質量とエネルギーの等価性

 昼前になってラボに現れた植木に、織子は厳しく詰め寄った。

「待って。待ってください。なにをそう慌てておられるのか」

 昨夜からラボにこもって、植木の到着を今か今かと待っていた織子の怒りと混乱に、さしもの植木もたじろぐ。

「大丈夫。大丈夫です。きちんとモニターしてましたから。なにがあったのかも承知していますし説明もきちんと行います。だから暴力行為はノー」

 無言で目を燃やして詰め寄られれば、確かに殴られると思うだろう。織子にそんな気は毛頭なかったが、話がスムーズに進むようなのでよしとする。

 織子がラボ内に置かれた丸椅子に腰を下ろすと、植木は大きく息を吐いて胸を撫で下ろす。

「デートは失敗でしたか」

 植木の言葉に、織子はまた睨みを利かす。

「いえ、これは和泉さんの感想をお聞きしたいだけのことなんです。僕はロボを使ってお二人をモニターしていたが、それも完璧じゃない。最後には端末の電源が切れていましたし」

「あそこまで電池を食うとは思いませんでした」

「さすがに現行のスマートフォンに常時汎用人工知能を走らせ続けるとなると、どうしてもバッテリーの問題は生じます。そちらのスマートフォンからロボを抜いておきましょうか」

 織子は無言で自分のスマートフォンを差し出す。植木は入れた時と同じように自身のスマートウォッチを織子の端末に軽くぶつける。画面ロックを解除した織子のスマートフォンのホーム画面に、もうロボのアイコンはなかった。

「そうですね。酔っている間はなかなか楽しい時間を過ごせたとは思います。竹寺さんがどこまで彼女本人だったのかはわかりませんが」

「ロボが言っていたでしょう。あれは最初から最後まで竹寺乃音くん本人でしたよ」

「しかし――」

。そう仰りたいのはわかります。ですが言葉の意味をよく考えてみてください。他人に『発狂していた』なんて言おうものなら、通常はとんでもない暴言にあたります。そもそも、発狂とはなにをもって定義するのでしょうか」

 お前がそれを言うのか――織子はしばし、呆れ返った。

 発狂だの発狂倶楽部だの発狂倶楽部くんロボだのと、植木はこれまで散々言いたい放題にその語を玩弄してきた。そんな男が今さら、発狂という言葉の持つ攻撃性に言及する。茶番もいいところだ。

「竹寺くんは、あまりに『向こう』に触れすぎた。彼女の存在のありかたそのものが、今の世界と乖離し始めているんです。竹寺乃音くんはとして現世界に存在することを許されている。僕にはこれを発狂と定義することはできない」

「そうですか。私はあなたの発狂の定義を知りませんが」

「ヒッグス粒子というものをご存知ですか」

 植木は急に学者然とした態度に変わり、だが優しく導くように言葉を発した。

「ええ。何年か前に話題になりましたので、名前と、質量をもたらす素粒子だということくらいは」

「話が早くて助かります。ヒッグス粒子は質量というものが果たしてどうやって発生するのかという疑問に答えを出すために生み出された仮説です。粒子の持つスピン角運動量が唯一のスピン0として扱われる、いまだに仮説上の存在」

 さて――と植木は風でも読むように指を立てた。

「では同様に、意識というものが果たしてどうやって発生するのかという疑問に答えを出すには――どうすればいいでしょうか」

 織子は完全に面食らった。

 ヒッグス粒子の存在が示唆されたのは、無論あらゆる物質に質量が存在するためだ。存在して当然の質量というものが、果たしてどこから発生しているのか。当然の疑問。

 だが、植木の物言いは――おかしい。

 今の話の流れだと植木はまるで、あらゆる物質に意識が存在するかのような言い方をしている。

 そんなわけは――ない。

 確かに意識についてはいまだ解明されていない部分も多い。だがそれを持つものは脳あるいは脳に相当する器官を持つ生物に限定されるはずだ。

 いや、織子の早とちりの可能性もある。植木はあくまで人間の意識の話をしていて、人間の意識がどこから発生するのかという仮説を話そうとしているのかもしれない。

「前に言った通り、僕は汎心論というものを掲げています。この世のあらゆる存在には心――意識が宿っていると、僕は考えている」

「それは――素粒子に対してでも」

「はい。同じことが言えます。フェルマーの原理というものをご存知ですか。中学の科学の実験で、光の入射と屈折というものをやったでしょう。光は屈折する時、必ず最短となる経路を通ります。僕はこれを習った時からずっと疑問に思っていました。なぜ、光子が最短経路を導き出すことができるのか。答えは簡単です。光にもまた意識があり、それが最短経路を選び取っているだけの話なんですよ」

 この男はやはり、とっくに狂っているのではないか。織子は落ち着いた様子で自身の仮説を語っていく植木に最初とは打って変わって怯懦の混じった視線を向ける。

「あらゆる物質に意識を与える、スピン0、電荷0のボース粒子。僕はこれを意子――マドンと名付けました。まあしかし、こんなものが見つかるはずはないと思っていました。人間はまだ自己の意識ですら解明できていない。ですが」

 植木がディスプレイの電源を入れると、あのおもちゃのロボットのアイコンがでかでかと表示された。

「世界が発狂しようとしている――そう叫んだ人々からデータを取り、ロボに学習させていくうちに、ロボはマドンを検出できるようになっていました」

 つまり。

「発狂した世界というのは、マドンが存在する世界。万物に意識が存在し、あらゆる意識が共存する世界なのです」

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