友人

「オマエは少し、素直すぎるな」

 ……そんなことは生まれて初めて言われた気がする。

「どうしてそんなに表情に出るんだ? 口数少ないのはそのせいか? 黙ってても全部顔に書いてあるぞ?」

 ……本当だろうか。だったら黙っていても会話ができるんじゃ?

「横着するなよ」

 ……あれ、本当にわかるのかもしれない。

「……本当に顔によく出るやつだな」

「あなたが人の感情を読むのに聡いのでは?」

「オレレベルのやつはゴマンといるぞ」

「……そうなんですね……羨ましいです」

「オマエ、相変わらず、人の顔が認識できないのか……」

「知ってるんですか?」

「オマエの部分の記憶、人の顔がすげえ曖昧なんだよ。ピントは合ってるはずなのにボヤけてて気持ち悪い。視界から推察すると視点は人の顔に合ってるはずなんだ。それが余計に気持ち悪い」

「……相貌失認という病気らしいです」

 少女が口笛を吹いた。

「ちゃんと診断名ついてるのか」

「知ったのは大人になってからですが、知ってからはだいぶ気持ちが楽になりました」

「なるほどな。顔を覚えよう、表情を読もうと必死だから、人の目を真っ直ぐ見て話すのか」

「……まぁいくら見てもわからないんですよね。そういう病気なので。無駄な足掻きです」

「無駄というか、逆効果だろう」

「……ですね。嫌われるだけで」

「そうも素直な目で真っ直ぐ見られたら、疾しいことのある人間は反射的に逃げ出したくなる。小さな女相手に逃げ出したくなったことが許せなくて、それを誤魔化そうと怒りに変える。プライドの高い大人には嫌われたろうなぁ」

 人と話すときは相手の目を見て、って習ったんだけど、違ったのか。

「そう落ち込むな。お前が悪いんじゃない。どっちかっていえば悪いのは腹に一物持ってる奴らの方だ。それにこっちの世界ではそれでも嫌われないだろうさ。ただその、表情の出やすさはなんとかした方がいいな。……扇子持つとか」

「この世界って、扇子あるんですか?」

「あー、見たことないか、こう……布張りでファーとかフリンジがついてるやつ」

「……ああ。そういえば、貴婦人が持ってるようなのがありましたね」

「今度変わった時に手配しとくよ。男と話すときはそれで顔隠しとけ」

「? わかり、ました」

「うん、わかってないな!」

「……はい」

「いやほんと素直だな。……それじゃ、誰が好きで嫌いか誰にでもわかるじゃないか」

「え」

「あーうん、苦労したろうなぁ……。ちなみに今誰が一番好き?」

「え?」

「この世界で。もう結構な人間と会ってるだろ」

「一番? 一番……」

「そうそう」

「えっと、」

「男で」

 ……本当に顔に出るんだなぁと実感した。

「名前が……わからない」

「ああ、名前覚えるのも得意じゃないのか。それなら役職名とかでもいいよ。王子とか従者とか男爵とか」

「お父様」

 頬杖をついていた少女の顔が、ガクッと手から滑り落ちた。

「……なんて? 誰の?」

「え、あ、アンナ=ミリディアナ=ウィル=セイレーン嬢のお父様。きれいな人ですよね」

「オマエもしかしてこの顔好きか」

 頷く。

 相貌失認は程度によってかなり差が出る。

 自分は、人の顔を覚えていることはできないが、見ている間は美醜がわかる。と言っても、なんとなく大まかな括りで捉えている部分が多いらしく、ある程度似通った人の顔の見分けは難しい。特に整った顔立ちで同じ系統の美形や美人は、見分けがつきにくい。少女の顔と少女のご両親の顔がそうだ。

 ……こう考えると、好きな系統の顔立ちほど見分けがつかないのかも。

 少女は頭を抱えた。

「ちなみにそれって恋愛の方で?」

「まさか!!」

「……そうか?」

「そうですよ。結婚されてる人にどうこうとか全く考えたこともないです。現時点で一番好きな男の人を答えただけで」

「……少年達を見て可愛いとか思わないのか?」

「思いますけど、……子供は、子供に、」

 わずかでも、色めいた目が向けられるのは嫌だったし、なおのこと、自分はそうは見れない。どれほど気持ちが悪く、どれほど後々まで禍根を残すか知っている。ただ、それをどう伝えるか言葉を悩んでいると、まるでそれを打ち切るかのように、少女がかしわ手を打った。

 もともと不思議な空間が、まるで神社にいるかのような空気に変わった。さっきまでの、胸の中がどす黒く沈んでいくような、肌が粟立つような気持ち悪さが掻き消える。

「年上趣味か」

 合点がいった、というような表情で少女は口にする。察しの良い少女はもしかしたら、こちらの表情を読んで、何かを察したのかもしれない。察した上で、こちらの気持ちを引き上げてくれたのかもしれない。昏い澱の中から、気の抜けるような話へ。ここは乗せられておく。

「……です、か、ね?」

「なんで疑問形」

「……前も話しましたけど、そこまで好きになった人がいなかったのでよくわからないんです。ただ、あなたのお父様は素敵な人だと思います」

「恋愛抜きで?」

「はい。あなたをとても可愛がっている」

「なるほど。見た目より性格重視なんだな。毎日接してりゃそうなるか。ちなみに女で一番好きなのは? オレ抜きで」

「……メアリーさん?」

「そこはお母様じゃないのか」

「お母様も素敵です。嫋やかでとてもお綺麗で。ただ、……あの、……時々ちょっと怖い、ような……?」

「ああ。父様が母様にやり込められるところ? あれはまぁ惚れた弱みも入ってるからなぁ。まぁ母様はあれだ。本当に野心家じゃなくて良かったよ。母様が野心家だったら、父様は今頃王位簒奪を目論んでるだろうしな。世界が平和で何よりだ」

 ——笑い事じゃない。

 少なくとも筆頭公爵家が謀反を起こしたらただの謀反じゃすまない。鎮圧されるどころか、下手したら王を弑逆できてしまう。成功してしまったら血塗られた玉座が、失敗しても半減した国力が、どのみち国はお先真っ暗だ。

 

「父様とメアリーか……となると」

「となると?」

 少女はにぱっと笑った。

 人の顔色を伺うのが苦手な自分には、その人の心の機微を読むなんてできない。だからきっと、単なる気のせいだろう。

 可憐な少女の微笑みが、まるで何か企んだように見えたのは。




「お嬢様、ご用意できましたわ」

 渡された木箱を開けると、優しい色合いをした布が貼られた扇子が入っていた。

 留め具が——真珠だろうか。白く光沢のある丸い粒があしらわれている。手に取り、目を細めて見ても、繋ぎ目がない。模造品ではなく、おそらく本物だ。

「お気に召しましたか?」

 頷く。

 そう、確か、自分は表情に出やすいから、家族以外と話すときはこれを使おうと思って。

 ……夢の中の少女が、言っていたような……?

「この間お招きした子爵家の御令息が、お嬢様のハンカチの代わりにと」

「……?」

 ええと、なんだっけ。ハンカチ? ハンカチの代わりに扇子? ハンカチは手を拭くものだ。ハンカチは仰ぐ、または顔を隠すもの。代わりになんてなるだろうか。

「お嬢様が御令息にハンカチを差し上げましたでしょう? そのお返しにと」

 ——ああ。やっとわかった。

 止血に使ったハンカチだ。ハンカチをダメにしたからそのお返しということか。

 それなら、あの夢はただの偶然だろう。

 もしかしたら——イマジナリー・フレンドかもしれない。

 突然、わけのわからない世界に放り込まれて、誰に縋れば良いかもわからない状態だ。一時的に、精神が退化して子供の頃のように想像の友達を作り上げても、まぁおかしくはないかもしれない。それが夢限定なのは、大人の意地かもしれない。

「ではお礼状を」

 侍女に言われて、自分でも顔色が変わるのがわかった。

 自分は手紙が苦手だった。どこまで飾れば良いのか、どこまで簡潔にすれば良いのか、それがわからない。

 ビジネス文書のように、テンプレートやフォーマット、定型文が定められているものを改変するのは得意だったが、お手本がなければてんでダメだ。更に貴族のご令嬢がどんな文章を認めるのか、さっぱりわからない。

 夢の中の少女だったら、頭を抱えているところだろうか。

「書いておきますね」

 ——はい?

 疑問符を浮かべる自分を振り返ることもなく、メアリーは退室した。

 おそらく、侍女部屋に。

 お嬢様の部屋というのは、屋敷の奥に作られ、手前に侍女が使う部屋がある。

 誰かがお嬢様の部屋に入るには、廊下から扉一枚を隔て、侍女に取次を頼み、侍女が奥のお嬢様の部屋へ行きお伺いを立てて、再度戻って可能ならば部屋へ案内する。

 侍女部屋と言っても、侍女の私室は他にあるから、お嬢様のために必要なもので、侍女が使うものがまとめられた部屋だ。


 ……そうか。


 可憐な外見にそぐわず、集中力があまりなく、屋敷を抜け出し下層階級と親しくしている少女は、貴族的な手紙のやりとりが苦手なのかもしれない。

 というか、年齢的にまだ文字が書けないのかもしれない。自分はちょっとアレな環境で育ったせいで、3歳の頃には文字の読み書きはほぼできたけれど、6歳でやっと覚え始める子もいると聞く。

 それなら、後でメアリーに文面を見せてもらおう。

 この少女は才気煥発。覚えるのは遅くても、そのあとは苦もなく素晴らしい手紙を書くだろう。覚えるのは早くても、手本がなければ文面がちっとも思い浮かばない自分とは対照的に。

 覚えるのが遅く、文面も感心しないだなんて、本来のアンナ=ミリディアナ=ウィル=セイレーンに申し訳がない。

 神童も二十歳過ぎればただの人。

 なんて言葉もある。

 自分がこの少女として生きていくなら、ただの人になるのは間違いない。それに、この少女は本来きっと人気者だ。奔放な性格でも、きっとその天真爛漫さに惹かれている人が大勢いる。だけど、自分の性格ではそれも望めない。凡才で、性格も良くなく、これと言った特技もない。それではあまりに申し訳ない。

 せめて小さい頃は頭が良かったと、そうすることがせめてもの罪滅ぼしだ。 

 それに自分の信条は、ある程度までは「量が質を凌駕する」だ。たくさんの本を闇雲に読んだだけで、国語の偏差値は常にそこそこ高かった。

 だったら、今からメアリーの書く手紙を読ませてもらって、文面を頭に叩き込めば良い。

 公爵家令嬢の手紙を代筆するなら、メアリーの文章力は認められているということだ。

 少なくとも、恥にならない程度の文章は書けるようになるはず。手紙が苦手だったのは、手紙を読む機会がほぼなかったからだ。書簡集を読んだこともなく、若者が読むような短文で綴られた物語はあまり馴染みがなかった。本は好きだったが、その辺りの体裁の本はあまり読まなかった。なぜかといえば、恋愛ものばかりだったから。巷に溢れ出す頃には、自分はもう恋愛ものに共感できない自分を知っていた。

 だけど、この少女はきっと違うだろう。

 こんなにも麗しい見目をし、才気溢れ、人気者なら、きっと恋愛だって。たとえ本人にその気がなくとも、周りが放っておかない。

 だったら、共感できないからと逃げてはいけない。今からメアリーの手紙をたくさん読んで、女性らしい文面を見につける。

 そして、自分は決してではなかったけれど、知識を吸収することに関してはそこそこ得意だ。応用は効かないし正確性にやや欠ける部分もあるけれど、集中力は昔からある方だった。まるで人の顔を覚えられない反動であるかのように。この少女が苦手な部分を少しでも埋めておこう。

 いつその時が来るかわからないけれど、この少女へのせめてもの罪滅ぼしと恩返しだ。



「エリザベス様がいらっしゃいました」

 侍女の笑顔での一言で、持っていたクッキーのようなお菓子を取り落とし、それにも気づかず椅子を倒す勢いで立ち上がり、高速で口を拭って直立不動の姿勢になった。

「——?」

 不思議そうにしながらも、侍女が落としてしまったクッキーを片付けてくれた。お茶の時間とかで、サンルームのようなガラス張りのホールで紅茶とお菓子を供されていたのだ。

 ちなみに、このサンルームに案内された時、少女の頭によぎったのは、(また時代考証無茶苦茶……!!)だった。

 サンルームが作れるほど強度のあるガラスが作れるならどうして他の部分は石造りなの!? だから今は何時代なの!? 文化の度合いはどうなってるの!?

 と、頭の中が忙しかったが、いまはそれ以上に頭の中が忙しかった。いっそ忙しすぎて硬直フリーズしていると言っても良い。


 そうこうするうちに、引き返した侍女が連れてきたのは、金髪直毛で少しふくよかな体を、鮮やかな色合いのドレスに包んだ少女。

「ごきげんよう、アンナ様。——アンナ様!?」

 へなへなとまるで力尽きたかのように、直立不動の姿勢から床に座り込んでしまった。

「お嬢様!?」

 慌てたように駆け寄る少女と、手を差し伸べてくれる侍女を視界に捉えながら、(良かった……別人だ……)と深く安堵していた。

 自分の知る中で最も有名な「エリザベス様」は白髪。若かりし日はブロンドだけど今も昔もカーリーヘアだ。落ち着いた色合いの金髪巻き毛。目の前の少女とは似ても似つかない。

 そう、そんなはずないとは思っていた。ただ、もしかしたらと。筆頭公爵家であることと、コーカソイドであることから、一抹の不安が拭いきれなかっただけで。

 大丈夫と言う代わりに笑顔で侍女の手を取って立ち上がる。


 ……夢の中で、あの少女に交友関係、聞いておくんだった。


 エリザベス様。アンナ様と呼ばれていることから、多分、呼称はそれで良いはずだ。ただ、どういう関係なのだろう。友達なのだろうか? 共通の話題は? あーもうこうなったら、……必殺、お嬢様は喉を壊しております。


「アンナ様。いかがでした? 殿下とお会いになられたのでしょう!?」

 ……あ。そうか、そういう話か。

「とても素敵な方だと伺っております。アンナ様はどうお感じに?」

 ……すてき。確かに同年代からすればそうなのだろう。

 なんというかどうにも、生き急いでいる感じのする王子だった。

 もしかして、弟妹がいないのかもしれない。親子ほど年の離れた公爵を相手に、一歩も引かない覚悟のようなものも、今思えば感じられた。見縊られてなるものか、という気迫。

 だが、賢しい子供は、性格の歪んだ大人を刺激する。そこが心配だった。

 その程度の人間は他にもいると、もっと上がいることを知らしめて落ち込ませようと、天狗になっている鼻をへし折ってやると、息巻くような人間もいる。そうやって落ち込んだ子供を見て、満足するような歪んだ大人が。

 公爵は——この少女の父親は、大丈夫。最後まで同意はしなかったけれど、最後には引き下がっていた。本当に、素敵な人だ。子供を嗜めつつ立てることもできる。そういう人が筆頭公爵でいられるのなら、この国はきっとマシな国なのだろう。

 ただ、……他の人は、どうなのだろう。生意気だなんて言わないで欲しい。たとえ影でだろうと。思っても良いから、表に出さないで欲しい。認められるために必死で学んでいるのに、それを生意気だと言われることは、必死に学んだことのない人には想像もつかないくらいの傷になる。

「アンナ様と殿下が並ばれたら、きっととても絵になるでしょうね……」

 いつの間にか下がっていた視線を上げると、両手を組んだエリザベス嬢が、こちらを向いているもののどことなく焦点の合っていない目を輝かせていた。

 引っかかったのは、表情よりもその発言だ。

 エリザベス嬢の身なりは立派なものだったし、きっとどこぞのご令嬢だろう。彼女自身が殿下と会いたいのだと思っていたが、いまの言い分だと、まるで——

「遠くからでも、一目でも良いので、それをこの目で……」

 うっとりするような声で言ったのち、ため息を吐いた少女に、どうしよう、物凄い親近感を覚えた。

 美しい人たちが並んでいるところを見たい。そういうと、ハーレム(または逆ハーレム)願望があるように思われてしまうかもしれないが、望むのはそうではなくて、単純に並んでいるところを、その人たちからは認知もされないような場所から眺めたい。感覚としては、美術館で絵画を鑑賞するような気持ち、といえばわかりやすいだろうか。


 エリザベス嬢はその後も、殿下の噂話などを主に聞かせてくれた。いずれも好意的なものでホッとした。

 幼いながらもよく学び、また覚えも早く、剣の腕も立派なのだとか。王族の噂だから誇張もあるかもしれないが、それは貴族社会ではむしろ健全な方だろう。

「それにとっても紳士的なお方なのだそうですわ! アンナ様にぴったり!」

 紳士的という単語に、あの完璧なエスコートを思い出した。人の手を借りるのは苦手だったけれど、どう借りれば良いのか自然とわかるように導いてくれた。そんな振る舞いが身につくのに、どれほど修練したのだろう。

 まだ小さいのに。

「きっと殿下ならば、アンナ様がいつものようなお振る舞いをされても、笑って許してくださいますわ! わたくしのお兄様もですけれど。お兄様は、わたくしがアンナ様のお話をすると、いつも喜んでくださいますの。でも、お兄様は少し年齢が離れていますから……」

 ——どのようなお振る舞いなのだろうか。そこをむしろ聞きたかった。

 けれどそれには触れることなく。

「アンナ様より身分も低いですし、性格も弱気で、アンナ様には相応しくありません」

 ……これは、手厳しいのか、それとも兄を取られるのが嫌で欠点を論ってみせているのか、どちらだろう。

 

 最後には、終始無言だった「アンナ様」を心配して、「わたくしったら! ごめんなさい。アンナ様がお優しいからつい……長居をしてしまいました。アンナ様。アンナ様ご自身も女性なのですから、わたくしに向ける優しさの半分でも、ご自身に向けてくださいませ」と、心配そうに瞳を潤ませてこちらの手を両手で握った。

「ご自愛くださいませ」

 手をそっと離すと、まだ幼いながらも、淑女のお手本のようなお辞儀を披露して、帰って行った。


 ——どうやら、この少女はフェミニストらしい。


 夢の中の少女から感じた印象とも合致する。彼女は優しい。その優しさは、物語のヒロインのもつ、癒すような優しさとは違い、強さをもつ優しさ。まるで夢に描いたヒーローのように。勉強ができなくても、明るさと優しさと強さで、世界を救ってしまうヒーローのように。

 子供の頃の夢だった。でも自分は、勉強だけはそこそこできるけれども、どちらかといえば暗く、どうすれば『優しい』のかもわからずに弱いまま生きてきた。胸の中にあるのは諦念と、いつまでも残る恨み辛みの熾し火。まるでヒーローに倒される悪役のようだ。

 善人にはなれず、かといって犯罪に手を染める勇気もなく、ひたすら諦めて生きてきた。それが許される国。

 登りつめるのは容易くなく、かといって最下層に落ちるのも難しい。そこそこの頭の良さがあれば、困窮する前に掬い上げてくれるセーフティネットと言う名の蜘蛛の糸も垂らされている。

 普通に生きてさえいれば、命の危険に晒されることのない平和に守られた国。

 なのに何故だろう。家族を、恋人を、仲間を、道行く人を、嬲ろうとする人間がどこにでも潜んでいた。

 それを見聞きする度に、人間はやはり狩猟動物なのだろうと思ってしまう。

 敵を作り出す。標的を作り上げる。

 それが恐ろしかった。心の底から。

 傷つけられる側であり続けることはできたけれど、傷つける側に回りそうになったとき、自分は逃げた。傷つけられるときよりも、冷や汗が出て心臓がうるさく喚き耳もほとんど聞こえず目も眩み痛覚さえ刺激され命の危機を感じた。そうして逃げて逃げて逃げ続けて、更に人と深く関わらないように、幸せそうな人たちを、遠くから眺めるようになった。


 そんな自分が、真逆の少女の体を借受けるなんて。

「……無理助けて」

 アンナ=ミリディアナ=ウィル=セイレーンは、誰にも聞き取れないように顔を両手で覆い、弱音を吐いた。

 それはあくまで独り言であり、強いて言うのならばその場にいた侍女ではなく、去っていくエリザベス嬢の後ろ姿でもなく、この体の本来の持ち主の少女への切実なお願いだった。

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