アンダーグラウンド モスクワ

アンダーグラウンド モスクワⅠ

 ハイウェイの高架下、コンクリートに囲まれた10畳ほどの小さなスペースに、畳を敷いただけの小さながあった。道場では、白い道着を着た銀狼ローガンと、人狼アルトと同じくらいの年頃の黒髪の生身の少女が、向かい合って正座し、穏やかな雰囲気で稽古前の黙とうをしていた。

 ローガンがゆっくりと目を開き、少女もそうする。

 「お願いします」

 「お願いします」

 お互いに礼をし、立ち上がった二人は、このロシアでも最も広く普及している武術の一つ、サイバネ空手の稽古を開始した。



 「強くなったな、アズサ。今日もなんか…いい感じだった」

 朝の稽古を終えた二人は、胴着から着替え、朝食を取るべく行きつけの喫茶店に向かっていた。モスクワは既に活気に満ち溢れており、通りは機械と機械でない人間で満ち溢れており、空は巨大な広告が投影され、新商品のエナジードリンクの宣伝を大音量で流している。二人の歩いている場所は、少々治安の悪い場所で、薄暗がりの中、いつからいるのか分からないドロイドのスクラップや、死んだように寝転がったまんまのヤク中がいたりする。

 「そうですか?自分では分からないですけど、師匠せんせいは分かります?」ローガンが開けたドアをくぐりながら、アズサと呼ばれた少女は不思議そうにそう聞いた。

 「分かるね。一挙手一投足に精神状態は現れる。何か、迷いがなくなったのが見て取れたよ…お、見ろ、アルトがいるぞ」

 混み合う店内のカウンター席に、見知った顔が帽子をかぶって座っていたのをローガンが発見した。彼の話を聞いて、同様にアルトの姿を認めたアズサは、手を振りながらその銀髪の人狼の方へと駆けて行き、通称"銀狼"の方は、歩いてそれについていった。

 「よう、仕事は慣れたか?お前を拾ってボチボチ一か月ってところだが」

 「まあまあだな。カタリーナがくれる仕事は別に危険な目にも合わないし、アンタらが誘ってくれるのは危険だし、色々経験できてるよ」注文したクロックムッシュを食べながら、アルトは答えた。アルトの隣に座っているアズサが、ちゃっかり確保していたもう一席にローガンも座る。

 「そらよかった。ネットにつながった感覚はどうだ?」こめかみに指をあてるジェスチャーをしながら聞く。

 「それはまだ慣れないかも…頭に流れる情報が多くて脳がパンクしそうだ。研究所の時はナノマシンは入ってたけど、外部にはつながってなかったから」

 ほとんどすべての国で、義務教育が始まる年齢の子供は体内にナノマシンを入れられる。ナノマシンを介して外部デバイスなしにインターネットに接続できるようになるが、洪水のように流れる大量の情報に、慣れるまでは脳が疲弊する人も少なくない。

 「脳神経を研ぎ澄ませる、とか言ってあやしい薬を売ってるやつらもいるから、そういうのには気をつけろよ。さて、俺もホットサンド食うか。アズサは何食べたい?」

 「チャーハンが良いです。ゴチになります」

 精密な気候管理システムによって生み出された大規模な促成栽培が、良質な国産のコメをロシアにもたらした。産業用ロボットを流用した調理用のロボットアームが、安価でありながら一流の料理人の動きを正確にトレースし、庶民に絶品のチャーハンをもたらした。代替肉フェイクミート代替乳フェイクミルクと、はるか昔から大量に栽培されてきた小麦で作ったクロックムッシュが美味かどうかは判断が分かれるところであった。

 「最近、モスクワで殺人事件が増えてるそうだ」ローガンは食後のミルクを飲んでいる。肉牛と同じコンテクストで乳牛もその数を減らし、飲料用の牛乳も大豆などを加工した代替乳フェイクミルクが今では主流になっている。

 「殺人事件なんてしょっちゅうだろ」アルトの食後のドリンクはよく冷えたオレンジジュースだった。アズサも同じものを飲んでいる。

 「普通の殺人事件じゃないらしい。殺され方が違うんだってよ。仕事が回ってくるかもだ…しかも——」

 その瞬間アルトの耳がぴくッと動いて、その獣の耳を隠している帽子が少しずれた。耳が反応した方向、未だ混み合う店内で、テーブルに一人座る老婆が椅子の背に掛けたコートのポケットから、生身の男が何かをスリ取るのをアルトだけでなくアズサも見ていた。

 「「待てッ!」」少年と少女の声が重なり、弾かれたような勢いで二人は男を追いかける。

 「行っちゃった…大した正義感だな」残されたローガンはびっくりして固まっている老婆に説明を行うべく席から立ち上がった。

 


 表から路地裏への追跡チェイス。狭く複雑な道を行き、ゴミ箱を倒して妨害してもアルトとアズサ追手は止まらない。

 「待てオラ!」

 暗い裏道、スリの男が突き当たり角を曲がり、それを追ってアルトはさらに加速し、壁を走りながら角を曲がる。

 「バカが!一人な訳ねえだろ!」

 曲がった先は袋小路になっていて、柄の悪そうな、これまた生身の男が5,6人待ち構えていた。

 全速力の勢いのまま飛び上がったアルトの膝が、一番近くにいた大柄な男の顎に突き刺さる。突然の出来事に反応できないのは、戦いに関しては素人の、スリ集団の方であった。それでも、かろうじて一人の少年がナイフを取り出し、アルトに向かって突っ込んでいく。

 突き、突き、薙ぎ、突き、喧嘩慣れはしているらしく人を傷つけることに躊躇いはない動きだったが、その程度の動きでアルトを捉えるには至らない。その次の突きを躱してアルトは、右で少年が握るナイフを叩き落とし、左の掌底で顎を跳ね上げた。脳を揺らし意識を失くしかけ、崩れ落ちる少年の顔面を右の正拳で殴り飛ばし、完全に闇の世界へと旅立たせた。

 刹那、別の男がアルトの背後で鉄パイプを振り上げる。気づくことはできたが避けることはできないタイミング。腕で受けるしかなかったが、その鉄パイプがアルトの腕に到達するより先に、追いついたアズサの飛び足刀が男の右脇腹に到達。男は肺の中の空気を全て搾り吐き、意味不明な高い声を出しながら吹き飛んでいった。

 「コオォ…」

 残心。構えたアズサの口から息吹が漏れる。大勢は決した。如何にこれ以上の被害を少なくするか、如何に痛い思いをせずにこの場を切り抜けるか。スリの男と残った二人の仲間は必死にそれを考えた。

 「わかった、分け前をやるよ。辛いよな?この街で俺らみたいなのが生きていくっていつのは」

 最悪手。窮すれば通ず、にはならず。言い終わるやいなや、二人の取り巻きは吹き飛ばされ、スリの男も恐怖の声を上げるその前に、アルトとアズサの二人の拳によってその意識を手放した。幸いなのは、痛みを感じたのは一瞬だけだったということだろうか。

 


 「ばあちゃん、指輪なんて持ち歩いてたら危ないよ」

 無事にスリから小ぶりなダイヤのついた指輪を取り戻し、アルトとアズサは喫茶店に戻ってきていた。老婆はアルトから指輪を受け取って、彼の手を握ってブンブン振っている。

 「ありがとう、ありがとう。あなたたち本当にありがとう。とっても優しいのねえ。この指輪は夫がくれたものだったの。ずっと前に、若くして亡くなった夫の。ずっと一緒に持ち歩いてる、とても大切なものなの…」

 こんなものしかないけど、と、アルトとアズサに一つずつ飴ちゃんを握らせて、老婆はタクシーに乗って帰っていった。

 「まあ、よくやったんじゃないか?金にはならんがあのお婆ちゃんは喜んでた。評判いいと次の仕事に繋がったりもするし、警察も多少は見逃してくれるようにもなる…」

 「師匠せんせいは正義のためには戦わないんですか?」

 「俺はお金いっぱいくれる人のために戦うよ」

 「それはダメです。正義に目覚めてください」

 太陽は真上に上り、街の雰囲気も朝の慌ただしい感じから、少し落ち着いた感じになっていた。

 「ローガン、今日ぶっ飛ばした連中も全員生身の体だった。スリとかせこい犯罪で生計立ててる奴はみんなそうだ。ジャンとかオレグとか、あんたらとカタリーナの知り合いのやつらもみんな生身の体だ。どうして機械ドロイドはいないんだ?」

 「機械ドロイド化は金がかかるんだ。天然物のピュアドロイドに対して、そういう元生身で機械ドロイド化したやつらをサブドロイドって言うんだがな。昔ロシアにでっかい隕石が降ってきて、その隕石と、隕石にくっついてきた金属生物を解析することで、人類はオーバーテクノロジーを得たわけだが…まあ、色々あってな。拒絶反応が起きないかどうかってのもあるし。結局はその恩恵にあずかれるのも金持ちの、それも一部の機械ドロイド化に適応できるやつだけってことだ。遍くすべてのロシア人が受けられるテクノロジーなんてのは、全市民に接種が義務付けられてるナノマシンくらいだ」

 「ムカつく話だ」

 「だからこの街のやつらはみんなギラついた目をしてる」

 それはまさしく天からの恵みだった。2050年の2月に外宇宙から飛来し、ロシア国内の各地に墜落した隕石群をそのように評する人もいた。100年以上前に資本主義に転向したはずが、その実、共産主義時代の妄執に囚われ続け、指導者は暴走した革命欲を抑えられず、結果としてその野望は叩き潰され、その弱体化から未だ立ち直れずにいたロシアにとって、それはタチの悪い呪いのように最初は受け止められていた。EUの支援を受けながら、破壊されたインフラや街などの復興を進める傍ら、同時に進められた隕石の解析が、メディア曰く、逆転の一手をロシアにもたらした。

 降り注いだ隕石群の中で最も巨大なものはシベリアの山中に墜落した。都市部から離れた地点であり、人的被害が少なかったことが僥倖だと言われた。人類が最初に調査に赴くまでは。

 それは正しくは隕石ではなかった。それは人工物であった。それを送ってきた者を人、異星人と仮定するならば。それはさながら巨大な記録メディアだった。それには人類がまだ発見していない生物、宇宙についての事実、知り得ていない自然現象に対する証明など、普通では到達し得ないテクノロジーへの情報、技術的特異点シンギュラリティを突破する為の情報が詰まっていた。そして、それらは地球の人間では到底解析できないものであった。

 では誰が解析を行ったのか?

 地球へと飛来したのは巨大な情報だけではなかった。隕石には宇宙由来の未知の金属生物が付着、いや、搭乗していたのだ。

 最初の調査団が一番巨大な隕石に到達した際、鋼色の肌をもち、人間の持つ器官に対応したデバイスを有する、二足歩行の人間のような機械生命体、俗に言うピュアドロイドが調査団を出迎えた。曰く、彼らは元はゲル状の生物であったが、調査団より前に墜落現場の様子を見にきた地元の農民が隕石に触れたことによって人間の情報を得て、人間のような姿を得たらしい。そして独自の技術を持って人間やその社会や技術の情報を得たという。

 ピュアドロイドは人間に好意的であった。それは、人間の情報をダウンロードしたときに、生物的に最も原始的プリミティブな目的、すなわち種として繁栄するという本能的願望に触れ、人の刻んできた歴史をダウンロードした時、絶えず進化していくその意思を理解し、それらの継続を自己の目的として認識したからだと言われている。かくしてロシアはオーバーテクノロジーへの鍵を手に入れた。

 隕石が外宇宙から飛来したことはすぐに分かった。ピュアドロイド達がそういったからだ。彼らはハッキリとしたの記憶を持たなかった。母星の正確な位置はわからず、どこか遠いところから来た、というぼんやりとした認識しか持たなかった。しかし、地球人にとってはその情報だけで十分だった。この広い宇宙のどこかに、自分たちの隣人が確かにいるという事が証明されたからだ。各国はさらなるテクノロジーと金属生物のルーツを求め、宇宙開発に血道を上げた。ロシアのそれは特に激しかった。国民よ、宇宙を目指せ。そのスローガンとともに、ロシアの宇宙開発開発は過熱していき、とうとう国家は非人道的な研究に手を染めた。外宇宙および外星の極限環境に耐えられるような探査用生物の試作品、それがアルトのような人狼である、というのが情報軍ヴァシリ達の見解であった。



 「そういえば気になったんだけどさ、アルトの拳法の動き、誰に習ったの?」アズサがそう聞いた。

 「俺も気になってた」と、ローガン。

 「ああ、研究所にいたときに基礎の動きだけ教えてくれた人がいたんだよ、実験とかの合間に。ずっと昔の、子どもの時の話で、どこかに異動になったのか少ししか教わらなかったから、どんな人かはぼんやりとして覚えてないんだけど…。それを何となく覚えてるんだ」

 「研究所も悪い大人ばっかりじゃなかったのね」と、アズサ。

 「そうだよな、もしそうなら、お前はもっと人間を拒絶してるはずだ。ヴァシリも、カタリーナさんも…。ところで、お前らが大立ち回りを演じている間に別の仕事の連絡が来たよ」

 ローガンが、彼宛に来たテキストメッセージを二人にも見れるように共有する。

 「機械獣ズヴェーリ!初めての相手だ。アズサもそうだよな?」

 アルトがそう聞くと、彼女はうなずいた。その目は興奮に輝いていたようだった。この二人は賞金稼ぎとしてのデビューがほぼ同時期だった。

 「夜狩ナイトゲームだ。いったん解散して夜にまた集合。興味があるなら来ればいい…なんて言い方は意地悪だな。フリッツも来るし、死ぬことはない。だから、お前ら安心して来い」

 そう言って、アズサの頭を軽くなでてから、ローガンは自分の隠れ家へ歩いていった。アズサは鼻息を荒くして、作戦会議だ!と、アルトを連れて朝食を食べた喫茶店へと戻っていった。

 

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