家庭教師

 母国語……?


 渡された本の表紙。そこに紛うことなき母国語の文字の羅列を見て、思わず首を傾げた。


「良いですか、お嬢様。こちらの時計をまずご覧ください。この長針、ええ、長い方の針です。こちらの針が、ここです。今ここにある針が、ここに来るまで。せめてここに来るまでは、席に着いて、私の話をお聞きください」

 ……そんなにこの少女は集中力がないのだろうか。

 たったの10分、椅子に座っていることが難しいのか……?

 精緻な彫りが施され、宝石らしき石がいくつか埋め込まれた銀色の懐中時計をパチンと開いて盤面をこちらに見せながら言われた内容に、何度目かも既にわからない驚きが湧き上がる。

 自分の子供時代を思い出すと、何事も集中してしまいやすい性分のせいで、気づくと何時間も経っていることの方が多かった。同じ姿勢でいるのが難しいと言うことは特になく、しかし落ち着きのない子供がいると言うことは知ってもいた。

 やはり、どちらかといえば活動的な少女ということなのは、間違いなさそうだ。

「では、今日はこちらから」

 初めの方のページを開く。

 ……これは、まだ読み始めたばかりなのか、集中力がなさすぎて何度も中断しているのか、どっち?

 疑問に思いながら、紙面に目をやる。

 子供用の本だろう。文字が少なく、絵が多い。

 見開きの内容は、「先生」と呼ばれる女性が読み始める前に、頭に入ってしまった。

 母国の成立とは全く異なる国の成り立ちが記されていた。

 一瞬、文字の読み方を教わるための子供向けの物語かと思った。

 何故なら、そこに記されているのは、初めの方の数ページを端折っているとはいえ、荒唐無稽を絵に描いたような話だったからだ。

 確かに母国にも「荒唐無稽を絵に描いたような」国の成り立ちを記した本はあるが、それとも違うし何より方向性が異なる。

 一体この国はどこなんだ。

 鵜呑みにするなら明らかに母国ではなく、しかし書かれている文字は明らかに母国語で、先生が読み上げた内容も全くその文字と同一だ。一字に一音を当てはめる読みの、促音も濁音も全く同じだ。

 だとしたら母国のはずだが、子供向けの物語はかなり読んだ記憶があるのに、全く読み覚えがない。

 困惑していると、先生の困惑した声が耳に届いた。

「……お嬢様? あの……体調がよろしくないのですか?」

 顔を上げると、不審そうな表情の先生。

「いえ、喉を壊してらっしゃるとはお聞きしましたが、その……」

 そこで下を向いて口籠る。そういうことになっているのか。

 しかし否定するのもアレなので、そのまま黙っていると、先生は意を決したように顔をあげた。

「私何かいたしました!? なぜ座ってらっしゃるのですか? なぜ御本の文字をしっかり目で追うのです!? 外をご覧になられないのですか? 足をぶらぶらさせたり、頬杖をついたり! うつ伏せたり!? 何故なさらないのです!?」

 ……。

 ぽかんと、そう、もう本当に、あり得ないくらいに、口が露骨にぱかりと開いた。自分でもわかるほどに。

「お体の具合がそれほどまでにお悪いのなら、言っていただければ!」

 取り乱すにも程がある。

 あまりのことに声も出ない。出さないつもりではあったが。

 だが、首を横に振ることは忘れない。さっき侍女相手に首振りを忘れてえらい目にあった。

「メアリーさん! お嬢様を早くお医者様に!」

 誰ですか!?

 いや落ち着け、さん付けであるならおそらく使用人のだれかだ。

 物語の中でありがちな名前といえば——執事ならセバスチャン、メアリーなら……メイド!?

「……それには及びません。お嬢様は、喉の調子が悪いだけだそうです」

 答えたのは、侍女だった。

 予想が外れた。というか、あなたメアリーさんだったんですね。いやまぁ、侍女レディ・メイドもメイドと付くけれど。


 やっとこの人の名前がわかった。名前がわかったのは、今のところ、少女の父親の従者であるシオン、この少女の名前がミリーナとミリィ。どちらがミドルネームなのかはたまた愛称なのかはわからない。そしてこの少女の侍女はメアリー。

 侍女の名前がわかったのは収穫だ。おそらく、この少女が貴族のような生活スタイルをしているのであれば、侍女と過ごす時間が一番長く、付き合いも深いはず。名前を呼ぶ回数も多いだろう。

 そして、メアリー。

 この少女がミリィとミリーナ。従者がシオン。侍女がメアリー。位を表す場合もあるから、本名とは言い切れないが、とりあえず、こと名前に関しては西欧圏に準じているとみて良さそうだ。

 ……キラキラネームが死ぬほど好きで、名前で人を雇っている、あるいは名乗らせているのでもない限りは。


「明らかにいつもと違います!」

「ええ。ですから先生、いつものアレです」

「……またですか」

 虚を突かれたように動きを止めた先生は、やがてため息交じりにそう言って、少女に視線を向けた。

「今度は一体何を企んでいるのか知りませんが、事と次第によっては、あなたのお母様やお父様にご迷惑がかかります。良いですか、お嬢様。過ぎたるは及ばざるが如しと申します。社会見学も度を越せば、領地経営の役に立つどころか足を引っ張ります。市井の者を顧みるのは大切です。が、肩入れをし過ぎては、返って平等な物の見方がかなわなくなります。下層階級は悪ではありません。また同様に、貴族階級も悪ではないのです。時に下層階級の人々に罵られようと、貴族としての役目を果たさなければ、その人々の命に関わることもあるのです」

 普通の少女だったら耳を塞いで逃げ出したくなるような長いお説教の始まりだったが、得られる情報は多かった。


 この少女は貴族の娘だ。これは確定。

 名ばかりの貴族ではなく、父親は領地を持っている貴族ということもほぼ確定。

 そして、階級社会であるということも確定。

 ただ、この少女が領地経営の参考に、下層階級の人々と交流をもっているらしいことはわかったが、女性にも継ぐ権利があるのだろうか?

 家と家との結びつきを深めるのが、良家の子女の務め。みたいな価値観があったと思うのだけれど……文明は退化したとはいえ、男女平等の精神は受け継がれたのだろうか。

 いや、まぁ、女王陛下の国もあるし、母国と西欧では価値観がやっぱり元から違うのかもしれない。自分の持っている知識は物語から得たものも多い。物語の舞台はあくまで舞台だ。現実ではない。

 それに、どうやらこの少女はかなりの傑物だ。まだ年齢はわからないままだが、見た目年齢や化粧をしないことからも、ほんの小さな少女のはず。にもかかわらず、領地を見て回る気概があり、先生の話し言葉も子供相手とは思えない。

 そこまで考えて、血の気の引く音がした。

 才気煥発な令嬢の真似なんて、逆立ちしたって出来やしない。

 

 バカと天才は紙一重という。

 普通に勉強ができる自分は一発逆転ができるような発想力はない。

 嫌われ者だった自分には人心掌握する術なんてもっとない。

 体を動かすのは好きだったが、好きと得意は違う。走るのも遅いし、運動神経が良いわけでもない。それに親の望まない運動よりも、勉強を優先するようになった。

 知識を詰め込む系は得意だけれど、工夫は苦手だ。しかもテスト前に詰め込むのは得意だけれど、興味がない分野はそのうち忘れる。だから博識なわけでもない。

 物語にどっぷりだったせいで常識もあまりない。男女差別に怒り狂ったり、身分差別に腸が煮えくり返ることもない。どこまでも他人事だ。

 自分がどうにかしてやろうなんて、気概もない。

 ヒーローになれない。

 だからって、優しいヒロインにもなれない。

 優しさもなく、愛情に飢えた拗ねた子供のまま大人になって、誰かを愛してあげるヒロインになんてとてもじゃないがなれやしない。

 

 ……愛されようと頑張って、一生懸命良い子でいたつもりだけれど、結局、愛されることはなかった。

 多分、根本的に間違ってるんだ。頑張り方が。


 自分が今どういった状態なのかわからないが、この少女が自我を取り戻した時に、困ったことにならないようにしなければ。

 周囲の人たちをがっかりさせるわけにはいかない。自分のせいで、才気煥発な少女の人気を落とすわけにはいかない。

 何かあるはずだ。方法が。

 今までとは全く違う頑張り方をしなければ。

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