ご当主様

 甘い匂いの漂う飲み物に、驚いた。

 自分は牛乳を温めたことがない。「ミルクのような甘い香り」という形容句を読んだことはあるが、なるほど、こんな香りだったのか。好ましいものの形容句に、確かに相応しい。

 しかし、侍女に笑顔で差し出されたそれに、手をつける勇気はなかった。

 なにせ自分は牛乳が嫌いなのである。


 この少女は5歳に満たないのではと思いはした。だが、髪を結ったり顔を拭いたり着替えをさせたりしてくれた女性は、侍女だという。乳児を育てるのは乳母の仕事の筈だ。もちろん、手ずから行うという例外もある。しかし、そうでなかった場合、これは重大な問題だ。

 乳飲子は当然として、乳離れが済んでからも、ある程度の期間、乳母が面倒をみる。この部屋に乳母はおらず、いるのが侍女だけだとしたら、5歳を過ぎている可能性が。

 問題は、自分の感覚とずれたものを口に入れると、すぐに吐き気に見舞われるという厄介な自分の体質だった。


「お嬢様のお気に入りのホットミルクですよ。蜂蜜たっぷり」

 取り成すように言われたそれに、口をつけて顔を歪めでもしたら、怒っている疑惑を肯定してしまうような気がする。

 林檎のすりおろしと蜂蜜を混ぜたスムージーのようなものの方に、手を伸ばした。

「……お嬢様、もしかして体調が悪いのですか?」

 ゆっくり、意識してゆっくりと飲みながら、(味は良い。想像通りだ。想像より少し甘いかもしれない)どうするべきか考えた。

 現状、迂闊なことが言えない今は、体調が悪いということにするべきだろうか。

 いやしかし、医療がどんな状態かもわからない状況で、迂闊に首肯するのも危険だ。怪しげな祈祷をされるのは御免こうむる。何より、得体の知れない薬湯を飲まされるのはもっと御免だった。

 自分はお腹が弱いのだ。

 ここは否定しておいたほうが無難かもしれない。


 首を横に振る。

「……これから、朝食なのですが、通常どおりでよろしいですか?」

 首を縦に振る。

「かしこまりました。それでは、移動の準備をいたしますので、少々お時間を」

 移動、という言葉に、首を傾げた。



「おはよう、私の可愛い小さなミリーナ」

 満面の笑みを浮かべた男性が、両手を広げてこちらを向いている。

 金髪碧眼の美青年だ。この少女の父親だろう。

 ミリーナ。それがこの少女の名前。

 困った。名前からおおよそ見当のつく国がいくつかあったのだが、「ミリーナ」ではわからない。心当たりがあるといえば、ファンタジー小説の中のキャラクターにいたくらいだ。もっと特徴的な、固有のファーストネームだったら、ここがどこの国か見当がついたのに、これでは大陸さえ絞れない。母国ではなさそう……いや、キラキラネームなんてものもあるからな……

 西洋の血を思わせる顔立ちも、二世三世の可能性もあるから排除しきれないし。


 この男性が平均かはわからないが、身長だけをみると、少し未来なのではないかという気がする。平均身長は年々高くなっている。自分の感覚にある一般男性よりも背が高く感じる。


 ——いや? 今自分の背が低くなってるから、その影響も否定できない、か。

 それに、コーカソイドは比較的身長が高い。軽率な判断は危険だ。


 隅に控えている従者らしき人も背が高い。

 そこまで考えて、ふと疑問に思った。

 侍女の身長は、違和感がなかった。

 侍女が小柄なのだろうか。それともモンゴロイドだから?


 それにしても、服のデザインが時代考証に合わない。

 男性が着ているのは、やや軍服めいたデザインのスーツのような服装だ。

 侍女やこの少女の服装、屋敷の作りから察するに、文化的には中世、国的には西洋と推し量っていたが、それだったら、男性はいわゆるカボチャパンツの筈。少なくともスパッツにハーフパンツが主流だったような……踝まであるいわゆる長ズボンは、確か農民や労働階級の服装では? しかし、それもおかしい。トラウザーズに絢爛豪華な刺繍を施すなんて、トラウザーズの成立した意義からすると矛盾もいいところだ。一体なんの反骨精神だ。そもそも、侍女のいる農家なら、当主はおそらく地主だ。やることは経営だろう。

 ——とすると、やはり金持ちの道楽だろうか。

 女性のドレスは、現代でもある程度着る習慣が残っている。授賞式や、社交界、あるいは発表会などで。それに、好んで身につける一定の愛好者もいる。

 しかし、男性のいわゆるカボチャパンツは、完全に廃れている。少なくとも、自分は一切見たことがなかった。男性の礼装はとうの昔に三揃に取って代わられている。

 また考えに耽っていると、目の前の男性の顔が、なんだか困惑したような表情に変わっていった。

「御機嫌斜めだとは聞いていたが、おはようの抱擁もしてくれないのかい?」

 ——おはようのほうよう?

 瞬くと、男性は焦れたようにこちらに向かって歩き出した。

 手を広げたまま。

「でもこれは父親に与えられた権利だ!」

 えいっとばかりに抱き締められて、頬ずりされる。

 ほうようって、抱擁か。

 呆然としつつ、頰がザラザラしていないことに驚いた。そして男っぽい香り。香水だろう。

 幸い、男性の衣服には、刺繍はあるものの飾りはそれほどついていない。抱きしめられても服越しにゴツゴツして痛いということはなかった。

 その後、浮遊感に襲われてうっかり出そうになった悲鳴を飲み込む。

 抱き上げられたのだ。

 正面から顔を覗き込まれる。

「ミリーナ。今日も一段と可愛い」

 そちらもとても顔面偏差値の高いお顔で。

 混乱した頭の中に、そんな言葉が浮かぶ。もちろん口にはしない。世の女性がくらくらしそうな顔立ちだ。なにぶん、いつも鑑賞者だったとはいえ、いやだからこそ、こんな至近距離で真正面から人の顔を見たことはなく、見られたこともない。どうしようもなく照れてしまう。

「旦那様。そろそろおやめくださいますようお願いいたします。犯罪に見えますから」

「何を言う。娘を可愛がる父親の図だ」

 父親確定。

「奥様がおられないからと挨拶が長すぎます」

「母親の不在を埋めるのも父親の義務だ」

 母親はもしかして、お亡くなりになってしまったのだろうか……

 愛情不足にならないように必死で頑張っているらしい父親の姿に、迂闊にもこみ上げそうになったものをなんとか抑えるべく、力を入れる。

 如何せん、家族モノには弱いのだ。恋物語では泣けなかったが、家族が題材の温かい物語には、ちょろ過ぎるだろうというくらいボロボロ泣いてしまう。

 朝の挨拶にしては熱烈に感じてしまったが、そうと分かれば受け入れるべく努力あるのみだ。

「奥様はお目覚めになればいつものようにお嬢様を可愛がるでしょう。お嬢様との挨拶を長引かせるために奥様を口実に使ったと。後ほど報告させていただきます」

 ——前言撤回。

 奥様は存命のようだ。

 溢れそうになっていた涙は簡単に引っ込んだ。

「ミリーナ、私の従者が私をいじめるよ。お父様を助けておくれ」

 控えていた男性は従者確定。

 砕けた間柄のようだ。

「お嬢様に縋るような父上は願い下げでは?」

 ——かなりすごく砕けた間柄のようだ。

「まったくお前は口の減らない」

「目障りでしたらどうぞお切りください。お嬢様の従者になります」

「断固阻止」

「でしたら、お嬢様を椅子に。朝食が始められません」

 母親は生きている、はずだが……朝食には来ないのだろうか。

 もしかしたら、母親はかなり格の高い身分なのかもしれない。

 中世がベースの物語では、公爵家ともなると、親子でも顔を合わせるのは一ヶ月に一度あるかないかといったところだったはずだ。屋敷がいくつもあり、公爵の屋敷、夫人の屋敷、子供たちの屋敷と分けられている。生活はそれぞれがそれぞれ行う。もちろん、閨事があるから、夫婦はもっと頻繁に顔を合わせているはずだが。

 移動して食事をとる。しかも朝から家族と揃って、ということから、おそらく自分の知識に当てはめるならば伯爵や子爵クラスあたりの生活様式ではないかと推察したのだが——。

 侍女がいて従者がいる。それにかなりの大きさの屋敷。ここまではともかく、公爵家クラスの令嬢を娶るとなると、もう少し位は上なのだろうか。

 中世懐古主義なだけとは思えないが、資産がずば抜けていて、当主の道楽に惜しみなく注ぎ込んでいる可能性もないではない。もっと情報が欲しい。ヒントはあるのかもしれないが、自分にもわかるレベルで提示して欲しい。

 こっちは探偵でもなんでもないのだ。鑑賞者ではあったが、観察眼に優れているわけでも、洞察力に優れているわけでも、知識量が豊富な訳でもない。


 お尻が椅子について、はっとした。

「ミリーナ? 今日は本当におとなしいね。まるでちゃんとしたご令嬢のようだ」

 この少女は可憐な見た目とかけ離れた、若干騒々しい性格のご令嬢ということだろうか。

「旦那様。お嬢様は紛うことなきご令嬢です」

「もちろん。——熱はないようだね?」

 大きな掌が額に触れて大仰に体が跳ねてしまった。不思議そうに首を傾げられた。

「ご令嬢のようなミリーナとは、さて。今日は雨が降るかな」

「旦那様。ですからお嬢様はご令嬢です」

「もちろん。私の娘だからね」

 二度、三度と頭を撫でられる。

「いい加減ご着席ください。給仕の者がそわそわしております」

「それはいけない」

 ——やはり、この人は人格者に違いない。


 長いテーブルに着いたのは、自分と父親だけだった。

 兄弟姉妹のことは話に上がらないが、ひょっとして一人娘なのだろうか?

 それか、歳が離れているか。

 運ばれてきた皿を見て、どうやら食べられそうだとホッとする。

 配膳されたのはフランス料理のような感じだ。そして、カトラリーも見慣れたもの。

 ここまでは安心した。使い方もわかるし、味の想像もつく。中世では手掴みという国もあるのだが(紅茶文化が有名なあの国とか)、お腹の弱い身としてはそれは避けたかった。これなら、吐き出すこともお腹を壊すこともないだろう。

 しかし、——食事の作法は、自信がなかった。

 自分の持っている知識は、肉だったら左から切り、切るたびに口に運ぶ。スープは音を立てずに飲み、スプーンが卵型であれば口に含んでも良いが、円形ならば口には入れず、付け根から流し込むように飲む。カトラリーは外側から。——と言った、ごく一般的な知識なのである。

 当てはまるかどうかもわからない上に、知識はあっても実践が足りない。

 一般的に、かちゃかちゃ音を立てるのは無作法とされるが、音を立てずに肉を切るということができない。


 どうしたものか。


 途方に暮れていると、お腹が鳴った。

 ——恥ずかしい。

 いや、そうだ、この少女は少女だ。令嬢だろうと子供は子供。多少作法がなっていなくとも、そこまで怒られまい。

 覚悟を決めて、まずは父親の方を見た。

 知っている作法が間違っていないか、見て確かめるべく。


 ……ああ、さすがは、お貴族様だ。


 まだ金持ちの道楽疑惑が払拭されたわけではないが、この人は貴族なのだと、そう思わされるような完璧な所作。

 完璧な所作なんて見たことがないけれど、きっとこれがそうなんだろうと思わせる、洗練された動き。

 作法を学ぶ必要性ってこれなんだろう。

 自分はそもそも無作法だからか、なっていない人を見ても別段なんとも思わない。だけど、きれいな動きは目を引く。それが食事という、生命維持活動であっても。


「ミリーナ? どうしたんだい? 何か欲しいものがあるのなら言ってごらん」

 またぼうっとしていたことに気づき、慌てて首を振る。

「ドレス? 髪飾り? 首飾りかな? いや、いつもと違う様子といい、何かよほど難しいお願いということかな?」

 違う。という代わりに首を振る。

「違うのかい? 物ではないのか。となると——狼を飼いたいとか?」

 ぎょっとして目を剥く。しかし、これも大切な情報だ。

 母国固有品種の狼は絶滅している。特定動物に指定されているから、輸入も簡単ではないはず。

 いや、だから「難しいお願い」なのか? 

 というかその前に、そんなお願いをしかねないご令嬢なのだろうか。

「ハズレか。なかなか難しいね。よし、私の可愛いミリーナのお願いを言い当てたものには報奨金を出そう。ただし、ミリーナに直接尋ねるのは禁止だ」

 楽しそうな父親は、従者の方を向いてそう言った。

「受けて立ちましょう」

 給仕の人の口元も綻んだ。

「面白いですね。厨房にも声をかけてきます」


 ——どうやら、父親はかなり朗らかな気質の人のようで、使用人との関係も割と砕けて良好なようだ。


 使用人からの嫌がらせはなさそう。

 そのことにホッとした。


 そういえば、自分の目が追う男性は、年上が多かったなと、ふと思った。

 父親にも愛情は注がれなかった、その反動だろうか。

 ファザコンとは多分違うけれど。父親自身とは内面も外見も似ても似つかない人ばかり目で追っていた気がするから。例えば、この人のように。


 けれど。


 けれど、と心の中でもう一度前置きしてから、アンナ=ミリディアナ=ウィル=セイレーンは、無意識に、その可憐な顔にまさしく天使のような微笑みを浮かべた。


 大きくなったらパパと結婚する、なんてお父さん子の小さな女の子の言いそうなこと、自分は一度も思ったことはなく、初めて知ったときはびっくりもしたのだけれど。


 こんな素敵なお父さんを持つ幸せな女の子は、きっと自然と、そういう風に思うのかもしれない。

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