アイスフレンドⅡ
目を開くと、そこはもう道場だった。畳の匂いも質感もシミュレーションとは思えないくらいリアルに感じられていた。アズサが黙想を辞めて目を開け、正座からゆっくりと立ち上がると、それに応じて相手も立ち上がった。
アズサが構えをとると、相手もゆっくりと構えをとる。ふぅ、と一つ息を吐いたのを見て、相手が突っかける。アズサがそれを受けて、突きを返す。相手もそれをいなして、今度は蹴りを返す。受ける。返す。それも受ける。また返す。ARを使った、典型的なサイバネ空手の組手だった。
「アルト、お前は筋が良いぜ。まだ少ししか見てないが、かなり動けるし、理解もかなり早い」
庶民の味方、安くてうまい中華食堂で
「だからこそ気を付けろ。道を踏み外せば、堕ちていく速度も速い」
「道を踏み外すって、さっき言ってたレッドアイスとかのこと?」
「そうだ。お前は感覚が鋭い、鋭すぎるといってもいい。だからヤクでの昂り方もすごいものがあるだろう。お前はまじめだから心配ないと思うが、欲望に負けてはまりすぎることのないようにな。武術の鍛錬を怠るな」
「稽古が薬と関係あるのか?」
「ある。さっきも言ったが、心の弱い奴が誘惑に負けるんだ。だから武術を通して精神を鍛える。古臭い教訓だが結構的を射ている。武術は、急激に発展するテクノロジーの闇の部分に対抗するための人類の英知ってことさ」
「ふーん。まあ今のところは体を動かすのが楽しいからさ、レッドアイスとか考えもしねえよ」
「それでいい。お前はたぶんそういうタイプだよ。薬やらなんやらの誘惑より、体を動かす方がよっぽど面白い」
ふむふむ、とうなずきながらアルトはハンカチで口を拭った。紳士は常にハンカチを持ち歩くべきだというのは
「うし、行くか。送って行ってやるよ。今日はちょっとそっちの方に用事もあるしな」
「うい」二人は立ち上がって店を後にした。
ローガンの車の助手席で、アルトは窓から人でごった返す路地を見ている。モスクワはいつだって人で溢れている。街の規模に対して人の数が明らかにオーバーで、不足する土地に対して、建物を縦に伸ばすことで住居の問題はクリアしたが、道の混雑はどう頑張ったってなかなか解決できる問題ではない。車道も混雑していて彼らを乗せた車は停滞気味の走行をしていた。
「そういえばお前最近帽子かぶってないな」ローガンがそう聞いた。彼の車はフリッツのそれより少しシートが固いので、あんまり渋滞が長いと快適な環境が恋しくなってくる。
「それがさあ、最初は耳を隠そうと思ってたんだけど、な動物の耳が生えてるって全然珍しくないみたいだな。なんかピンクとかの派手なジャケット来た女の人が猫の耳とかしっぽとか生やして歩いてるんだよ。たまに男も。だからもう隠さなくていいかなって」アルトは外をボーッと見たまま答えた。
「ああ、アニメの影響だな。随分前からそういう奴らは多いよ。カチューシャみたいになってるアクセサリーで、脳波を読み取って耳を動かすんだが、インプラントしてもっと精密に動かせるようにする奴もいる」
混雑する箇所を抜けて、車はスムーズに走り始めた。
「ああいう仮装みたいなのは俺にはよくわからんが…、まあそのおかげでお前も奇異の眼にさらされずに済むってわけだ」
「進んで人外の見た目になりたがるのか、変な人たちだな…」
「変人の集まる、変な街だよ、ここは。だからお前や俺のような奴も難なく受け止めちまう」
うっぷんを晴らすように、ローガンはアクセルを強めに踏み込んだ。
少年少女達のアジトは都心から離れた地区にあるアパートだ。未だ政府の再開発の手が入っていないこの地区は、工事現場や工場から出た廃棄物の集積場が近くにあって、かなり人気のないエリアだ。親が死んだとか、家に帰れないとか、何か理由があって行き場のない少年少女達をまとめて保護するため、カタリーナの所属する団体が家賃の安いこの辺りのアパートを借り上げて、住処にしている。
「アルトだ、おかえり。それにローガンも」
「ほんとだ。アルトとローガンだ」
「二人ともおかえり」
アパート入り口からすぐ、小さい円卓とソファの置いてある待合室で、三人の少年がアルトとローガンを出迎えた。
「おう。オレグ、ジャン、イザーク、今日は休みか?」
「そうだよ」と、黒髪の少年、オレグが答える。
「やることないから集まって駄弁ってんの」と、金髪のジャン。
「二人は空手の稽古かい?」と、最後の一人、茶髪のぽっちゃりした少年、イザークが聞いた。
「うん、まあな…、そう言えばアズサは?ここにはいないのか?」アルトが少年達に聞いた。
「今日は見てない。いっしょに稽古しなかったのかい?」イザークが聞き返す。
「アズサは
「消えた父親の手がかりってことか」
「それに加えて今回は闘ってる映像もちょっと確認できたから、模擬戦用のAIの更新もあるみたいだ」
「AI?」
「そう。過去の映像とかから、アズサの父の動きを予想した組み手用のAIをフリッツが作ってるんだ。彼もサイバネ空手の達人だったからな。で、仮想空間上でその父親のAIとよく組み手をやってるんだよ。脳に直接刻み込むってのは結構いい鍛錬になるんだぜ」
「へえ…俺もフリッツに頼んで試しにやってみようかな…」
廃棄物置き場にスクラップを重ねる重機の音が近くに聞こえる。モスクワの超高層ビル群が遠くに見える。
「やってみるといい。アレクセイはかなり強いぜ」
「こないだ地下で会った"死神"とどっちが強い?」
「それは流石に"死神"だ」
「ああ…、そう言えば」イザークが二人の会話に割って入った。「カタリーナさんがこないだ来た時にお菓子とお茶を貰ったんだ。せっかくだし、ローガンも食べていきなよ」そう言ってイザークはお菓子を取りに自分の部屋へと階段を昇って行った。
「お、いいね。カタリーナさんからのお土産という事は、結構いいやつだろ、それ」
「そうだよ。じゃあ、俺はお茶入れてくる」ジャンがソファから立ち上がり、廊下の奥の給湯室に向かっていった
ローガンは満足そうな顔で、少年たちがおもてなしの準備を進めてくれるのを眺めていた。そして、隣に座っているアルトに向かってつぶやいた。「まあ、なんだ…、友達もいて、家も仕事もあって、薬やる必要なんかちっともねえな?」
「きもっ、クサすぎる」それを見てオレグがつぶやいた。
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