夫人
「ミリィ、ミリィ」
仔猫の鳴き声のような声がする。
出どころに目を向けると、両脇に侍女らしき女の人を侍らせた女性が、まっすぐこちらを見ていた。女の人が歩くたびに、その長いドレスの裾をベールガールのように運んでいる。
「遅くなったわね。待っていてくれてありがとう。お母様がいない間、寂しくはなかった?」
呆気にとられて口を開けたまま、その人が目の前に来るのをぽかんと待っていた。
「ミリィ? 寂しかったのね……」
沈痛そうに目を伏せたその人の、なんと嫋やかで美しいことだろう。
男性が、守ってあげなければと思う全てがその人には備わっているように見えた。
なんとも、庇護欲をそそる風情だ。
「ミリィ……」
こちらにそっと伸ばされた手は、まさに白魚のよう。
手を握られて、とても滑らかなその肌に驚いた。
たっぷりと光を含んだ銀色の髪も、濡れたような菫色の瞳も、思わずどきりとしてしまうものがある。
うっかり、キレー……と声にしてしまいそうになって、「き」の形になっていた口を慌てて閉じた。
そして、首を振る。女の人の問いへの答えも兼ねていたが、どちらかといえば、あまりの綺麗さにポーッとしてしまう頭をはっきりさせる意味合いの方が強かった。
ミリィ、というのは、ミドルネームだろうか。いや、もしかして、ミリーナの愛称?
この人が、母親。
なるほど。あの人が父親で、この人が母親なら、この少女の可憐な見た目も自明の理。
「大丈夫? それならお母様に笑顔を見せて。可愛いミリィ。おはようの挨拶をしましょう」
しまった。喋れない。
……こんな美しい人のお願いを無下にするのはなんとも心苦しいものがあるけれど、だって仕方ない。自分は——方言はそれほどひどい方ではないが、訛りが——イントネーションが不安なのだ。
真っ当な母親というものへの憧れ故か、どちらかというと男性よりも女性の方に目を引かれる自分は、当然のように、男性よりも女性のお願いに弱かった。
しかし、杞憂に終わった。挨拶はここでもハグだったのだ。
その時、チラと見えた首に、真っ白い肌に目立つ赤い円形が見えた。
……あ、ああ……そ、そういう、こと……。
は、初めて見た……
動揺した頭の中に、「昨夜はお楽しみだったんですね」と下世話な台詞が浮かんだのを慌てて振り払った。
いや、うん。ご両親が、仲睦まじいのは何よりではないか。
食事に母親不在だったのは、昨夜のその、そ……——うん。
起きるのが遅くなっても仕方ない!
はい、謎は解けた! 解決!
次!!
いや、次ってなんだ。さっきの会話から得られる情報は、——、ダメだ、何を話したのか動揺しすぎて忘れてしまった。
しかし、これほどの容姿なら、皇帝への献上品、外交カードとして充分過ぎるほど切れるだろう。良いか悪いかは別として、そういった価値観が普遍的だった世界がある。
もしここが専制君主制であるならば。
となると、違うのだろうか。
あるいは、よほどこの家の地位が高いか、当主が切れ者か、……皇帝がよほどの人格者か?
「……長いだろう。充分長いだろう。ほら。止めるべきじゃないのか? 平等性を発揮するべきだ」
「お断りします。あなた様の従者ですので、奥様に話しかけるような権限はございません」
「私の命令でも?」
「命令の正当性を疑います」
「私を止めたのが正当だとする根拠は?」
「お嬢様の食事がまだでしたので」
「……基準はミリーナか」
「はい」
「お前の主人は?」
「旦那様です」
「矛盾している」
「主人である旦那様がご自身より優先されるお嬢様を、旦那様の意を汲んで優先しております」
「まったくお前は口の減らない」
……これはもしかして、一言も口を聞かない娘を心配して、主従で笑わせにきているのだろうか。
涼やかな芳しい香りに包まれながら、背後の主従のやりとりが耳に入る。
この少女の父親は、あまり口達者ではないらしい。そしておそらく従者とのこんなやり取りは日常茶飯事なのだろう。
慇懃無礼な従者をクビにしないあたり、呆れたような物言いは口だけで、信頼しているのだろう。口答えを許せるということは、きっと度量のある人物だ。
「私は不遇だ。従者といい、ミリーナといい。私だってなんだって買ってあげるしなんだってしてあげるのに、どうすればミリーナにもっと好かれるのだろうか」
……この少女は父親があまり好きではないのだろうか。
「何をおっしゃいます。お嬢様は旦那様のことを好いてらっしゃいます」
「そうか」
笑みくずれた声に——振り向かずともわかる、露骨にトーンの変わった声だった——ほっとした。
「奥様の方がお好きなだけです」
「……だから、妻より好いてもらうにはどうすればという話をしている」
なるほど。この少女はお母さん子ということか。
「充分好かれているというのに贅沢な願いですね。先ほど、お嬢様が旦那様を見て、とても嬉しそうな微笑みを浮かべていらしたのをご存知ないのですか?」
「なんだって? いつ?」
「お食事の最中です。旦那様がお嬢様のご機嫌斜めな理由を当てようとなさって、私どもにお尋ねになった後に。私はあまり学がないので適切な言葉が浮かびませんが……ほっとしたような、氷が溶けるような、それはお可愛らしい、見ていて切なくなるような微笑みでした」
聞こえてきたその声に、カッと顔が熱くなった。
自分は鑑賞者であって、あまり関心を持って見られる側になることはなかった。だから見られていたなんて思わなかった。
随分と好意的な言葉に変換してくれているが、内心を見透かされたようで恥ずかしい。
従者なだけあって、人の心情を察するのがとても上手いのだろう。
笑った自覚はなかったが確かにあの時、長年の疑問が解けて、……それは、まさに氷解したような気持ちだった。そこまでなら良かったが——確かに、自分は少し、切なさを覚えたのかもしれない。与えられなかった愛情を思って。
自分のこういう浅ましいところが非常に嫌いだった。
親からの愛情が与えられないのならば、一層誰かに愛されようと努力すればいいのに、いつまでも親の愛情が与えられないことを拗ねて人を羨むだけだった。自分を哀れむだけだった。
だから変わりたいと——そう、今度は変わりたいと、確かに自分は——?
なんだこの、——ひっかかる、何か。
何かが引っかかる、とまた恥ずかしさも忘れて考えに沈もうとした時、今までの呆れながらもどこか温かさの残っていた声が、急に身震いするほど冷たく耳に届いて、ギクリとした。
「お前——やたらと私を犯罪者に見えると言っていたのは、自分がそうだからだったのか?」
「は?」
「幼児相手に切ないなどと、正気の沙汰とは思えん」
——どうしてそうなった。
多分、ヒヤリとしながらも内心突っ込んだのはきっと、自分だけじゃなくてあの従者さんも同じはず。
あの「切なくなる」は自分、この少女の表情が切なそうな表情だった、という意味であって、従者さんが切なく思ったというわけではない。
思わず柔らかな腕の中から抜け出して背後を振り返ると、鉄面皮のようだった従者さんの表情が、見るも無残に崩れていた。
有り体に言えば、真っ青だ。
「滅相もありません」
これはまずい。
ひどい誤解だ。
口を開こうとして、——閉じた。
この際イントネーションがどうだとか、情報が欲しいとかはどうでも良い。そんな場合じゃない。だけど、自分が口を挟んで、物事が好転したことなんて一度もなかったのだ。それどころか悪化するばかりだった。だから自分は傍観者に成り下がった。鑑賞者でいれば、みんな上手くいく。自分が関わるより、余程ましな結果になる。それを忘れたのか。
早鐘のような鼓動が耳の聞こえを阻害し始める。
その時、聞こえにくくなった耳にも届く、軽やかな笑い声が響いた。
「なんて面白いことをおっしゃるのかしら。ねぇ、ミリィ? 殿方はこれだから。自分の従者を疑うものではないわ。ミリィが絶世の美女になるのは分かり切っているからって、こんな小さい頃からそんな些細なことにまで神経を尖らせていたら、大きくなるまでもちませんわ」
——前言撤回。この女性は、決して嫋やかなだけではなく、庇護されるだけの存在でもなさそうだ。
それと、多分、娘にちゃんと愛情がある。
「そうよね、シオン? あなたの家系は代々、よく仕えていると聞いています。音に聞こえた忠義を、あなたの代で泥に塗れさせようなんて、露ほども考えないのではなくて?」
シオン。それはおそらく従者の名前だろう。しかし、また紛らわしい名前を……。一見カナ表記が似合うように感じるが、紫音とか詩音かもしれない。
それどころか、心当たりがあるといえば、位——階級の一つにシオンというものがあった。これもミリーナとは別の物語だが、ファンタジー小説だ。下手をしたら固有名詞ではなく階級を表すかもしれないとくれば、この名前から国を予想するなんて完全にお手上げだ。
しかし、わかったこともある。
基本的には封建制度の価値観が非常に強いと見て良いだろう。
従者も含めた使用人が、仕える一家の人間に対して恋心を抱くことは、外聞の非常に悪いことだということ。
身分違いの恋なんていうものが、身近にある世界なのだろう。
母国にははっきりした身分の差を感じるようなものはあまりなかった。あるところにはあるのだろうが、少なくとも身近にはなく、遠い世界の出来事のように感じていた。
「奥様の仰る通りにございます」
頭を垂れたシオンが、そのまま言う。
従者の礼なんて、見たことがない。自分は専ら本ばかりで、テレビも動画もあまり馴染まなかった。だけれども、それはきっと、従者として完璧な礼だろう。
傅いて頭を垂れるその仕草が、それでも不思議と凛として見えた。
そしてこの少女の母親は、堂々たる賢夫人だ。
「さ、仰ることがあるのではなくて?」
敬語になったことを見るに、これは旦那様への言葉だろう。
「すまなかった。頭を上げてくれ。私の勘違いだった。これからもいつも通り減らず口を叩いてくれ」
「謝り方がおかしくありませんか」
温かさの戻った声に、頭を上げて立ち上がった従者は、慇懃無礼に言い放った。
それを聞いて、どこか安心したような呆れた顔になった父親は、表情を改めてこちらを——正確には、自分の後ろの母親、この人の妻を見る。
「ミリーナが可愛いから心配な父親心もわかってくれ」
「それは充分承知しておりますわ」
「おはようの挨拶を邪魔したからって、そう怒らないでくれ」
え、そこ?
「あら、わたくし、少しも怒っておりませんわ」
「すまなかった」
「殿方の嫉妬ほど醜いものはありませんわね」
「……申し訳なかった。私が悪かった。この通りだ」
ここがどこの国なのか、どんな身分のどんな生活様式なのか、自分のフルネームすらまだ確定もしていないしわからないままのことも多いが、結構重要かもしれないことがわかった。
この家は、かかあ天下だ。
そして少なくとも表向きは、この少女は両親に愛されている。
表向きでも愛されているならそれで良い。自分は人の心の機微などわからない。裏の顔も、本音と建前も、滲み出るものもわからない。言葉は額面通りにしか受け取れない。だから、口先だけだろうと愛してくれるなら、安心して生活できる。
美しい横顔をツンと逸らしたままの母親に、平謝りに謝り倒す父親の姿を見て、くすりと微かに笑みを漏らしたアンナ=ミリディアナ=ウィル=セイレーンの脳裏に、過ぎったフレーズがある。
亭主関白は関白止まり、かかあ天下は天下をとる。
尊敬に値する父の弱みがとても美しい母だなんて、なんて素敵。
強い母も、必死に謝る父も、見る人が見たら情けないのかもしれないが、とても素敵に映った。
こんな両親を見て育ったなら、あるいは——「結婚したい」と、少しは思ったのかもしれなかった。
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