夢であればいいのに

普遍

再び目を開けたら

 私は幸せな人生を歩んでいた。

 私に愛をくれる夫に出会い私も愛を返し、今は自分の体に新しい命を抱えていた。現在妊娠8か月、もう少しで自分たちの宝に出会えることとても楽しみに生きていた。


 いつも通りの穏やかな春の朝、仕事に出かける夫を玄関からおなかの子供と一緒に見送り身重の自分でもできる家事をこなし買い出しに出かけた。

 とても天気が良い昼下がり。私は歩いて15分のスーパーに出かける。今日の夕飯はカレーにしよう。


人生において、何か最悪な出来事とは事前に起きることを知っている時は少なく突然やってくるものだ。


その時もそうだった。


 スーパーでカレーの材料を買った帰り道、それなりに重いエコバックを右手に持ちつつゆっくり歩いていると突然、女性の悲鳴が聞こえた。悲鳴の発生場所を見るとそこには赤黒い水たまりができていた。何か、臓器の破片のようなものも見える。状況を理解すると、男の人が女の人を文字のままの意味で食べていたのだ。それも獲物を見つけたライオンのような凶暴性が伺える。

 私はショックなものを見てしまった影響で足が竦みすぐには動くことができず逃げることができなかった。人間が人間を食べている。そんな現実感皆無な現場にやっと駆け付けたお巡りさんがもう声をあげていない女性に食らいついている人を止めに入るがお巡りさんはその人に力で負け、押し倒され女性と同じように体を貪られていた。ここでさらに驚いたのは最初に悲鳴を上げ内蔵をオープンにされていた人も、立ち上がれる状態ではないはずなのに動き回り一緒にお巡りさんの体に食らいついていたことだ。倒れていたお巡りさんも立ち上がり私の方を振り返り白濁した目と目が合う。

 そこでやっと私は「逃げなくては!」と金縛りが解かれたように足を動かすことができたのだ。周りにもたくさんの人がどこに逃げればいいのかもわからずがむしゃらに走っている。まるで映画の中みたいなパニック具合だった。私もできる限りのスピードで走って逃げているがやはり妊婦の足は遅い。

「どけよババア!!!」

 なんて後ろから追いついてきたのであろう青年に肩を押され私はバランスを崩して道に座りこんでしまった。

 今ので捻挫したのであろうか足首に感じる痛みに眉を顰める。後ろを振り返ると動きは遅いが人間としては致命傷を負いながらも動き続けるニンゲンが10人くらいこちらに移動してきているのが見えた。どのニンゲンも正気ではない。この場にいたらまずいと本能で感じた私はなんとか立ち上がり目の前にあった細い路地に駆け込む。

 奥まで進むとそこは3方向が石垣で囲まれた住宅街の行き止まりであったが人気はなく、隅のほうに屈めば隠れられそうな錆びた鉄製の箱が倒れて放置されていた。私は開いてる面を石垣に対面するように少し引っ張りひとまずそこに入り身を縮めた。見つかればすぐに襲われてしまう位、簡易的ではあるがやっと落ち着ける場所を見つけた私は息を整え震える手でスマホを取り出し情報を探す。するとあの騒ぎはここだけの話ではなく日本全国、世界規模の話で突発的に広まっているようだった。SNSを漁ると人々や報道はあの人間を貪るニンゲンのことを映画によく出てくる「ゾンビ」と言っていた。嘘が混じっているかもしれないがSNSでわかったことは人間が「ゾンビ」に襲われ体を食べられると襲われた人間も短時間で「ゾンビ」になり人間の肉を求め彷徨い出すこと、「ゾンビ」のほとんどは体の損傷が激しいのにも関わらず動き続けること、移動の動きは遅いが力は人間としてはあり得ないくらい強いこと、目はあまり見えていないようだが耳はとてもよく少しの物音でも襲いにかかってくることだ。

 混乱する頭の中を何とか整理して夫に電話をかけるが一向に繋がらない。回線が混み合っていますという機械音声を何回か聞いてもしかしたら夫ももう…などと暗い想像をしてしまう。「落ち着いたら連絡をください」というメッセージを送りスマホを閉じた。そして周囲の音を聞き取るのに集中するが辺りは恐ろしく静かで不気味な雰囲気を醸していた。元の道に戻るのは危ないだろうか、いっそこの箱を使って石垣に飛び移ってどこかに逃げれやしないかと考えるが自分の腹を見て断念する。このままここで死ぬのだろうか、妊婦でなければよく動けただろうに…という想像をするが首を振りそんな考えを排除する。私の元に来てくれた愛しい命をそんな風には考えたくない。


 

「ぉ…ァア”オ”ォォォ”」


 呻き声と引きずって歩くような音が聞こえた。明らかに人間のものではないだろう。再び震える手をどうにか押さえつけて耐え忍ぶ。恐怖からきつく目を閉じ早くゾンビがここを去ってくれる事を祈る。次に目を開けたらいつもの日常に戻っていればいいのに。もう、私はパニック状態だった。

 どれくらいの時間が経ったかはわからない。一瞬のようにも永遠のようにも感じたし一瞬気を失ってたかもしれない。でも今はとりあえず、何の音もしなくなったので私はホッと一安心し自分のお腹を撫でようとした。


その時、未だに持っていたエコバックから夕飯のカレー用に買っていたジャガイモがゴトッと音を立てて一つ箱の外に転がってしまった。もうそんなものどうでもいいのに私は、


私としたら気が抜けていてつい転がったジャガイモを拾おうと箱から手を出してしまったのだ。


その瞬間、


ジャガイモへと伸ばした私の手を、乾いた血だらけの青白い、所々肉がなくて骨が見えてる「ゾンビ」の手がとてもとても強く掴み私を箱から外へ引き摺り出す。何故、という思いを抱いて何も抵抗が出来ないまま肩に食らいつかれた。掴まれている手首も握られすぎて皮膚が破裂しそうだ。体に激痛が走る。いたい。いたいいたいいたいイタイ

まだ、居たのか


 自分の血が辺りに飛び散り視界がアカくなる。熱く寒く怠く眠い。満たされていたお腹の質量が軽くなっていく気がする。かえして。こんなの、こんなのはあんまりだ。悪夢であってほしい。視界が赤から白く霞んでいき、そして黒へと見えなくなっていく。視界が、感覚が、たいせつなものが消えていく。

あ"ぁ…



あ"ぁぁ”、どうかかかか"



またたし"あわせな"ゆめがか"みれまますよ"うに





10分後、細い路地の突き当りにはエコバックに入ったジャガイモ・ニンジン・カレーのルー、地面に赤黒い水溜まりと、小さいカタマリが残されていた。

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夢であればいいのに 普遍 @purinumai

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