アンダーグラウンド モスクワⅪ

 モスクワのとある路地裏にたたずんでいる、いつも店内が薄暗くて、開いてるのか潰れているのか分からないような小さい肉屋ブッチャー。その店の地下、倉庫としてしか使われていなさそうな小さなスペースの、その中央に置かれた小さい古ぼけた、黒い革張りのソファーに銀狼は腰かけていた。地下室の中には、ボロボロの家具や、壊れたロッカーが乱雑に置かれている。

 こういった実態不明の場所はモスクワには珍しくない。つまり、ギャングなど何らかの反社会的組織が店のケツ持ちに入るか、あるいは店ごと保有することで、表向きには普通の商売をしながら、裏で何らかの闇取引現場として用いるか、連絡場所として使っているということである。ただし、この肉屋ブッチャーがそういった普通の闇取引現場と異なっていた。店の中には本当にローガン以外の人がいないのだ。つまり、この店には

 ローガンは加えた紙巻き煙草に、ライターで火をつける。対面には緑のアイカメラに、コバルトブルーのボディ機械ドロイド、ヴァシリのホログラムアバターがたたずんでいる。

 「――詳細はそんな感じだ。なかなか重たい仕事だったよ」

 ローガンが煙を吐きながらそう言った。古い蛍光灯がジジジ…と音を立てている。

 「にしても、死神チェルノボグだぜ?お前、知ってたのか?」ガラスの灰皿に煙草を押し付けて火を消す。

 「知ってたらアルトとアズサを連れていくことを許さなかった。ユーリ大尉についてはアルファ俺達も寝耳に水だ。生きているらしい、ということ以外にはな」アバターから発せられる音声にノイズは一切ない。どんな高所であろうが、奥深い地下であろうが、ヴァシリからの通信が不安定になることはなかった。

 「だよな…。だが目的は俺たち以外にあったみたいだ。興味も持たれてなかったかな。でなきゃ、たぶん殺されてる。それと、こないだ地下道に潜って、ダンジョンの入り口を見に行ってみたが、もう完全に塞がれてたぜ」

 「隠蔽が素早いな、気に食わん。」ヴァシリは考え込むように腕を組んだ。「俺たちが把握してないところで何か大きな意思が蠢いているようだな…。ところで、アルトの様子はどうだ?」

 ふぅ、とローガンは息を一つつく。「かなり凹んではいたよ。初めての殺しで、しかも友達だからな、無理もない」

 「賞金稼ぎバウンティ―ハンターは続けられなさそうか?」

 「いや…、俺たちと同じタイプだよ、アイツは。戦わないと生きていけない…突っ走ってないといろいろ考えて塞ぎ込んじまうんだろうな」ローガンは新しい煙草を咥えて、火をつけた。「空手にもますます打ち込んでるよ、武術を教えたのは良かったかもな…。ただ、もしこういうキツいことが連続で続けば、パンクしちまうかもな…シンシアって知ってるか?アルトのもう一人の友達の人狼らしいんだが」

 「ああ、彼女についてはすでに報告を受けた。その娘の時は、救えればいいがな…。とにかく、ご苦労だった。報酬は振り込んでおく。それと、送ってくれた、死んだ人狼のDNAデータ、あれの解析が終わったらまた連絡する」

 「おう。見た感じも、アルトに聞いた感じでも明らかにおかしかった。何かヤバい実験でもされてたんじゃないのか?わかったら教えてくれよ。…しかし、情報軍は大変だねえ。身内同士でも腹の探り合いか」

 まあ、どこの組織も同じようなものか。と、内心思いながら、ソファから勢い良く立ち上がって、地上への階段を上って、店の玄関からローガンは出て行った。



 ≪ドク、さっきのヴァシリとの会話は聞こえたか?≫

 ローガンは街の雑踏をかき分けながら歩く。モスクワの目抜き通りはいつだって人であふれかえっている。

 ≪聞こえなかった≫

 ≪なるほど、さすがはアルファ、シギント対策はバッチリだな…。死神の存在はヴァシリも掴んでなかったってよ≫

 ≪そうか。ところで、米国からモスクワに派遣された人員の数がここ最近で急に増えてきている。作戦の進展があったようだな。臭そうな特殊部隊のリストを上げておいた≫

 ≪ありがとよ。後で見ておく≫

 ローガンは歩きながら、煙草を一本取り出して、口にくわえてライターで火をつけた。

 ≪喫煙は体に毒だ≫

 ≪神様から貰った体を汚すことができるのは、サブドロイドにはできない、生身の人間の特権だよ、ドク≫

 ≪機械ドロイド化を選んだ時点で元の肉体を徹底的に破壊しているとも言える≫

 ≪違えねえ。げに人間は愚かな生き物よ≫

 ローガンのプライベート回線にキャッチが入る。フリッツだ。

 ≪ドク、切るぜ。またな≫

 ≪ああ。無理はするなよ≫

 「……」

 吸い終えた煙草を排水溝に捨ててから、フリッツの通信に答えた。

 ≪どうした、何かあったか?≫

 ≪作戦前に言った通り、あの機械獣ズヴェーリがあの夜に殺した人間の数は五人だ。で、監視カメラや車載カメラの映像を解析したが、どうもダニーラが殺したのは一人だけのようだ≫

 ≪確か死体の数は全部で七つだろ?一人足らないじゃねえか≫

 ≪機械獣ズヴェーリの作った五つの死体と、余りの二体は同じ惨殺死体だが、特徴に微妙に違いがあるようだ。牙とか爪の大きさだな。で、二体の方はそれが一致していた。ダニーラが殺っていない以上、次に考えられる可能性の高いセンは――≫

 ≪シンシア…もう一体の人狼、アルトの友達ね。次から次へと…、続くときは続くもんだな≫

 ≪引き続き情報を集める。アルトには、今のところこのことは言わないでおく≫

 ≪そうだな。動き方はよく考える必要がある≫



 時は、アルトたち四人が機械獣ズヴェーリを仕留めた夜に遡る。

 モスクワの裏の世界を跋扈するギャング組織、三つ目トライアド。その三つ目トライアドの気鋭の幹部、ハギス・ゴールドリスは、彼の所有する高級マンションの一室に少女を伴って帰ってきていた。

 一緒にいる少女は売春婦には見えなかったし、そもそもサブドロイドのハギスにそういった相手は必要なかった。彼女は憔悴した様子で、人目から隠れるようにハギスのコートを着せられ、肩を抱かれて歩いている。髪の色は金色で、コートの隙間から覗く白い肌には、血がついているようにも見えた。

 玄関のドアを開けて、廊下を進んだ先には、一人暮らしには十分すぎるほど大きなリビングがある。その中央に椅子が置いてあり、一人のドロイドがリクライニングを最大まで倒して座りながら、虚空をじっと眺め続けていた。ネットに接続して何かを調べているのだ。

 「あ、お帰りなさい。誰にも見られませんでした?」

 帰宅したハギス達に気づいて、ドロイドが起き上がってそう言った。小熊のミーシャ、ハギスが最も信頼する部下だった。

 「ああ」疲れ果てて眠ってしまった少女をソファに寝かせながらハギスは答える。

 「監視映像も全部チェックして、やばそうなのは偽造しときましたよ。これでしばらくはバレないでしょう」

 「分かった。彼女のことについては?」

 「そっちはさっぱりです。普段はおとなしかったのに、急にですもんね。目の色まで真っ赤になって、今日はとうとう一人殺しちまった。この発作的な行動が人狼に共通することなのか、それとも彼女だけのものなのか…まあ、引き続き調べてみます」

 「頼む。ただ、原因が分かっても押さえつけられるモノではないだろうからな、定期的に生贄を用意する必要はありそうだ」

 「ですね…上層部はなにか気づくような素振りはありました?ていうか俺、ここに引きこもって全然本来の仕事してませんけど、怪しまれてませんか?」

 「全く問題ない、老人どもは組織が何をやってるかなど全く把握していない。だからホンフゥに、アメリカに簡単にモスクワへの侵入を許す羽目になるんだ」

 遠くを見つめて、フゥ、とため息を一つ。人間らしい所作は、ハギスが元は生身の人間を持っていたサブドロイドだということを表していた。

 こんな組織にいても未来はない。一刻も早く情報軍と接触する必要があるな、ハギスは思案する。

 「シンシアこの娘が起きたときのために、コーヒーでも入れておきましょうか…」ミーシャは数時間ぶりに椅子から立ち上がり、腰をさすりながら体を伸ばした。



 「そうだ、一つ言い忘れていたことが」流しに軽く腰掛けて、お湯が沸くのを待ちながらミーシャがハギスに言う。

 「なんだ?」ハギスはコートをハンガーにかけながら答える。

 「"姉妹"から連絡がありました。また気まぐれに仕事を欲しがってるようです」

 「あいつら帰ってきたか…モスクワに…」

 額を手で押さえる。サブドロイドこの体になってから、頭痛の種とはどうやって向き合っていたんだっけな、とハギスは思案した。



 モスクワの地下、ダンジョン内に作られた通路の先、見捨てられた研究施設。その一室に横たわるダニーラの死体も、誰にも見つけられずに腐るのを待つ運命のはずだった。

 四足歩行の、小型の機械獣ズヴェーリだった。ダニーラの死体を観察するように、その周りを歩き、そして、右腕を咥えて運び出した。

 そのまま死体と共に機械獣ズヴェーリは消えていった。闇の仕事人すら知らない、モスクワの更なる闇。人間には踏み入れることのできないダンジョンの最深部へと。

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the Man From the Dead Lands 黒桃太郎 @gohhong99

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