The Sundown

 精神病院に入院しているのではなく、通院していると聞いた時、和泉いずみ織子おりこは申し訳ないが若干拍子抜けした。

「発狂したのでしょう?」

「発狂したようですね」

 織子の言葉に、小谷こたに信理しんり社会部部長はにべもなく頷いた。

 一週間前、学園都市で突如一人の男が発狂した。織子はその人物を取材したいと小谷部長に申し出たのだが、部長は織子の意気を削ぐように当事者の現状を教えてきたのだった。

 そもそも、部長をはじめこの地方新聞社に、くだんの狂人を記事にしようなどという気がないことは織子も気付いていた。

 ろくに部数も出ていない地方新聞社に、地元で起こった怪奇事件を取材するだけの余力はない。もとより大手新聞社の地方面のほうが情報源として信頼されている状態がずっと続いていた。かろうじて人気のあるものといえば地元のサッカーJ1チームに関するものくらい。

 だが、今回ばかりは話が違うのだと、織子は力説したい気持ちをぐっと押し込めた。

 学園都市で、発狂はいまだに続いていた。

 まるで伝染でもするように、学園都市内では次々に人々が発狂していた。大きく報じられてはいないが、仮にも新聞社に籍を置いている織子には続々と情報が集まってくる。

 馬鹿げた考えだとは理解している。発狂が伝染するはずがないのだ。織子も新型のウイルスが学園都市に撒かれた、などと言うつもりはない。そんなことをすればいま学園都市に蔓延している口さがない噂と同レベルでしかないからだ。

 ゆえに、織子は真実を究明したいと思っている。真実を明らかにさえすれば、風評も収束――しはしないだろうだが、織子の記者としての経歴に箔がつく。

「和泉さん、ウチは発狂した人のことなんて記事にしませんよ。今はただでさえコンプライアンスが厳しいんですから、『発狂』なんて単語自体が紙面に載せられませんし、狂人を狂人として記事で取り上げるなんてことをした日にゃお取り潰しは免れません」

 織子は小谷部長の言葉に目を光らせた。

「でしたら、狂人を狂人として取り上げなければいいんですね?」

「は?」

「地元の凄人すごひとだとかそんなタイトルをつければ、どんなに狂っていても当人を中傷するような記事にはなりません」

「なりませんではありませんが」

「部長」

 織子はぐっとデスクに身を乗り出し、小谷の目を睨んだ。

「市民が不安に感じています。この連続発狂事件、どこも記事にしないままではネットのクソまとめサイトなんかがデマを流してさらに不安を煽ります。今のうちになんらかの端緒を掴んでおかなければならないんです。手遅れになってからでは遅いはずです」

「社としては事件性はないと判断していますが――一週間前に発狂した人物の住所はこれにメモしてあります。あなたが持っていっても、なにも不都合はありません」

 織子は頭を下げながら小谷が手の先に出したメモを引っ掴んだ。

「では、終業時間までには戻ります」

 足取り軽く社屋を出た織子はすぐ近くのサイクルポートでフル充電近いシェアサイクルを見つけて飛び乗った。

「ははあ、それでこんなところまで。ご苦労さまです」

 織子に出がらしの煎茶を差し出した男を一目見て、「発狂している」とは思わない。

 南雲なぐも斗和とわ。一週間前学園都市の大学キャンパス内で突如発狂。複数人の証言から、数ヶ月前から学園都市内に出没していた不審者であると判断された。住所は学園都市内であるが、いわゆる旧住民であり、家は代々続く地主。それゆえか度々出没しては「ここは俺の土地じゃ」と叫んでいたという。

 もとより少し頭がおかしかったのかもしれないが、突如発狂したということは傍目から見ても明らかであったという。

「世界が発狂しようとしている――これは、どういった意味なのかをお聞きしたいのですが」

 味のしない煎茶を形式上だけ口に含み、織子はすぐさま本題に移った。

「あら、あなたはお気付きになれないのですな。お気の毒さまです」

 はっはっは、と笑う南雲。

 狂人に対してまともな会話が成立するなどとは端から思っていない。織子は繰り返し、南雲が発したとされる言葉の真意を訊ねた。

 ――世界が発狂しようとしている!

 これは今や定型句だ。学園都市内で発狂した者は、揃ってこの文言を口にする。

 時折文言だけを真似た不逞の輩も発生するが、真に発狂した者とふざけただけの者との区別は容易であるという。

 つまり、己の発した言葉を信じているか否かである。

 発狂した者は、全員が自分の言葉を差し迫った真実であると信じて疑わない。佯狂はそこを問い詰められると脆くも論理が破綻する。だが狂人は、破綻した論理を述べる。

「よろしいですか。まず私はフラウンホーファー線をこの目で見ることができるのです。そしてこの目でおとめ座β星を見ると、なんということでしょうかフラウンホーファー線の位置がはくちょう座61番星とまるで同じなのです。天体が狂うのならばまだわかります。ですが私の目にしたものは、宇宙の、時空の発狂なのです。万物は波ですから、その波はやがてここまでやってくるでしょう。世界の発狂は着々と進行しているのです」

 うーん、狂人だ。なにを言っているのかさっぱりわからない。脳内の妄想が肥大化し、現実と妄想の境界を失って口を利いているのだろうか。

 しかし織子は相手を狂人だと断じて捨て置くことはせず、親身に話を聞こうという姿勢を見せた。

「すみません。無学なもので、専門用語がよくわからないのですが」

「そうですね。恒星の光のスペクトルを見たことはありますか?」

 もっともらしい話をしようとしているが、実際は破綻した論理にすぎないとわかっている。どこまで取り合えばいいのか悩みながら、織子は首を横に振った。

「そうですか。宇宙空間を地球に向かって進む恒星の光をスペクトル化すると、ところどころに暗線が入るんです。これをフラウンホーファー線といって、私はこれを自分の目で見ることができるのですな。そして当然、これにもドップラー効果は働くので、より地球から離れた恒星のスペクトルのフラウンホーファー線は赤方偏移するのです。赤のスペクトルのほうへとずれるのです。ところがですよ、地球から十一パーセク離れたおとめ座β星と、地球から三パーセクしか離れていないはくちょう座61番星のフラウンホーファー線が全く同じ位置なのです。私はまず自分の正気を疑いましたとも。私がフラウンホーファー線を見ることができるせいで、恐ろしい妄想に取り憑かれたのかと! ですが違うのです。私の見たフラウンホーファー線は間違いなく同じ位置だったのです。天体が狂った? いいえ違います。恒星の光が地球に届くまでの間の宇宙空間が徐々に徐々に発狂しているのですよ」

 織子はへらへらと笑いながら話す南雲を見て、ただひとこと。

「その話は、誰に聞かされたものですか?」

「なななななんだ君は! ここは俺の土地じゃ。立っているだけで金を取らないだけありがたいと思ってへいこらせんか! ああしかし。世界が発狂するまでそれほど時間はないなあ。仕方がないか」

 明らかに平静を失った様子の南雲に形ばかりの礼をして、織子は家の前に停めておいたシェアサイクルに跨がる。

 南雲斗和は高校を出てからずっと、家が持っている土地にできた駐車場の管理人として生活していた。今の話は織子にもわからない単語が多く出てきたが、南雲本人が理解できる内容ではないということは間違いない。

 何者かが南雲に過ぎた知恵を与え、それによって南雲は発狂した。まるで知恵の実だな、と織子は笑う。

 南雲の話は鞄に隠してあるボイスレコーダーに録音されている。ひとまずは彼の発言内容を吟味し、どこまでが妄想でどこまでが実際の知見なのかを検める必要がありそうだ。

 学園都市の中をシェアサイクルで走っていると、いきなり怒号が上がり、パニックの気配が押し寄せてきた。最初は数人だった通行人が見る間に膨れ上がり、しかも全員が織子の進行方向とは逆に走っていく。

 当然自転車を漕ぐことは不可能になり、織子はシェアサイクルを降りて人波がやってくる方角に目を凝らした。

「発狂だッ」

 逃げていく学生らしき男性がそう声を上げていた。

 なるほど。実際に発狂事件が起こると、現場はここまで混乱するのだな、と織子は頭の中でメモをとる。

「ええい、離れい、離れい。拙僧が相手をいたす。そこなる異霊のともがら、いざ尋常に相手をいたせ!」

 腹の底から張り上げた大声が響いていた。この声の主が発狂した人物だろうか。だとすれば厄介だ。声のデカい狂人ほど扱いの難しいものはない。

「ボロン!」

 陰茎を露出でもしたのか――と思う間もなく、大声はさらに続く。

「オン・アニチヤ・マリシエイ・ソワカ」

 その言葉――おそらくは真言を何度も繰り返す。

「ボロン!」

 人の波はほとんど収まっていた。というよりは現場からの避難が完了し、残されたのは大声の男と織子だけ、という状況になっている。

 いや、もう一人いた。

 織子が自転車を引きながら現場に向かうと、僧形の男の足元で、若い女性が気絶していた。

 ぎょっとして織子は自転車から手を離す。派手な音を立ててシェアサイクルが地面にぶつかり、男がぎろりとこちらを向いた。

「ボロン――」

 しまった。さっきまで狂人の相手をしていたというのに、いざ目の前で発狂した人間を目の前にすると手の出し方がわからない。

「立ち去るがよろしい。あとのことは拙僧が――」

「その人――」

 織子の視線が地面に倒れた女性に向いたことで、男はにんまりと笑った。

 人を殺すタイプの狂人――織子はパニックに陥りながら、なんとか逃げ出そうと自転車を起こそうとする。だが電動アシストつきの自転車は重く、走って逃げようと判断できるようになるころには男はすでに織子の目の前に迫っていた。

「発狂する! 世界が発狂する! 間もない間もない!」

 いきなり金切り声が響いて、織子も男も声の主のほうへ目を向けた。

 地面に倒れていた女が頭だけをぐりんと上に向け、奇声を上げながら何度も同じ言葉を繰り返していた。

 そこでようやく、織子は現場を見た人々が揃って「発狂した」と結論づけている理由がわかった。織子が目にしているのは、間違いなく発狂の現場であった。

 男が音もなく女に近づくと、気合いを込めた声とともに印を結んだ指を振り下ろす。

「オン・アニチヤ・マリシエイ・ソワカ、オン・アニチヤ・マリシエイ・ソワカ――」

 男が叫ぶと、女は白目を剥いて気を失った。

「失敬。では、拙僧はこれにて」

 立ち去ろうとする男に慌てて駆け寄り、織子は自分の名刺をぐいと差し出した。

「すみません、私こういう者なんですが、今日の件で取材の協力をお願いできないでしょうか?」

「新聞社――よくありませんな。拙僧はただの坊主ゆえ。答えられるものなど持ち合わせてはおりませぬ」

「でもこの場合、私は警察に通報する義務がありますよね」

 む、と坊主が眉を顰める。

「得体の知れないお坊さんが女性に怒鳴っていた――となれば、あなたにも捜査の目が向くことになりますが」

「拙僧を脅すつもりですかな」

「まさかまさか。よければこのあと少しお話ができればいいと思っているだけです」

 すでに近くまでパトカーのサイレンが迫ってきていた。

「致し方ありますまい。ご一緒させていただこう」

「ヨシ! じゃあ夜に『夕顔』という寿司屋で」

 織子が言い終わる前に、坊主は背を向けて現場を離れていった。当の織子は気を失った女を注意深く見ながら、警察の到着を待っていた。第一発見者面をすれば、この女性の身元もわかるかもしれないという魂胆である。

「あー? 和泉先輩がなんでこんなとこにいるんですか」

 到着したパトカーから降りてきた相手を見て、織子は気安く手を振っていた。

 蘇芳すおう大輔だいすけ学園都市警察署生活安全課巡査。高校のころの部活動の後輩で、仕事柄いまでも付き合いがある。

「まあまあ蘇芳。現場保存しておいたから、よかったらまた話聞かせてよ」

 周囲の先輩警官たちから白い目で見られているのを感じて、蘇芳は織子と明確に距離をとった。

「そういうことなら話は署で聞かせてもらいますけどね。とりあえずのお話を伺いたいのでパトカーの中に入ってもらえますか?」

 蘇芳と一対一で話せるわけはない。パトカーの中には当然ほかの警官も立ち会うことになるだろう。密室空間で警官が不祥事を行わないことを確認し合い聴取対象にアピールするための規則なのだろうが、今は少し邪魔だった。

「私のほうは大丈夫だから。話なら立ったままでいいよ」

 蘇芳はげんなりと肩を落とすと、書類を挟んだクリップボードを受け取って織子に簡潔な質問を始めた。

 とはいえ織子に答えられることなど大してない。騒ぎを聞きつけてやってきたら、女性が倒れていた、というだけである。実際には第一発見者ですらないし、現場保存を率先して行ったわけでもない。

「あんたマジでなにしにきたんですか」

 調書を取る蘇芳のほうが先にやる気を喪失した。

「ああもうえーっと、もしなにかあれば署のほうに顔を出していただくことになるかもしれませんが、とりあえず今日は帰っていただいて結構です。というか帰ってください」

「あの人は?」

「先輩には関係ないでしょう。たぶん病院に送られて家に帰されるだけですよ。近頃じゃ発狂もすっかり珍しくなくなりましたからね」

「身元」

「判明しても教えませんよ」

「はいはい。ならこっちで調べますんで」

「――あとでメールします」

 小声で言った蘇芳にぐっと拳を突き当てて、織子はシェアサイクルが現場検証に巻き込まれないうちに手元に起こしておく。周囲の警官たちに頭を下げて挨拶をすると、そのまま電動自転車を漕ぎ出した。

 どうやら終業時間にはギリギリのようだったので、少しばかりペダルに力を込めて会社への道を走った。

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