アンダーグラウンド モスクワⅩ
「アルトはこっちに行ったはずだ。急ぐぜ」
わずかな明かりを頼りに、
「
「うん?」足は止めずにローガンは聞く。
「父さんのことを知ってた。あいつは、元軍人?」
「そうみたいだな。だが、お前の父が軍と関わりがあったという話は聞いたことがない」
「私も知らない」
「とにかくそれは後だ。まずはアルトに追いつくぞ」
「うん!」
何度か有効打を入れた。だけど、ダニーラは止まらなかった。気絶もしないし、正気に戻ってくることもなかった
「クソッ!」
焦りと不安が心に広がってくると、技は鈍ってくる。体力もだんだんとなくなってきて、ダニーラの技を捌き切れなくなってきている。
「ダニーラッ!」
祈るような気持ちで突きを繰り出す。だが、あっけなくそれは躱されて、そのまま突っかけてきたダニーラに、アルトは押し倒された。
「やべっ」
マウントポジション。圧倒的に不利な体勢だ。獣の本能がその体制を選んだのか。
叫び声を上げながらダニーラはアルトの顔を殴り続ける。アルトは腕で顔を守り続けるが、ダメージはとても逃がしきれない。意識が少しづつ遠のいていくのを感じる。
――お前のことも殺してしまう。
ダニーラの言葉が頭の中でリフレインしていた。
ダニーラの手がアルトの首をつかむ。ゆっくりとその手に力が加えられていくのをアルトは感じた。ダニーラの腕をどかそうとしたり、ひっかいてみたりもするが、力が緩まることはなかった。
ここで終わりなのか。明確に死に向かっているが、頭の中は妙に冷静だった。都合よくローガンたちが現れるとも思えない。せっかく、ヴァシリとカタリーナが助けてくれて、ローガンとフリッツがつないでくれた命だったけど、短かったな。けれど、ダニーラに、同じ実験体の誰かに殺されるなら、それは、仕方ないというやつなのかもしれない…。
あきらめかけたその瞬間に、少しだけ首にかかる手の力が緩んだのを感じた。
「お前が…」
酸素が脳みそに少し供給される。額に何か落ちるのに気づいた。それから、ダニーラが小さな声で何かをしゃべっていることに気づいた。
「お前が死んだら、シンシアは」
額に落ちたのは涙だったのか。それがダニーラの最後の正気だった。嗚呼――意味を見つける義務があるんだ。命の意味を見つける義務が、戦うことを選んだ者には。
その思いには答えなくてはならない。彼の命の最後の意味を無駄にしてはならない。そうだ、シンシアを助けなければ。
力が緩んだ隙に、少しだけ腰を浮かせた。ローガンから預かっていた拳銃を腰から引き抜いて、ダニーラの額に向けて構えた。
「ダニーラ」震える声で、同胞の名前を呼んだ。
ダニーラはもう何も答えない――
「アルトッ」ローガンとアズサが倉庫に、人狼同士が争っていた部屋に飛び込んだ。拳銃を両手で握ったまま座り込んでいるアルトを見つけて、二人は彼のそばに駆け寄った。
「アルト、おい」呼びかけてもアルトは反応しない。少し震えながら、銃を握ったまま部屋の奥のほうを見つめている。
「
「…なるほどな」
「撃っちまった…」アルトがか細い声でしゃべり始める。「撃っちまった、俺が。助けに来たはずなのに」
「アルト、大丈夫。もう大丈夫だから」アズサがアルトの銃を握っている手を、上から握りこんだ。アルトが彼女のほうをゆっくりと向いた。
「こんなものは、もう持たなくて大丈夫よ」その言葉を聞いて、アルトがゆっくりと手の力を緩める。アズサが彼の手から拳銃を受け取った。
「…よし、アルト、立てるか?急いでここから離れる必要がある」
アルトは頷きを返す。
ローガンが先頭に立って、その後ろでアズサがアルトを支えて、三人は研究所から離脱していった。
ただでさえ重く冷たい雰囲気の、モスクワの地下ダンジョンに、さらに刃物で刺すような戦慄の空気が流れる。男は体に肉があった時ぶりの、背筋の凍るような感覚を覚えていた。
「ユーリ隊長…アンタ死んだって聞いてたぜ?まさかこんなところで会うとはな…」
ユーリ・ロマーノフ、通称、死神。対面で威容を放つその真っ黒な男が、元部下の言葉に対して、ゆっくりと返答を始めた。
「本当に俺が死んだと思ったか?イワン」
ああ、懐かしい、この声、この雰囲気だ。この男に睨まれたやつらは、みんな殺されちまうんだ。
「いいえ…、アンタを殺せる人なんかこの世には存在しませんよ。今まで何してたんだ?表にも出てこないで」
「殺し回っていた。お前のような恥知らずを」
死神の放つ、刺すような威圧感がさらに強くなる。悪趣味の過ぎる再会だ。イワンと呼ばれた男には、しかし、どこか諦観の念もあった。
どんな作戦もいつかは終わる。シベリアの遠征も終わって、ロシアは巨大な隕石までの道を手にいれて、不死身の第4小隊は解散した。けれど、努力したって壊れたものは元に戻らない。軍をやめた後は、
「ははは…」
とうとうこの日が来たか、イワンはそう思った。だが、黙って死を受け入れるほど老いてもいない。本当にここが俺の死に場所か見極めてやる!
アズサと対峙した時とは違う、最初から全力の踏み込みで、全速の踏み込みで、最速の突きをイワンは放った。しかしそれはあっさりと片手で受け流される。構うものか!そのまま攻撃を放ち続ける。隊長、アンタといたときの生身の体じゃあできない、息継ぎのない連打だ。これでくたばっちまえ!
攻撃は捌かれ続けた。しかしこのままの勢いで行けばいずれ!そう思っていたところに、一瞬の間隙に胴体への掌底を合わされ、距離を離される。
「驚いたな…、軍人だったころから変わっていないようじゃないか」ユーリがそう言った。本当に感心しているようだった。
ふいは疲れたが、今の掌底もダメージはない。やはり流れは俺にある!イワンがそう思い、再び踏み込もうと思ったときに、違和感に気づいた。
両手の手首から先が、ない。手首には焼き切れたかのような粗い切断面が残っていた。
「は…?」まったく理解できなかった。こんな体験は初めてだった。
「進歩のないカスが少しでも俺に勝てると思ったか?」ユーリの指先からは細い、青い閃光が伸びている。
プラズマ!
理解した時には、死神はすでに必殺の間合いに入っている。両肩から先の残った部分もプラズマクローで切り落とされ、強烈な右拳が無防備な胴体を貫いた。先ほどのとは違う、本当の一撃。
「ぐふぅ…がふッ…!」肉のないはずの身体が、叫び声も上げられないくらいに苦しかった。
「終わりだな…。不死身の第4小隊ともてはやされ、かつては国の英雄だった男が、機械の体を手に入れてまでやったことが薄汚い
「…アンタも、同じだろうが!国が俺たちに何をした。命を懸けて戦ったのに、今や軍や国の重役はほとんど
「もういい、喋るな」ユーリがイワンの顔を右手で掴んで、持ち上げる。「死ね。面汚しが」
指先からプラズマが放たれ、掴まれた顔面が、融点を超え溶け始める。
終わった。しかし、どこかすがすがしい気分があった。いつかこんな日が来ると思っていた。軍をやめた後の日々は、まるで終わりのない逃避行だった。富も名声も家族も友人もすべて失い、市民を悪から守る存在だったはずの自分は、いつしか、自分が戦ってきたはずの市民の命を脅かす存在になり、その日々は、一度でも軍人という、人々の守り手を志した人間にとっては、地獄の、そう、地獄の――
「ぐあああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」
プラズマクローが機械化した脳神経を焼き切る。イワンは灼熱の地獄に絶叫を上げた。
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