微熱

 寿司屋『夕顔』は大して人気もない、味も値段も平凡な店である。

 織子がこの店をいつも使っているのには二つの理由がある。

 まず、先述の通り人気がないこと。情報提供者や取材対象と密談を交わすには実に都合がいい。今日もとっぷりと日が暮れているのにも関わらず、カウンター席には二人だけ。カウンター席のすぐ後ろに座敷席が四つあるが、いつも通り誰も入っていなかった。

 そしてなにより重要なのが――

「大将、かんぴょう巻き」

 織子とはすっかり顔なじみの店主――海藤かいどう十郎じゅうろうは、鬱陶しそうに顔を顰めて無言で簀の子を広げる。

「和泉殿……店に入ってからそれしか頼んでおらぬようだが」

「あはは。この店でおいしいのはかんぴょう巻きだけですからね。ほかの寿司ならスーパーのパック寿司や回転寿司の百円皿食べたほうがマシです」

「あいよ。かんぴょう」

 あしざまに店をけなされるのは海藤にとっても常のことであったが、不機嫌な顔つきもまた常のことであり、織子の言葉に気分を害されたわけではない。

 問題は互いの暗黙の了解を心得ているのが幼いころより二十年以上の常連客である織子と海藤の二人だけであって、傍から見ている分には口さがない小娘と仏頂面の店主の穏やかではない雰囲気に圧倒されてしまうことだろう。

 無論、それを見越して織子は発言している。効果は覿面らしく、昼間の大声坊主は今ではすっかり肩身を狭くしている。

「それで、貴志きしさん。発狂した安藤あんどう萌歌もかさんとは面識がないということでしたが」

 坊主は貴志昭哉しょうやと名乗った。曰く、全国を行脚する修行僧――とのことであった。今の時代にそんな僧侶が存在するのかという疑問はさておき、学園都市の大学生である安藤萌歌との接点は探っておきたい。

「疑っておられるようですな。ではこちらを」

 貴志は懐からスマートフォンを取り出し、数度画面をタップして織子に手渡した。

 表示されていたのは位置情報を利用したゲームのステータス画面であった。プレイヤー――貴志が訪れた各地に設置されているスポットが履歴に延々と表示されている。スクロールしていくと本当に全国各地を回っていることがわかり、ひとまず全国行脚をしている、という点は嘘ではないとわかった。

「拙僧は蜜護寺という古寺で住職を務めておった。今は息子に住職を譲った身であるが、そちらに連絡していただければ、確認は取れるはず」

 貴志のスマートフォンを返却し、自分のスマートフォンを取り出して「蜜護寺」で検索をかける。ゲームのユーザー名が「蜜護寺和尚」だったので漢字は聞かずともわかった。確かに九州に同名の寺が存在し、フェイスブックも見つかった。投稿を遡っていくと、貴志の横顔が写った寺院内での写真も発見できた。

 どうやら嘘は言っていないらしい。九州と学園都市では距離が離れすぎている。安藤萌歌はずっと学園都市内で進学を続けており、生まれも学園都市の中だ。九州の寺の和尚との関係はないと考えるのが自然だろう。

 ということは――

「貴志さんはひょっとして、いま学園都市で起きている連続発狂事件についてご存知ではなかった?」

「れ――連続発狂事件ン?」

 まあ驚くよな、と織子はかんぴょう巻きを口に放り込む。

 連続発狂事件は全く報道されていない。だからこそ織子が今こうして事件を追っているのである。そもそも事件であるのかどうか、という最大の疑問が残り続けてはいるが。

 織子は貴志に手短に学園都市の現状を伝えた。ついでに今日面会してきた最初の狂人――南雲との会話もかいつまんで話す。

 さて、では次は貴志の番である。織子がここまで包み隠さず話したのだから、当然話してもらわなくては困る。

「安藤萌歌が発狂しているのは傍目にもわかりました。そこで気になるのが、あなたがなぜ安藤萌歌を取り押さえようとしたのか――です」

「そうか――現世の者には、あれが発狂に見えるか――」

 ごほんと咳払いをして、貴志は銚子を傾ける。

「拙僧はただ、己の責務を果たしたまでである」

 暴れている女性を取り押さえる。確かに腕っ節に自慢があるか正義感が強いかすれば、自然と身体が動いていても不思議はない。織子にはまるで理解できない感覚ではあるが。

「異なる世から出で立つ荒ぶる霊。それにより荒れ狂う罪なき人の身。しからば筋違いの法力であろうと奮わねば隠形摩利支天に顔向けできぬゆえ」

「すみません、わかるように――」

 説明を求めようとしたが、織子の言葉は途中で立ち消えになってしまった。貴志は目をかっと見開き、口の中で何事かしきりに唱えながら、内臓でも吐き出すかのように必死に言葉を吐いていた。

「霊が現れると室温が下がるという話を聞いた覚えはないか。あれはいかにも妙な話である。霊的存在が熱を持たぬと申すか。確かに陰火は熱を持たぬという。では霊とはなにか。吸熱反応を起こす不可視の非存在か。否。否。違うのだ。拙僧は知っておるのだ。おばけだの幽霊だのといったものは、現れればたちどころにわかってしまう。室温が下がるなどとは世迷い言である。室温は上がるのだ!」

 ぬう――呻きながら立ち上がった貴志は、自分の剃髪を掻き毟り始めた。

「左様。左様か! 脳に出で立ったか! 脳の室温を上げる! それしか存立の方策はないと見た! ええいオン・アニチヤ・マリシエイ・ソワカ、オン・アニチヤ・マリシエイ・ソワカ……オンギョウマリシテン。ボロン! ボロン! スゥー……エイッ! エエイ! 拙僧を理解に至らせるか異霊! 面白い望むところ。オン・アニチヤ・マリシエイ・ソワカ、オン・アニチヤ・マリシエイ・ソワカ、オン・アニチヤ・マリシエイ・ソワカ。なるほど。大悟いたした」

 一人でしきりに喋り続ける様子を呆然と眺めていた織子に、貴志は鋭い眼光を向けた。

「よいか。よく聞け。一度しか言わぬ。一度しか言わぬ」

 あっ、と言う間もなく、貴志は高らかに叫んだ。

「世界は発狂しようとしている!」

 言葉に出してしまうとあとは楽なようだった。貴志は店を飛び出し、同じことを連呼しながら大路を走っていった。

「――ごめん、大将」

「気にしちゃいねえよ。よくあるこった。ここ最近はな」

 思わず身を乗り出す織子に、海藤は顔を顰める。

「知らねえのか。ここいらの店でメシ食ってる最中に似たようなことを口走る奴がちょくちょく出てんだ」

「大将、もっと詳しく」

「うるせえ。おめえの記事に書かれてやるいわれはねえと昔から言ってんだろうが。それに知ってることならもう全部話した」

 せめて発狂した人間が出た店の名前くらい――と思ったが、そのくらいならあまり苦もせず自分で調べられると気付く。学園都市内の飲食店は数こそ多いが大半はチェーン店で、『夕顔』のような個人経営店は珍しい。その店主の耳に入っているということは、同じ個人店舗の寄り合いかなにかで耳にしたのだろう。

 となればあとは足で稼ぐだけである。織子は貴志の分も含めた会計を済ませると大路に出た。似たような個人店はちらほらと目に入る。はしご酒のつもりで、話を聞いて回って帰ることにしよう。

 夜の学園都市に、狂人の叫び声が木霊していた。

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