来つ寝と影法師

長門拓

プロローグ 狐少女との出会い

第1話 巌のように揺るがない一つの事実

 十四歳の春、ハンナは初めて人間を見た。それがぼくだ。

「初めて」という言い方には、いささか語弊があるかも知れない。十四歳の春を迎える以前にも、ハンナの周囲には母親という「人間」が存在していたからだ。だからぼくはこう言うべきなのだろう。十四歳の春に、ハンナは普遍的な意味での「人間」という存在を認識したのだと。


 しかしそれでも十四歳の春を迎えるまで、彼女が母親以外の人間を目の当たりにしたことがなかったという事実だけはいわおのように揺るがない。この事実はいったい何を意味しているのだろう。比較する対象のないところから、どうやって人は「概念」を獲得するに至るのだろうか。

 だが出口のない哲学的命題をもてあそぶのはぼくの趣味じゃない。ただ、十四になるまで母親以外の人間とは会うこともなく育った一人の少女がいる。名はハンナ。古代の言葉で「神に愛される」という意味らしい。いい名前だと、ぼくは思う。


 ぼくが初めて彼女と会ったのは二〇二〇年の……繰り返しになるが……春だ。ハンナは十四歳で、ぼくは十九歳だった。

 込み入っていた依頼がようやく片付いたので、久しぶりに郊外の廃墟を散策していた。どうしてだかうまく言えないけど、ぼくは昔からさびれた町や壊れたインフラや文明から見捨てられた建造物やらを見て歩くのがたまらなく好きなのだ。

 その廃墟は今までに何度も訪ねたことのあるほどにお気に入りの場所ではあったが、全てのポイントを網羅もうらしていたわけではない。それでも熟知しているという油断があったのだろう。結論から言うと、気がついた時には相当本格的に道に迷ってしまっていた。

 半ば焦り、半ばひとごとのような楽しみを味わいつつ、おとぎ話のような心持ちでビルの隙間をくぐり抜けた。いくつもの鉄骨が不吉な牙のように剥き出しになり、路面のアスファルトはいくつもの亀裂を走らせていた。

 視界の外れに、ふと天上から光が射しているような気がした。

 何かに誘われるように歩みを進めると、一足ごとに若草の比率が高くなる。何かの綿毛が風に漂って鼻先をかすめた。元は公園だったような、ひらけた場所に辿り着いた。

 柔らかな草花に埋もれるように、金色の髪の少女がそこに安らいでいた。淡い黄色味を帯びたワンピースのような服の隙間から、獣特有のふさふさとした尻尾が生えており、近づくと頭頂部の耳介がかすかに動いた。

 身動みじろぎをして半獣の少女が目を覚ました。


「……」

「……」

「……うにゅ?」

「……はじめまして」


 とりあえず挨拶をしてみたのと、脱兎のごとく少女が逃げたのはほとんど同時だった。

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