男爵
「子爵である父の持つ爵位より、男爵を授かっております」
あどけない顔で精一杯背伸びした感じがなんとも愛らしい少年の挨拶。
——貴族階級の名称は自分の知識と同じ。男爵は儀礼称号だろう。
少女は、またしかつめらしい感じで指を口元に当てて考え込んでいた。
静寂に包まれた空間に、誰のものかわからないが、咳払いが一つ響く。
しまった。挨拶を返さなければ。
ちょっと待って。挨拶ってどうやるの。頭を下げるだけの挨拶ではないだろう。ドレスの裾を摘むのはわかるが、問題は、腰を屈めるのか足を引くのか、それとも摘むだけで良いのか。
考えた末、ドレスの裾を摘んで軽く腰を落としてお辞儀をした。
したことがないから不恰好に見えただろうが、なんとか体調不良ということで勘弁してもらいたい。きっと明日以降、挨拶の練習をさせられるだろうから、そこで挽回する。
「申し訳ない。娘は今喉を壊していてね。代わりに私が紹介しよう。娘のアンナ=ミリディアナ=ウィル=セイレーン。娘の許可が出たらアンナと。それまではレディ・セイレーンだ。良いかな?」
——全部愛称だった!?
ミリーナもミリィもミドルネームの愛称か。
やっと、フルネームが確定した。
そして、これで確定だ。ここは母国じゃない。キラキラネームじゃなかった。ファーストネームだけなら杏奈とかの可能性もあったけれど、ミドルネームにおそらく貴族称号の前置詞、ファミリーネームとくれば、明らかに母国じゃない。
アンナといえば、ヒロインの名を冠した有名な物語もあるけれど、あの国はファミリーネームの前に前置詞をつける習慣はなかったはず。それに、仮にあの名作の国だとすると、ファミリーネームの語尾がおかしい。女性の変形は最後がワやヤになるはずだ。
それに、前置詞の「ウィル」……そんな前置詞は……心当たりがあるといえば、ミリーナと同じファンタジー小説の別のキャラクターがそうだった。彼女は王族だったが。
……いや、気づいてはいたが……
「はい。レディ・セイレーン、お身体が思わしくない日に、たいへん失礼いたしました。先ほどは、ありがとうございました」
その言葉に首を振る。
馬車の後輪が跳ねた石が運悪く当たり、そして運悪く川に落ちた子供——少年は、子爵家の令息だった。
助けたのは自分ではない。泳ぎだけは得意な方だったし、着衣泳も授業で習った。けれど助けたのは、「能力」と言われていた不思議な力を持った女性の護衛だ。自分がしたことと言えば、少年の額にできた傷を、ハンカチで抑えたことくらい。——しかも、とっさだったとは言え、侍女の女性の手を振り払い、肌を赤くさせてしまった。肌を見て、びっくりした。女性を傷つけるなんてとてもいけないことだ。幸い、血は出ていなかったけれど、それでもどうしようかと思った。
「お嬢様? どうされました? ——手? 私の手が何か? ——ああ、赤くなっていますね。痛くもなんともありませんわ。大丈夫です」
そういって微笑んでくれたけれど、それは本心だろうか。嫌われていないだろうか。
あの後、目を覚まして名乗った少年を見た侍女によって、今日の正餐に招待した子息だと判明した。
「どうりで身なりが良いと思いました」とは、女性の護衛の弁だった。
約束の時間には早かったが、少年はそのまま屋敷へ招待された。
後から、少年の付き添いが遅れてやってきた。
彼は待ちきれなくて、先に勝手に家を出てしまった主人を探し歩いていたらしい。
「話は聞いているよ。当家の御者は避けたようだが、石が当たってしまったと。処罰を望むかね?」
「いいえ。あれは不運な事故でした。僕が不用意に道に飛び出したのも悪かったと思います。お手を煩わせてしまい、申し訳ありません」
「ありがとう。小さいが立派な紳士だ。しかし、当家の所領で怪我を負わせたのも事実。申し訳なかった」
「小さな傷です。もう血も出ていない。何より僕は男ですから。それよりも、手厚い介抱に感謝しております」
「では、この話はこれで終わりということで良いかね?」
「はい」
「さて、紳士は娘にどう呼ばれたい? 喉が治ったら」
「……ウォリーと」
その言葉に、少女の両親が目を見開いて顔を見合わせた。やがて二人とも笑顔になった。
少年は幼い頰を赤く染めていたが、3人のその反応が何を意味するのか、当のアンナ=ミリディアナ=ウィル=セイレーンは気付かなかった。
なにせ少女は、侍女の手を赤くさせたことと、護衛の女性の不思議な力と、状況を少しでもつかむことに頭がいっぱいで、肝心の少年の名乗りを聞いていなかった。
ウォリーが少年のミドルネームの愛称であることも、通常、ミドルネームの愛称は家族だけが使うということも、今の少女にはまだ知る由もなかった。
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