執事
侍女のメアリー=トゥクタミシェワから一報を受けた執事は、頭を抱えた。
どうやらまたお嬢様が何か悪巧みをなさっているらしい。
今日は朝から一言も口をきいてくれないらしく、探るのも不可能とくれば、彼女がお嬢様の大好物、蜂蜜たっぷりホットミルクを口実に、部屋から抜け出して報告にくるのも無理からぬことだった。
と言っても、実際にこちらに来たのはお嬢様付きの護衛の一人。メアリー自身は、通りかかったメイドにホットミルクを言伝て、ドアの前で待機している。
懸命な判断だ、と一筆添えるのを忘れない。
お嬢様はその天使のような見た目を最大限に利用し、護衛を籠絡するのが非常にお上手だ。お嬢様を危険から守るのが護衛の役目だというのに、そのお役目にはお嬢様を危険から遠避ける方の意味合いが強いというのに、危険な場所に同行させてしまうのである。
これが男子であるのならば、多少のやんちゃは大目に見ることだってできる。幼少期の行動に大きく左右される基礎体力は、生涯をも左右する。農家であればそれは生活に直結するし、貴族であっても、婚姻に関わってくる。協定が結ばれて幾星霜。領民を指揮し武功を上げる必要性こそ薄まったが、社交の場でばかにされない程度の剣の腕だって必要だ。
だが、それはあくまで男子の場合。
お嬢様は文字通りお嬢様である。
礼儀作法を修め、社交術を磨き、詩歌音曲、刺繍、高い教養を身につけるべきであって、……まぁまだそう言ったことを本格的に学ぶのには早いが、だったらせめて、お人形遊びに精を出して欲しい。ぬいぐるみを抱きしめるのでもいい。体を動かすのがお好きならば、ダンスに関心をお持ちになっていただきたい。絵本や刺繍に興味を持っていただければ、万々歳だ。
だというのに。
広大な庭園では飽き足らず、その先の森や下手をすると町まで繰り出してしまう、強靭な足腰をお持ちのお嬢様は、執事の常日頃からの悩みの種だった。
足が太くなったらどうするのだ。
護衛を何度叱りつけ、幾度罰を言い渡したことか。
だというのに、懲りずに繰り返す。
家族への仕送りができなくなりそうなほどに給金を下げてやろうかと画策したこともあったのだが、旦那様に止められてしまった。
だとすれば、できることは人員の入れ替えしかない。幾度もお嬢様を連れて(いやお嬢様に連れられて、が正しいかも知れないが)屋敷を抜け出した護衛はマナーハウスへ送り、マナーハウスの優秀な人員を旦那様へ、旦那様の護衛をお嬢様へとお叱りを覚悟で提案したところ、「私の可愛いミリーナの為ならば」と笑顔で許可をいただけた。
腐っても旦那様付きの護衛だ。まさかお嬢様の口車に乗せられるような柔な人間はいないだろうと、油断したのがまずかった。
メアリーの悲鳴が屋敷に響き渡ったのは、人員の交代から三日目の午後だった。
メアリーは、今のところお嬢様に籠絡されない数少ない人間だが、そのメアリーも、何を思ったのか騎士団の人間を夜遅くに(お嬢様が寝静まってからだ)屋敷に招き、体を鍛え始めるという暴挙に出た。
メアリー曰く、「私がお嬢様に追いつく体力をまずつけないことには、ずっと堂々巡りですわ」
だからって。
そんなことは女性の仕事ではないと、説得をしたが聞き入れられずに、なんとメアリーは旦那様と奥様に直談判までしたのである。
まぁともかく、護衛を残してメアリーがこちらに来るよりも、護衛を使いにしてメアリーが残る方が、まだマシということだ。お嬢様も、流石に護衛を付けずに外出なさることはないのだから。
しかし、そう、そのお嬢様だ。一言も口をきかないなどと、何を悪巧み、いやそこまでお怒りになっておられるのか。
「……私の残り少ない頭髪の命運も、お嬢様にかかっておられるのですぞ……」
うっかり口から漏れた恨み言に、護衛が吹き出して慌てたように横を向いた。
お前たちがしっかりしないからだというのに……!
旦那様と奥様に伏せておくにはもう時間がない。
家族揃っての朝食まであと1時間。
それまでの解決は今となってはもう無理だ。
悪巧みこそメアリーの立場を慮って仲間外れだが、お嬢様のメアリーへの信頼は篤い。そのメアリーにも話さないお怒りとなれば、短時間での解決は既にかなりの無理筋ではあった。
しかし、悪巧みであるのならば、護衛に聞かないわけにもいくまい。
そこまで考えて護衛を寄越したのだろう。
口を割るかどうかは、別の話として。
「……護衛として、お嬢様の行動に何か心当たりは?」
ダメ元で聞いてみるが、やはり捗々しい成果はなかった。
「屋敷内の人事権は私にある。お嬢様が庇いだてしても私の決定は翻らない。何故なら旦那様がご健在の今、私の雇い主はあくまで旦那様だからだ」
その旦那様はお嬢様を溺愛しているので、巡り巡って結局はお嬢様の裁量になるかもしれないが、今のところお嬢様は人事に口を出したことはなかった。
「旦那様も溺愛されているお嬢様に万一不利益を被るような危険がある真似をした人間を、庇いだてされることは絶対にない。絶対にだ」
人道的な見地から止められたことはあるのだが。
「しかし、正直者には慈悲の心を持たれるお方だ。私も公平でありたいと思っている。お嬢様の無理強いに抗えなかったのであれば、同情の余地も大きい」
だから話せ、と間を置いて見ても、返ってくるのは否定だった。
意外なことに、今回は本当に知らないようだった。
目が泳ぐこともなく、まっすぐこちらの目を見て否定するその様は、嘘がないことを表しているように見える。
あまつさえ、逃げ出そうとしないのが嘘のない証左だと思われた。
旦那様と奥様は、非常に仲睦まじいというのに、未だ第2子ご懐妊の知らせはない。
筆頭公爵家の領地は広く、領民も多い。発言権も甚大だ。
そのたった一人のご令嬢の身に危険が及ぶなどと、断じてあってはならない。
そしてたった一人のご令嬢を、旦那様と奥様は甚く溺愛しているのである。
先を思うほどに、決して繊細ではなかったはずの執事の胃は、キリキリと痛むのだった。
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