ふわっと

 大学のキャンパス内に設置されたシェアサイクルのサイクルポートに自転車を返却し、さてこれからどうしようかと織子は途方に暮れた。

 大学に来たはいいものの、別段伝手があるわけでなし、目指すべき標的も見えていない。

 まさか案内センターに行って「発狂に詳しい人を紹介してほしい」と聞くわけにもいかないだろう。最悪織子が搬送される恐れすらある。

 となれば――織子はふらふらと構内を歩きながら売店を見つけるとパックのかんぴょう巻きとペットボトルのお茶を買って、かんぴょう巻きを口の中に放り込みながらまたふらふらと構内をうろつき始めた。

 緊張感こそないが、これも立派な張り込みである。

 これまでの発狂者の出没数は大学構内が最も多い。のんびり釣りでもする気で待っていれば、いずれは近くに発狂者が現れるだろうという目論見であった。

 発狂者に用はない。発狂者を見物しに来た人物の中からめぼしい相手を見つけて根掘り葉掘り聞き出してやろうという魂胆であった。ハズレを引いても、第二第三の発狂者が出た際、現場で同じ顔を見つけて問い詰めていけばやがてはあたりを引けるはず。

 なお駄目だった場合でも、発狂現場に必ず現れる織子の姿は大きな印象を残す。自らを餌として、連続発狂事件に興味を持っている人物をあぶり出す。もしくは――大物を釣り上げるか。

 わあわあと怒号と悲鳴が上がり、織子は待ってましたと駆け出す。予想通りキャンパス内で発狂した者が現れたらしい。遠巻きに発狂者を見守る群衆をかき分け、最前列へと躍り出る。

「和泉織子ォオオオ」

 いきなり名前を呼ばれたが、声の調子がどうにもただ事ではない。

 織子はすぐ目の前にいた声の主を見て、うひゃあと悲鳴を上げた。

 どうやら彼女こそがこの騒動の中心であり、すなわち発狂した当人であったのである。

 大学生らしき女はぐわっと腕を伸ばし、織子の首をへし折ろうと迫る。

 明確な殺意の指向性を持った狂人を相手に立ち回ることは困難を極める。なにせ連中に「理」はない。あったとしても常人には全く理解の及ばないものであり、つまりはないものと同じである。裏をかくことも虚を突くことも不可能な相手である以上、先手を打つしかないと思われるが、ここでまた狂人、狂っていることが邪魔をする。狂っている者を相手に放つ一撃は、ほぼ全てが無効打となると考えていい。いや、確かに骨の一本を折る、目を潰す、金玉を蹴り上げるなどの一撃を加えることはできるだろう。加えることはできるが、狂人は止まってくれない。一撃を加えることがまるまるこちらの隙となって相手の侵入を許してしまう。ならばと絞め技による強引な拘束を行っても、狂人は己の関節や骨の損壊を気に留めない。つまり有効なのは瞬時に絞め落とすこと――と考えたところで、織子は自分がなんの心得も持っていないことに気付く。

 なので織子にできたことといえば、尻餅をつく形で瞬時に地面に倒れ込むことだった。目標を見失った相手はそのまま前に突っ込み、織子の身体が置き石となることで盛大に蹴躓く。

 結果、頭からコンクリートの地面に強かにぶつかった。

 ぴくりとも動かなくなった相手を怖々見下ろしながら、織子は困ったことになったようだと頭を悩ませていた。

 あのメッセージが本当にメッセージだったとしたら、織子は罠にはめられたのだろうか。言われた通りに大学に行ってみれば、いきなり知らない相手から殺されそうになるとは。狂人のネットワークがあるとしたら、織子はそこから目をつけられたことになるのか。

「はーい。下がってー。下がってくださーい」

 群衆を巧みに誘導しながら、白衣姿の男が現れる。見た目は大学生と変わらない年齢に見えるが、周囲の反応から学生ではないらしいことがわかる。

竹寺たけでら乃音のん。情報工学科の二年生ですが。ふーむ」

 男は慎重に倒れていた学生を仰向けに寝かせると、呼吸の確認を行う。

「よかった。生きてますね。さて。さてさてさて。あなたはどちら様でしょうか」

「博士、まずは自分の自己紹介を」

 男の手元からかろうじて合成音声だとわかる声がした。

「ああ、これは失敬。僕は植木うえき蘭人らんとと申します。この大学に雇われていますが、職は与えられていないので、皆さん『博士』と呼びますね。博士号は取っていますので」

 あははと投げやりに笑う植木という男に、織子は目星をつけた。

「私、こういうものです」

 名刺を差し出すと、植木は人差し指と親指でつまみ上げるように受け取る。

「新聞記者さんでしたか。うーん、困ったなあ。でもなあ。どう思う? ロボ」

「竹寺乃音の回復を優先じゃないですかね」

「おっとそうだった。じゃあ和泉さん、彼女を僕の研究室まで運び込みたいので、手を貸していただけますか。担架は、あっ、来ましたね」

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