侍女

「まぁ、お嬢様! 申し訳ございません。お待たせして」

 ノックの後、静々とドアを開けてやってきた女性は、ドレッサーの前に座るアンナを見て、目を丸くした後、足早に近寄ってきた。

 白い髪留めに、踝までの濃紺のワンピース、白いエプロン。

「すぐに御髪を。後生ですから、お怒りにならないでくださいな」

 見た目、メイド?

 だがその、どこか窘めるような物言い。

 ——侍女、だろうか。

 すぐ後ろにきた女性は、手袋を外してエプロンのポケットにしまうと、化粧瓶を手に取った。

 薔薇のような香りが濃くなる。

 見たところ、特段乱れているように見えない髪を、丁寧に梳かしていく。

 あの化粧瓶は、トリートメントの一種だろうか。

「さぁ、綺麗になりました。今日も一段と美人ですわ」

 手際よく髪を纏め上げた女性の言葉に、今は朝らしいと察した。

 そして化粧を施されないところから、おそらくこの菫色の瞳の少女は、自分の持った印象通り、まだ少女——それもおそらく、幼女と言われる年齢なのだろうと推察した。

「ところで、お嬢様」

 改まった声に引かれて、視線を鏡の中の少女から、少女の後ろに立ったままの女性に向ける。鏡越しのまま。

 すると、若干引き攣った微笑みを浮かべていることに気づく。

「……今日はまた、一体何を怒ってらっしゃるのです?」

 ぱちりと、目を瞬く。

 そしてもう一度少女の顔をじっくりと観察する。

 不思議そうに丸く開いた口、少し見開かれた瞳、なだらかな眉。

 第一印象も、各々のパーツの形状も、怒りを表しているとは言い難い。はず。

 人の表情や心の機微を読むのは苦手だから、自信はないが。

 しかしこの鏡の中の少女が自分であるならば、自分の心の中のどこを浚っても今この瞬間「怒り」という感情はない。

 何がこの年上の女性に、そう思わせるのだろうか。

 確かに、ちょっと前に柳眉を逆立てたことはあった。でもそれはこの女性が入ってくる前だ。鏡に映る少女とご対面したときは、まさに今鏡に映っているような顔だった。平たく言うと、ポカンとした顔。そして思わず声を発した、その直後は、自分の声が違いすぎて、浮かんだのは嫌悪だ。見た目の乖離よりも、声の乖離の方が、自分には受け入れ難い。

 しかし、そんな嫌悪はドアをノックする音で霧散した。

 有り体に言うならば「それどころじゃない」だ。

 声を発する前にドアは開いた。

 ますますそれどころじゃない。

 心のほぼ10割が「どうしよう」で満たされる。ほぼの残りは「なんだこれ」。「これ」と言うのは入ってきた女性ではもちろんない。この状況がだ。

「私が遅かったことですか? お嬢様の起床時間がいつもより早く——いえ! それともリボンのお色がお気に召しませんか? それともリボンではなく、髪飾りのご気分ですか? それともそれとも、——そうであっては欲しくないのですが、何か落ち度がございましたか?」

 黒髪黒目の女性の言葉は、理解できる。自分の母国語で、そしてこちらに敬意を払っている、敬語だ。

 しかし理解できないのは、頑なにこちらが「怒っている」と思っている部分。

 思わず首を傾げてしまった。

 視界の端に、鏡ごしではなく結ばれたリボンの端が入る。切れ端は綺麗にかがってあった。

「……それともそれとも、昨夜最後にお出ししたホットミルクの味がお気に召しませんでしたか?」

 ホットミルク。

 それに眉がピクリと寄った。

 牛乳。それは子供時代の自分が大好きで、成長とともに大嫌いになったもの。

 5歳を超えた自分は進んで口にしたことはなかった。

 だが、鏡の中の少女は、まだ5歳にも満たないのかもしれない。

「それともそれともそれとも、——また何か企んでらっしゃいます?」

 また。これは重要なワードだ。

 この少女は、何かを企むことがよくあるか、前にもあったということだ。

「お嬢様? 後生ですから、何がそんなにお気に障ったか教えてくださいな。申し訳ございません。そんなに重大なことなのに、心当たりがないのです。私ったら本当に、鈍くて鈍感で察しのつかない」

 女性が目元に手をやって、その後両手で顔を覆ってしまった。

 泣いた!?

 なぜそんな展開に?

 泣き真似!?

 しかし声も震えている。

 慌てて振り向き、そのエプロンを引っ張りながら首を横に振る。

 なんども引っ張ると、流石に手を退かしてこちらを見てくれた。

 瞳は若干濡れている。完全な演技というわけではなかったようだ。

 それから察するに、侍女にとって、お嬢様が怒ることはそれほど困らないが、企むことはかなりの困りごとのようだ。

「違うのですか? 企んではいないのですね?」

 今度は首を縦に振る。

「また私を騙してらっしゃるのでは?」

 また。これも重要だ。この少女は、侍女らしき女性を騙すことがあるらしい。企みに巻き込まれて困るのかと思ったが、もしかしたら、企みを知らずにもたらされた結果の後始末に奔走するのが大変なのかもしれない。

「お嬢様? やはり私を除け者にされるおつもりなのですね?」

 しまった。考察に夢中で首を横に振るのを忘れていた。

「……私の一体どこがそれほどまでにお気に召さないのでしょうか……やはり鈍くて鈍感で察しの悪い機微の読めない人間は」

 慌てて横振りを再開する。

「いつもお嬢様はそうおっしゃいますね」

 いや何も言っていない。だが自虐する人間を止めないというのはどうかと思う。状況が読めない今、迂闊なことは喋れないが、首を振ることはできる。

「私が悪いのではないと」

 これも大事な情報だ。お嬢様は、侍女を嫌っているわけではないらしい。

「ですが、私もいつまでも除け者にされるわけにはまいりません。今日まで秘密にしておりましたが、私、伝手を頼って騎士団の方に訓練を受けておりました。まだ一ヶ月ですが、コツを掴んだので、以前よりは早く走れるようになりました!」

 ——……ええと?

「大丈夫です。影ではふしだらな侍女だなどと言われたこともあったようですが、旦那様と奥様にはきちんと事情をお伝えしております。決して逢引などではなく、お嬢様の為なのだと。そのようなことは侍女の役目ではなく、止められないのは侍女の不手際とはしないから、無理はするなとおっしゃっていただきましたが、この役目を何処の馬の骨とも知れぬ男に任せる方が不安だと、お嬢様に懸想でもしたらどうなさるのですかと嘆願したところ、陰口は旦那様と奥様が叩き潰してくださいました。お嬢様の将来には一切ご迷惑はかかりません!」

 ——……うん、情報量が多すぎて頭が追いつかない。

 まず、やっぱりこの女性は侍女だ。お嬢様付きの侍女。これは確定。

 このお嬢様のご両親は健在。これも確定。少なくとも一ヶ月前までは、存命。ご両親は、侍女にも心を配れる、人格者——だと思う。

 そしてこの国には、騎士団というものが存在している。

 これは重要なワードだ。

 侍女というものも、一般家庭には馴染みがないものだが、完全に存在しないというわけではない。しかし、騎士団となると、母国には完全に存在しなかった。

 言葉としてはある。だがそれは、異国のものを説明するために存在した単語。

 可憐な少女の顔立ちは確かに西洋の血を思わせる。

 しかし、年上の女性の顔立ちは、モンゴロイドだと思う。

 それに何より、この言語は母国のものだ。

 ——騎士としての実態はなく、勲章として異国では残っている。だが、「早く走れるようになった」ということは、訓練内容はやはり、実態を持った騎士団とみるべきだろう。

 そうなると——いや、自分の知識が及ばないだけで、発展途上国の何処かには、実態を持った騎士団があってもおかしくはない。

 考えうる最悪のパターンは、この中世を思わせる衣装からすると——第三次世界大戦が勃発、先進国が共倒れ。技術は失われ、もう一度文明を築き上げている途中——ということだろうか。

 侍女がふしだらだとお嬢様の将来に迷惑がかかる、ということは、おそらく女性の純潔に価値を置かれている。それに騎士団員に訓練を頼んで、イコールふしだらとなるところも。この辺りの価値観は、中世のそれに近いと思う。


 いや、まだそうと決まったわけではない。

 単なる懐古主義なだけかも知れないし。

 この家の中でだけ、もしくはお嬢様の好みに合わせて、話しているだけかも知れない。

 とにかく、他の人に会わなければいけない。

 物事はいつも少なくとも両面から見なければ。

 片方の言だけでは、偏ったものの見方になってしまう。

 人間には真実なんて見つけられないと思う。少なくとも自分には。

 けれどなるべく、歪みの少ないものの見方をしなければ。


 愛情表現が不器用なだけで、弟が病気がちなせいで、放って置かれるだけだと主観で判断していた。周りの人間も物語もそう助言してくる。でも母の本音は、あの呪詛のような日記だった。あれを読んですごく腑に落ちたのだ。不器用なのは母ではない。どんなにあからさまに嫌われていても、母には事情があるのだからと、物分かりのいいふりをしていた自分は、さぞかし母にとって気持ち悪い子供だっただろう。どんなに粗雑に扱っても、なついてくる子供なんて。

 だからこそどんどんエスカレートしたのだ。暴力も暴言も。


「ですからお嬢様、どうか私を除け者にしないでくださいませ」

 はっとして、慌てて顔を上げた。

 真摯な声。

 考察は後回しだ。

 とりあえず、今は傍観者ではいられない。

 目の前のこの女性を、なんとかしなければ。

「この一ヶ月で走るのは早くなりました。次の一ヶ月で、きっと剣術の初歩は身につけて参ります。ですからどうか」

 ——……少なくとも、この侍女は、侍女らしい侍女とは言えないようだ。

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