徒であってもいないはずです」

 だが、植木はマドンの存在する世界を認識している。発狂後の世界。

 いや、だからこそ発狂した世界と呼んでいるのか。

 マドンの存在とはすなわち狂気そのもの。植木にとって、マドンが存在したこととなった世界は、発狂したと呼ぶべき世界である。

 では――疑問は、一番最初へと立ち返る。

 世界が発狂しようとしている――こう叫んでいる者たちは、なぜ発狂するに至ったのか。

 植木によれば彼らは発狂した世界に接触したという。しかし、そもそも発狂した世界というものを定義したのは誰なのか。マドンの存在する世界。マドンの発見。発狂倶楽部くんロボ――。

 いやな汗をかいていた。織子は世界の敵らしい。どの世界の敵なのか。

「なにかよくないことを考えておられるようですが」

 植木の柔らかな言葉に思わず身体を強張らせる。

「発狂に、順序は関係ありません」

 言い訳――ではない。極めて冷静な、狂気の開陳。

「僕がマドンという仮想ボース粒子を発見したこと。世界が発狂に向かっていること。発狂後の世界にはマドンが存在すること。これらは、実のところまったく関連性のない事柄なんです」

「関連性が、ない……?」

「まさにそこが難物でして。僕も最初は、自分がマドンなどというものを思いついたせいで世界が発狂に向かったのではないかと、思い上がったこともありました。ですが考えてもみてください。我々が相対するのは発狂した世界です。そんなもの相手に、因果関係を持ち出してもまるで益体もないではありませんか」

「それは――楽観が過ぎるのでは」

「楽観は必要なんです。狂気を相手取るなら、なおさら。でなければ、あっという間に持っていかれる」

 ずっと力の抜けた言葉を発していた植木は、そこだけは力を込めて念押しした。

「もしここで楽観できなければ、僕は世界を発狂に導くマッドサイエンティストとしての役目をおっかぶせられることになります。それは御免こうむりたい。正しい意味で、役不足です」

 随分と不遜な物言いだ。役者としての自分はもっと上等であるという自負が植木にはある。

「ではあなたは、世界を救う側だと?」

 植木はからからと笑った。妙に空虚に響く笑い声がラボにこだまする。

「いえ。いえ。僕ひとりがどれだけがんばっても、世界を救うなんていうことは、とてもとても。それこそ思い上がりですよ」

「博士はね、発狂したあとの世界を救う側なんだね」

 ロボが言葉を挟むと、植木は少し疲れたように笑う。

「狂った世界を修正することが、あなたの目的なのですか」

「いや。いや。仕方がないので正直に申し上げましょうか」

 ひと呼吸置いた植木のスマートウォッチが振動する。

 織子も自身のスマートフォンが鳴動していることに気付き、電話に出る。

『和泉さん、ニュースを見ましたか』

 電話の相手は小谷信理社会部部長だった。

「いえ。なにかあったんですか?」

『正確な情報はまだ届いていないようなのですが』

「アメリカ大陸が消失したそうです」

 植木が言った直後に、小谷も同じ文言を繰り返した。

「アメリカ……大陸?」

 事の次第が呑み込めていない織子をよそに、植木は落ち着き払ってキーボードを操作していた。それに合わせてディスプレイ内のロボが動き回る。電話の向こうの小谷の声が遠い。

「話の途中でしたね。簡潔に言いましょう」

 植木はなんの感情も込めずに、事実を事実として伝える。

「世界を救う方法は存在しません」

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