「お、可愛い扇子だな。よく似合ってる」

 言われて手元を見れば、可愛らしいあの布張りの扇子を握っていた。

 それに気付いて恥ずかしさが駆け上がる。

 似合うのは、目の前の少女だ。こんな「おばさん」には似合わない。あまりの恥ずかしさに顔が熱くて堪らない。今すぐ逃げ出したい。

「ちょうど良い。それ使って会話しよう。広げて見て」

 恥ずかしさのせいで耳が一時的に機能低下して聞き取りにくかったが、少女が合わせた手を広げるジェスチャーをしてくれたので、扇子を広げろと言うことだろうと当たりをつけた。

「いや違うって」

 広げろってことじゃなかったのか。

「いや畳むな」

 あれ?

 もう一度広げる。

「オレに差し出してどうするんだよ。使うのはオマエ」

 なんで!? こんな……きっと高価で単体で見ればとても美しいとはいえ、——ファンシー寄りの扇子をこの歳で使えと!? 

「いやもうほんと、全部思ってること顔出てるから。それを防ぐための扇子だよ。話したろ? 憶えてない?」

「あ……」

「そう」

 にっこりと微笑む少女に、やっと合点が言った。

 でも、不思議なこの空間では、彼女の言う所の前世の格好をしている自分が、この扇子を使うと思うと、あまりの絵面のひどさに泣きたくなってくる。目の前の少女が使うから似合うのに……。

「可愛いよ。大丈夫」

 扇子は可愛いけど……

 それでも促されるままに広げた扇子を、顔の前に持ってくる。

「それじゃダメだ。こっちの顔も見えないだろう。もう少し下げて」

 言われるまま、扇子を少し下げる。

 頭を抱えている少女が見えた。やっぱり絵面が変だよね!? 見るに堪えないよね!?

「……今ほど、『目は口ほどに物を言う』を体感したことはない」

「え」

「……でもまぁせっかくだ。使う時は、今くらいの高さにして、もう少し……」

 少女は頭を抱えていた手を下ろし、こちらに延ばした。

 扇子を持っている自分の肘に手をかけて、少し力を加える。

「このくらいの高さ。それと、両手で持たない。片手は、そう。立ってる時は……このくらい」

 真剣な顔で手取り足取り教えてくれる少女を、驚きながら目で追った。

 全ての授業をすっぽかすって聞いてたけれども、それは、もう全部知っているからだろうか。

「……うん。いいな」

 満足げに微笑む少女に思わず見惚れた。やっぱり、不思議と少年のような笑顔だ。

 見惚れてばかりではいけない。自分でも視線を下に向け、視覚と感覚を擦り合わせる。彼女が調整してくれた、きっとお嬢様として相応しいだろう立ち居振る舞いを頭に叩き込む。

「あんまり思い詰めるなよ」

「え?」

「多少ズレた所で問題ない。もっと肩の力を抜いて」

 ——完璧にしなくて良いの?

「深呼吸。吸って、吐いて、そうその位置!」

 それで大丈夫と笑顔で太鼓判を押してくれた少女は、それからふと真顔になった。

「あの……?」

「外出は好き?」

 首を傾げた。外が嫌いなわけではない。晴れた日は外に出たいと思うこともないではない。だけど、この場合の外出とは何を指しているのだろう。

「大勢の人と話すのと、一対一で話すのと、一人でいるのはどれが好き?」

「一人」

「よし。ならデビューまでは深窓の令嬢ってことで押し切れる。それまでにオマエが気に入ったやつをオマエの盾にする」

「……はい?」

「今のところ誰が一番好き? オレ以外で」

「お父様って、前に」

「進展なしかー……プレゼントも効果なし、と」

 少女は頭を仰け反らせた後、面白そうに笑った。




「素晴らしいですお嬢様!」

 先生の大袈裟すぎる褒めっぷりに、貴族相手の家庭教師は大変だなぁと心底同情した。

 自分は字があまり綺麗じゃない。可愛らしい丸文字や、女の子が書くような癖字でもなく、教科書体に似せようとしているものの、どうにもバランスが取れなくて、ただただ綺麗じゃない字だ。

 記憶にある限り、幼児が書くようなさかさ文字を書いたこともなく、子供らしい間違いもほぼなかった。「ち」と「さ」を間違うというようなこともなかった。

 だけど、幼児の頃は間違わなければとりあえず怒られないから良かったが、次第に自分の字の汚さが嫌になった。誰も汚いとは言わなかったが、同年代やちょっと上、またはちょっと下の女性の手書き文字を見るたび、羨ましいなぁと思うと同時に、自分の字がみすぼらしく嫌になった。

 それが嫌で、大人になってからは機械任せで文字を書く機会はぐんと減った。

 久しぶりに見た自分の文字に、相変わらず下手だと思う。

「音と字の合致はもうできていますから、あとは形を整えれば完璧です。まずは、ここに少し丸みを持たせましょう」

 言われた言葉に、少し顔が引きつる。正円も直線もかけない自分には丸みをつけるのが結構な難易度だ。自分の字に嫌気がさしてから、直そうとそこそこ努力はしたから、それが正しい指導法だともわかっているけれど。

「それと、お嬢様。もう少し力を加えて」

 言われて今度は「ひぐっ」と喉がなった。自分は筆圧がすごく弱い。鉛筆は2Bを使っていたし、下敷きを使わなくても全く下のページに跡がつかない。

「あまりに力強過ぎる筆致は女性としてあまり好ましくありませんが、もう少し。これではあまりに気弱な印象になってしまいます」

 ——気弱。

 まるで冗談のように先生は朗らかに言う。実際先生は冗談のつもりだったのかもしれない。本来のこの少女は、明るくて強い。気弱と言う言葉とは無縁だ。

 でも、文字を覚えている時の自分は、ひたすら叩かれたくないとそれだけを願っていた。怒られてばかりで、怖くて仕方なく、次は叩かれるかもしれない、この次はまた怒鳴られるかもしれないと、ビクビクしながら書いていた。だから気弱な筆致になったのだろう。

 意識して力を入れて線を引く。すると、先生がまた大袈裟なくらい褒めてくれた。気位の高い子供に教えるのには、褒めて褒めて褒めまくるくらいでちょうどいいのだろう。わかっているのに、もともと承認欲求の強い自分は、それで簡単に舞い上がる。自分でもわかるくらい、顔が火照った。



「それではお嬢様、また明後日に参ります。それまでに、一度でも良いのでぜひ復習を。文字を覚えるには手を動かすのが一番です。必ず、手本を見ながらですよ。間違った癖をつけてはいけません」

 笑顔で注意事項を繰り返す彼女を見返して、返事の代わりに頷く。

 いつもは見送りなどしないらしく、(というよりも脱走されて時間切なのだろう)振り返った彼女は嬉しそうに声を弾ませてくれる。

 それが嬉しかった。



 見送りを済ませ、踵を返すと、背後に控えてくれていた護衛の二人が目に入った。

 二人とも短髪で、片方は栗色の、片方は赤色の髪をしている。栗色の方は女性だ。女性なのに、髪を短くしている。確か……中世だと、女性で髪を短くするのは、ほぼない、というか発想がなかった気がする。言うならばベリーショートだ。多分、中世だったらあまりに無惨と思われるだろう。

 護衛という職業柄、やはり短い方が良いのだろうか。でもこんな格好のいい女の人が、護衛というのはちょっと嫌だなと思った。もし万が一、身の危険とかあったら。最悪の状況を考えてしまう。

「お嬢様? お加減がよくないのですか?」

 ほら、こんなに優しい人。

 初めて会った日も、声をかけてくれた。

 頭を振る。

「ですが、顔色が……」

「気鬱なのでは」

 赤毛の男の人がそう言った。

「今晩も正餐です。今日は外出は控えましょう。気が晴れないようでしたら、またグレイで遊ばれては」

 グレイ? 灰色? 宇宙人?

 疑問符の飛び交う自分の前で、女の人が男の人の脇腹に肘鉄をかました。

 ……仲悪いのかな。

 でも男の人は特に痛そうなそぶりもなかった。ちゃんと手加減してるのか。

「……まだお小さいのですから、模範的なご令嬢のふりをするのは早いかと」

 労わるような声。

 ——ああ、きっとこの人は、この少女のことをよく知ってるんだ。

 多分、この少女が、机に向かって真面目に授業を聞くのは苦手でも、学ぶべきことはもう既に覚えていることも、やろうと思えば淑女的振る舞いができることも知ってる。

 きっとこの人は子供の頃に苦労した人。

 意に沿わないことを、子供の頃はなるべくさせないであげたいと、思っている人だ。

 優しい人だ。

 きっと本来のこの少女が優しいから、そういう人が集まるんだろう。そういう風に接してくれる。

 夢の中の少女は、好き勝手やっていいと言ってくれたけれど、あの少女が築き上げたものを、横取りするようでどうにも良心が咎める。周りの人たちだって、自分たちの向ける優しさを、外側が同じだけで、……つまり、この少女の皮を被った別人に向けていたと知ったら、良い気はしないだろう。

「お嬢様」

 思考に沈んでいた自分を明るい声が引き上げた。明るいというよりは、明るく振る舞っているような声だけれど。

 女の人が目を閉じている。男の人は、茶目っ気たっぷりに人差し指を口に当てていた。「静かに」の合図だ。こんな顔するんだと、少し驚いた。

 口を閉じて念を入れて手で口を覆う。

「盟約に従い我に力を」

 女の人がそう言った直後、ブワッと彼女の真下から風が巻き起こる。鎧が覆っていない部分の服が、真上に靡く。

 なに、これ……

「お嬢様、いきますよ」

 どこへ!?

 彼女がこちらへ手を差し伸べる。

 掴めということだろうか。

 戸惑っていると、男の人が「失礼」と言ってこっちの手を取る。導かれるまま、女の人の手に触れた。

 キュッと手を掴まれる。その瞬間、自分の体もまた風に包まれた。

「え!?」

 そのまま、体が空へ舞い上がる。

 ああもう、これは信じるしかない。

 一縷の望みにかけて、一生懸命違うと思い込もうとしていたけれど。

 テグスのようなものを巻きつけられたような不快感もない。暴風雨の中のような目を閉じたくなる風圧。ただそれだけを感じる。本来のずっしり重い自分の髪と違う、金色の艶やかな髪が風を受けて靡く。

 体の外側だけではなく、内側までをも風が駆け抜けて行くような不思議な感覚。一歩間違えば異常さに恐れを抱くはずなのに、不思議と怖くはなかった。


 ああもう仕方ない。認めるしかない。

 ——ここは、異世界だ。

 それも多分、小さい自分が心踊らせた、がある世界。


 自分はとても弱くて、強くあることも賢くあることも歓迎されない世界に閉じ込められていた。

 だけど、魔法を使う女性たちはみんなとても強かった。自分の身を守る権利も、反撃する権利すら当然のように行使していた。世界を守るよりも、その単純な強さに憧れた。

 ……まぁでも、どの物語でも、魔法を使えるのは才能を持った一部の人だけだ。

 自分が選ばれることは決してない。だけどそれなら、女性の身で護衛ということへの不安もちょっと軽減した。

 手を繋いでくれている女の人の顔を見上げる。

「屋敷の外へは出ません。でも、上から一周するだけでも、少しは気晴らしに」

 笑顔で言ってくれたけれど、その声は少し泣きそうだった。

 困らせてるんだろう。

 きっと、この人たちが好きな「お嬢様」らしくないから。

 わかってる。だけど、それはどうやったら解決できる?

 真似をするにしても、早々にボロが出る。少年のような振る舞いは、あの少女の魂があるからこそ似合っているけれど、自分がやったら単純に粗野で下手したら野卑になってしまう。

 夢の中の少女の言葉を借りるなら前世、の自分も、あれが本当なら、少女の残り香のように、少年のような振る舞いをしていたけれど、時々、うっかり鏡に映る自分を見て、その都度嫌になったものだった。胡坐をかいて背中が丸まっている姿は、どう見てもかっこ悪かった。

 それにきっと、優しいあの子の振る舞いだから許される。

 ……自分はずっと優しくあろうとしてきたけれども、一度も好かれることはなかった。ずっと親切に振る舞ってきたつもりだった。それでも我慢の限界がきて反抗すれば、悪い子だと言われる。

 昔から不思議だった。悪人が良い行いをすると本当は良い人と言われる。善人が悪い行いをすると本当は悪い人だったんだと言われる。どうしてなのだろう。一生懸命我慢して我慢して人に尽くした結果もう我慢できなくなった怒りの発露と、自分の好き放題に生きてきて人に優しくする余力もある人間の気まぐれの優しさ。

 だけど、あの少女を見て思う。きっと本当の善人は、善行をするのに我慢なんてしないのだろう。「してあげたのに」「こんなに尽くしてるのに」なんて思わずに、尽くすことができるのだろう。してあげてるなんて意識すらないのだろう。

 だから、きっと好意をフイにされても、恩を仇で返されても、怒りなんてわきもしないのだろう。

 自分はああはなれない。助言したら実行して欲しい。助けてあげたらお礼が欲しい。見返りがほしい。無償の愛なんて冗談じゃない。自分はそういう腐った人間だ。

 そういう人間が、あの少女の真似なんてできるわけがない。

 できることあるとしたら、自分がしてほしいことを返すだけだ。

「……ありがとうございます」

 お礼を言うと、女の人が目を見開いた。それから、ハンカチで涙を拭いてくれた。

 自分が偽物なのが申し訳なさすぎて、どうにもできない自分の力の足りなさに涙が溢れた。

 自分は自分でなくならなければ、人から優しくしてもらうことすらできないんだ。自分でさえなければ、こんなに簡単に欲しかったものは手に入る。

 それに喜んでしまう自分がどうしようもなく嫌いだった。

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