アンダーグラウンド モスクワⅨ

 ダンジョンの最奥にドアを見つけた。隙間から光が少しだけ漏れている重たいドア。

 ここが多分…目的地の研究施設だな。アルトは懐から拳銃を取り出す。ここに入る直前に、銀狼ローガンに貰った古いオートマチックの拳銃だ。入る前にドアに背を向けて、虚空に向けて引鉄を引いた。発砲音が真っ暗な闇に響く。それが前もって決めた合図だった。

 銃をしまい、ドアを開ける。その先は短い廊下があって、その奥にさらにドアがある。切れかけの蛍光灯がチカチカと点滅している。

 今はアルト以外ここには誰もいない。ドアが開かなかったので、隣にある小さい部屋、警備員の詰所のようだった。そこに入って、鍵を探した。机の引き出しに鍵が入っていたので、それを使ってドアを開けた。

 ドアの先は、無機質な、病院のような施設につながっていた。匂いを強く感じる。間違いない、ここにダニーラがいる、人狼アルトはそう感じとった。しかし、すでに廃棄された施設なのか、他の気配は何も感じなかった。

 近いな…、というかこれはもう、ここを曲がった先に…?

 いた。ドアを潜った先の廊下の、最初の曲がり角を曲がった先の廊下の真ん中に、アルトと同じくらいの歳の、獣の耳を持った少年が立っている。背格好はアルトと同じくらいだが、髪は伸びっぱなしで手入れがされておらず、顔は見えない。服も薄汚れていた。

「ダニーラ!」

 アルトが名前を呼ぶなり、その人狼は襲いかかってきた。

 「うわ!」

 アルトの腕と肩を掴んで、壁に叩きつけた。

 「ぐ…ダニー…ラ…!」

 アルトの声は届いていないようで、ダニーラは獣の唸り声をあげながら、すごい力で壁に押しつけてくる。なんとか自由な方の拳でダニーラのこめかみを叩くと、怯んで少し腕が緩んだ。その隙に膝で腹を蹴り上げ、腕を放させて何とか拘束から逃れた。

 「グルルァ!!」

 唸り声を上げながら、ダニーラは力に任せて腕を振るってくる。

 受け…ない方が良いな!

 間一髪でダニーラの攻撃を躱していく。速いが、単調な攻撃、避け続けるのは難しいことではない。

 だけど…どうする?このまま躱し続けても埒が開かない。ダニーラを助けるにはどうすれば…!

 考え事をしながら戦えば、隙が生まれる。顎への攻撃をアルトは避けたが、襟を掴まれてしまった。

 「やべ」

 投げ飛ばされた、すごい力だ!かろうじて後頭部の位置に腕を持ってきて、受け身をとれた。2、3度壁か床にぶつかりながら、廊下の反対側の端までぶん投げられたようだった。

 ふらつきながら立ち上がる。ダニーラがこちらに全力疾走してくるのが見える。狭いところで戦うのは危ない。そう認識して、すぐ横にある扉を開けてその先の部屋に飛び込んだ。

 おそらくは倉庫として使われていた部屋だろうか。しかし、今は何も置かれておらず、ただ空間が広がっている。アルトがその部屋に入って、入り口の方を振り向くと、すぐにダニーラも追いついてきた。

 落ち着け…落ち着けよ…結局、助けるには戦うしかないんだ。ダニーラは明らかにおかしい、人狼だとしても考えられないような膂力だ。だけど、拳法の動きじゃない。見切るのは簡単なはずだ。まずは、、続きはそれから考える!

 ダニーラが突っ込んでくる。初撃―多分、前に突き出した左手―を上半身を横にそらして躱す。そのあとがむしゃらにぶん回してくる腕も躱す。速いだけでまっすぐなだけの攻撃、見切るのは容易い。

 右、左、左、右、蹴り、両手でつかみ、予備動作が大きい。見切るのは容易だ。力任せにぶん回してきた右腕をかわし、腹に膝蹴りを見舞う。ダニーラが苦しそうに息を吐いて、一歩後ろに下がる。ガードが下りた!続け様に、顎に左の掌底を喰らわして、右手で殴り抜ける!

 かなりいいのが決まった。しかし、ダニーラは倒れることなく、すぐさま反撃してきた。相変わらず全力で振り回してくる腕は何とかかわしたが、その後の蹴りはかわせずに腕で受けた。腕がビリビリと痺れて痛む。すごい威力だし、まるで相手には無限のスタミナがあるかのようだ。

 ダニーラは何かをされている。けれど、今の自分の実力ではそれを止めることができない。本能的にそれを理解してしまった。どうすればいい?どうすればダニーラを止められる?悩んでる間にも攻撃は苛烈になる。

 死の予感が頭をよぎる。

 一瞬他のことを考えて好きに、腕を再び掴まれる、これは、アレか、下手に抵抗しないほうが――

 またしてもすごい力でアルトは投げられる。体が壁に叩きつけられて、床に落ちる。そのままアルトは動かなくなった。その姿を見て、ダニーラも、グカッ、と唸ってから様子を窺うように攻撃の手を収めた。

 ――動ける…まだ生きてる。

 アルトは生きている。倒れながら呼吸を整えている。武術の稽古を始めてまだ日は浅いが、それでも体が反応して受け身をとった。

 なぜダニーラは襲い掛かってこないのだろう?俺を倒したと思い込んでいるのか、それとも、もしかしたら、理性が少し残っているのか?寝転がって体力を回復しながら考えた。

 ダニーラが動き出す。やはり、獲物の死を確実にしようという考えか、アルトの傍らまでゆっくりと歩いていく。鋭い眼光がアルトを見下ろす。

 胴に向かって振り下ろされた腕を、アルトは回転しながら起き上がって躱した。ダニーラが驚きに目を見開いた。回転の勢いのまま、アルトは蹴りを放つ。

 ギリギリで躱された。だが、その間にアルトは構えを取り直す。

 技術だ。どこまで行っても技術。力には技で勝つ!それを続けるしかない!よけるのも受けるのも無理なら――

 ガオ!唸りながらダニーラが突進してくる。その踏み込みに合わせて、こちらも前へ。

 超至近距離クロスレンジでは腕が伸び切らず、ダニーラの攻撃にも威力が乗らない。野生の本能のみでは理解不能な事実だ。こっちは踏み込みを、その勢いを、短く折りたたんだ肘に乗せて叩き込む!



 今度はアルトがダニーラを見下ろしていた。アルトの肘撃ちを、腹にまともに食らったダニーラはさっきのアルト同様壁に叩きつけられ、地面に倒れ伏している。

 しかし、よろめき、唸り声をあげながらもダニーラは立ち上がった。

 「まあそうだよな…!」

 呼吸を整えながら、アルトは再び構えをとる。しかし、ダニーラのその目が、先ほどまでの殺意に満ちたものとは少し異なっていることに気が付いた。

 「…アルト、か?」

 「ダニーラ!」

 構えを解いて、ダニーラに駆け寄る。

 「よかった、正気に戻ったんだな。結構のが入りすぎたから心配だったんだけど――」

 「アルト…」

 「俺の仲間も来てるんだ。助かるんだよダニーラ。さあ行こう、もうこんなところからは早く出よう、な」

 「アルト…頼む…」

 ダニーラはアルトの肩をつかんだ。アルトの目をまっすぐに見つめている。

 「なんだよ、ダニーラ」

 「頼む、俺を殺してくれ」

 一瞬、アルトは何もしゃべれなかった。

 「…なんでだよ。今、正気に戻ったんだろ。助かるんだよお前も!」

 「助からねえよ…。こうやって、たまにだけなんだ。元に戻れるのは。実験が、失敗したから、俺はもう…」

 雫の落ちる音がした。それがダニーラの流す涙だとアルトは気づいた。

 「俺が俺じゃなくなっていく…血を求めて…!殺してくれ、じゃないと…!」

 「ダニーラ!」

 「お前のことも殺してしまう」

 ダニーラの目が暗くなり、殺意が灯るのをアルトは見た。反射的に後ろに飛んで、距離を取った。

 ダニーラが獣の叫び声をあげる。彼は再び正気を失ったようだった。

 「ふざけんなよ!そんな簡単になあ、友達のことを諦められるかよ!」

 気絶させて、無理矢理連れ帰るしかない。アルトは再びダニーラと対峙する。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る