銀狼Ⅵ

 路地裏のゴミ箱は、人一人分くらいは余裕で入れるくらいの大きさがあり、たいてい壁際に設置されている。つまり、前もって壁とゴミ箱に穴をあけておけば、隠し通路として使えるわけだ。

 カタリーナが最初にゴミ箱の中に引き込まれ、その次にアルトが引き込まれた。口をふさがれ、肩を引っ張られゴミ箱の中に引きずり込まれ、そのまま壁の穴を通り、後ろに一回転しながら廃ビルのなかに引き込まれた。

 「なんだ、貴様らァ!!」

 口と体を抑える手を振り解きながらアルトが叫ぶ。獣のように瞳孔が鋭くなり、口元からは人間の犬歯よりも大きく鋭い牙が覗いている。

 「待った!ストップ!敵じゃない!ほら、カタリーナ検事!知ってるでしょ俺たちの顔!」

 二人の少年、カタリーナとアルトを建物に引き込んだ実行犯たちは、慌てて帽子とマスクを取って、カタリーナに助けを求める。

 カタリーナは二人を見て驚いた。「オレグに、ジャン?」

 「そうです!"銀狼"と"鬼"あの二人に頼まれて、アンタらを迎えにきたんだ。別のルートで逃げるって言われてさ」

 オレグと呼ばれた黒髪の少年がそう説明する。オレグの背に隠れている金髪の色白の少年、ジャンは、怯えた目でアルトの方を見ていたが、アルトの方も自分の方を見てきたので、慌ててカタリーナの方に視線を逸らした。

 「知り合いか?」

 目線は鋭く少年たちに光らせたまま、アルトがカタリーナに聞く。

 「よく仕事を手伝ってもらってる。大丈夫よアルト、彼らはいい子たちだから」

 カタリーナの答えを聞いて、アルトが構えを解いた。それを見て少年たちも大きな安堵のため息をついた。

 「よかった…へへへ…ほんと検事にはお世話になってますよ」にやにや笑いながら、オレグがアルトに近づいていく。

 「ローガンとフリッツには何も俺たちのことは聞いてなかったの?」ジャンも近づいてきた。二人して、1mもないくらいの距離まで来ている。

 そういえばフリッツが何か言っていたな、とアルトは思ったが、それ以上に二人の距離が気になった。

 「何だ、近いぞお前ら」

 「近づいて話すと盗聴の可能性が減るっていう噂があるんですよ、口頭ヴァーバルでも仮想ヴァーチャルでも。知らない?そういうの。全部あいてるトイレでわざわざ隣の便器に来る奴は、スパイの連絡係の可能性が高いっす」と、ジャン。

 「逃走経路の説明を盗聴されてたらまずいでしょ?」と、オレグ。

 「知らない。鬱陶しいから離れてくれ」

 「いやあ念のためってね…地下です、行きましょう。エレベーターは使わないで、奥の階段で」

 オレグが説明する間にジャンが壁の隠し穴に蓋をしていた。二人の少年の先導で、人狼と検事は地下へと降っていった。

 ビルの地下三階。一見行き止まりになっている廊下の奥の壁は、またしても隠し扉になっていた。扉の奥には、また小さな扉のある部屋があって、その扉の奥には巨大な通路が広がっていた。

 分厚いコンクリートの壁、アーチ型の天井、最低限の灯り、冷たく大きく、息苦しい通路。

 「地下にこんな広い通路が…」カタリーナが息を呑んだ。

 「昔の核シェルターだか、白紙になった超高速地下鉄用のチューブの名残だとか、いろいろ言われてます。それからいろんな奴が好き勝手掘って、今はモスクワの隅々まで伸びてる。一部の賞金稼ぎだけ知っていて、使ってるんです」

 冷たい空気が流れ続けている。自分が過ごしていた研究所を思い出してアルトは嫌な気持ちになった。そして、もう一つ気になることが。

 「近づいて話してないけど…盗聴がどうとか言ってなかったか?」

 地下ではさっきみたいに、満員電車の中みたいに話してはいなった

 「地下は大丈夫です。もとから電波が届きにくい」オレグが説明した。

 「あ、そう…」

 「それじゃあ、ヴァシリとの待ち合わせ場所まで行きましょう。兵はセッソクをタットブ、です」

 「あら、そういうの勉強してるのね。偉い偉い」

 カタリーナに褒められて、オレグはでへでへ笑っている。ジャンが羨ましそうにそれを見ている。

 にやけ面のオレグの先導でカタリーナは歩き出す。しかし、アルトは歩き出さずに立ち止まって、何かの気配を通路の遠くに感じる様な感じないような…そんな微妙な感覚を覚えていた。

 「どうかしました?」ジャンがアルトに聞く。

 「いや…」促されてアルトも歩き出した。



 「うおおおおおおお!」

 アサルトライフルの弾丸が路地裏を飛び交う。銀狼と鬼は残り二人となった追手と撃ち合いを演じていた。

 「生体認証バイオメトリクスは簡単にハックできるんじゃなかったのか?」

 死体から剥ぎ取ったアサルトライフルを撃ちながらフリッツが言う。

 「オフェンシブファイアウォールOFが更新されちゃった。さすがに精鋭部隊だ」

 ほぼ全てのデバイス・人間がインターネットにつながるようになった世界において、防壁ファイアウォールを備えることは重要である。特に武器や機密情報へのハック・クラックに対しては、逆に侵入者イントルーダー経路パスを特定し、不可逆なダメージを与える"攻撃的な防壁"を備えることが常識であった。しかし侵入者側は常に新しい方法で攻撃を仕掛ける。防壁はそれに合わせて更新され続ける。攻撃側と防御側の関係はイタチごっこの様相を呈示していた。

 「撃ち合ってても埒が開かねえ。突っ込むぜ」

 「いつも通りというやつだな。スモーク行くぞ」

 フリッツがスモークグレネードとEMPグレネードを投げる。視界を奪いながら、サーモグラフィなどの視覚補助的なツールの機能を一時的にダウンさせるため、賞金稼ぎに好まれる組み合わせであった。

 しかし、死線をくぐり抜けてきたものにはツールなどなくても、彼我の距離や相手の動きがなんとなく分かった。それは、生身の身体を持つものは、肌がピリピリするとか言い、機械の身体を持つものは、肌にノイズが走るとか言って表す感覚であった。

 リロードのタイミングに合わせてフリッツがモノを投げ、ローガンが飛び出す。こちらに走ってくるのに反応して、花火サリュートの隊員二人がナイフを抜く。

 特殊部隊だろうが、所詮は屍肉を喰らうネズミだ。賞金稼ぎと同じで、常に命のやり取りをしなければ生きていけない。そして、ネズミ同士は、出会ってしまえば互いにも喰らいあう。生き残るのはどちらか。



 人狼は冷たい気配を感じ取っていた。

 例えば音や数字などが色を持っているように感じる人間がいるが、アルトも同じような感覚を持っていた。非道な人体実験の結果として彼に与えられた感覚は、他者の感情や敵意をなんとなく感じ取れるまでのものになっていた。

 「この通路は他のヤツにもよく使われるのか?」

 アルトは、先頭を歩く黒髪の少年、オレグにそう尋ねた。

 「いや、そんなに。一部の人しか知らない通路ですから。でも、確かに今日は全然人が——」

 「右の方に誰かいる。こっちに向かってきてる。嫌な感じだ」オレグを遮ってアルトがそう言った。

 カタリーナが立ち止まった。

 「何人?」カタリーナが聞く。

 「3人」アルトが答える。

 「えっ、えっ、いや、あの」オレグは狼狽えている。最後尾を歩いていた金髪の少年、ジャンも同じ反応だ。

 「この通路は他の人にも使われるし、右ったって、この道は暫く一方通行だし、壁があるだけ…」

 「あ」

 アルトが先頭のオレグを引っ張る。

 「1人になった。下がって、下がって!」

 瞬間、アルトの目の前、ちょうどオレグのいた所の壁が吹き飛ぶ。コンクリートが破壊され、粉塵が舞う中、ドロイドが姿を現した。

 「見つけた、見つけた。銀髪の人狼、言うなれば銀狼だな。あ?そんな名前の同業者がいたな?」

 コーンロウのように頭から何本かケーブルを出してまとめているドロイドがアルト達を一瞥する。右手には破砕用のドリルアームが唸りを立てて回転している。

 「バ、"バルカン"バルゴだ!殺した相手の頭蓋骨をコレクションしてるっていう変態ですよ!」

 ジャンが後ろに飛び退きながら叫ぶ。

 「ご名答。俺も有名になったな。も知ってた。お前らも殺してやる」

 バルゴと呼ばれたドリルのハーフドロイドが指さすと、ヒェッ、と小さな悲鳴を上げて少年二人は走って逃げた。

 「アルト」

 カタリーナが声を掛ける。表情は険しいが、その凛々しい顔に一筋の汗が流れる様はたしかに絵になっていた。

 「大丈夫だ、カタリーナ。アンタも下がってて」

 「人狼と女検事だな、お前ら二人は必ず殺す。そういう依頼だからな。人狼お前の骨は——」

 2mはあるであろうバルゴの頭の高さまで、アルトは一息で飛び上がって、蹴りで顎を打ち抜いた。バルゴは受け身も取れずに転がりながら吹き飛んでいく。

 手ごたえがあった。実験と称して、に訳の分からん生物と闘わされたのはムカつく思い出だったが、その思い出の中で勝負が決まった時と同じ感じだった。

 構えは解かずに、相手の様子を伺う。しかし、予想に反して蹴られて致命傷を負ったはずのドルイドは勢いよく跳ね起きた。

 「残念だったな、俺の脳みそはとっくにチップに置き換えてる。揺れねんだよ。まあ俺が特別強いってのもあるけどなあ」

 ギリリ、ギリリ、と右手のドリルが唸りを上げながら、バルゴが歩いて近づいてくる。アルトは戦慄の息をのんだ。

 「もう終わりか?じゃあ死ねッ!」

 顔面目掛けて突っ込んできたドリルアームを、間一髪でアルトは躱す。すかさず脇腹めがけて飛んできた左の掌底を防ぐ。顎めがけて飛んできた膝蹴りを両手で止める。間髪入れず拳が来る。ギリギリで防ぐ。蹴りが来る。何とか躱す。

 「思ったより粘るじゃねえか。おもしれえぜ、お前」

 拳足の速度が増していく。防御はさらに厳しくなる。だが、銀髪の人狼の狙いは別にあった。

 ドリルこいドリルこいドリルこいッッ!!

 無機質な目がギラリと光った気がした。対峙するドロイドが一歩下がったのをアルトは見逃さなかった。バルゴが右手のドリルを突き刺すために、左足を一歩大きく踏み込んだ。

 ここだ。同じタイミングで、アルトも全力で左足を踏み込む。

 バルゴの視界から、とっくにドリルで貫いているはずの人狼の姿が消えた。消えた?いや、これは——

 「拳――」

 アルトが突き出した右の掌底が、無防備なバルゴの腹に突き刺さった。

 「――法だとお!?」

 ドリルのドロイドは再びぶっ飛ばされた。

 完璧なタイミングで返しカウンターが突き刺さった。今度こそ起き上がってこない、はず。

 肩で大きく息をしながら、ゆっくりと右腕を下ろす。攻撃を受け続けた体はあちこちボロボロで血も出ている。気づけば額からも血を流していた。

 「アルトッ!」

 カタリーナがアルトに駆け寄った。

 「ハァッ…!ハァッ…!…大丈夫だ、大丈夫…」

 両手を置いて膝から上げられない。倒れそうな体をカタリーナが支えた。

 「…アルト、立てる?逃げないと…」

 「え?」

 返しカウンターが完璧に入ったはずの相手が、立ってこちらに歩いてきているのをアルトは見た。

 「くだらねえことしやがって、一張羅が台無しだ。ドリルでぐちゃぐちゃにしないと気が済まねえ。てめえは——」

 「ヴァシリ!」カタリーナが声を上げた。カタリーナの視線の先、バルゴの50mほど後方から、いつの間にか追いついていたヴァシリが猛スピードで疾走してきているのをカタリーナの視覚デバイスグラストラックがとらえた。

 「なにっ、ヴァシリ」

 バルゴが振り向いた。その瞬間アルトが飛びかかった。

 「人狼ッ」

 バルゴは背後から飛びかかってきたアルトを振り払う。ヴァシリの方向に向き直った時には、すでにヴァシリは肉弾戦の距離まで迫っていた。

 よほどのモグリでもない限り、特殊作戦群α分遣隊アルファ・スペツナズの体調のことを知らない賞金稼ぎバウンティーハンターはいない。あまりに派手に市民を殺したり、軍に楯突く行為をすると現れる執行者。

 その威容にバルゴは一瞬たじろいだ。「ぐっ」

 バルゴのドリルアームと、ヴァシリの左の抜き手が交錯する。お互いにお互いの一撃は躱した、が、結果としてバルゴのドリルアームのみが切り落とされ、地面に落ちた。ヴァシリの左腕の前腕、肘から手首に仕込まれた単分子カッターだ。そのままヴァシリは左手で相手の肩を掴み、その脇腹に強烈な右膝蹴りを突き刺した。

 「はうッ」

 衝撃で身体が折れ曲がった。揺れる脳はないが、あまりに大きな衝撃を受けると、元生身で機械ドロイド化処理を受けた人間は、処理前ので苦痛の反応を返すことがあった。

 バルゴが前のめりになって、その頭が下がった。

 「二流賞金稼ぎが調子に乗るなよ」

 ヴァシリが右の膝と膝を大きく振りかぶり、バルゴの頭を挟み潰す。頭は縦に大きくひしゃげ、バルゴはうわごとを言いながらぶっ倒れた。ヴァシリは懐から拳銃を取り出して、ひしゃげた頭に向かって引鉄を引く。一発二発三発四発、撃たれるたびに頭は砕け、バラバラの鉄屑へとなっていった。

 「なんでこいつ"バルカン"っていう二つ名がついてんだろーな…。アルト、カタリーナ、二人とも無事で良かった」銃を懐にしまいながらヴァシリが二人に声をかけた。

 「ヴァシリ!良かった、来てくれて。ありがとうございます…!」ようやく緊張から解放されたカタリーナが、アルトに肩を貸しながら答えた。

 「地上で待ってたら、あの二人ローガンとフリッツから連絡がきましてね。地下に急いできました。間に合って良かった。アルトもよく耐えたな、こいつは結構やり手の賞金稼ぎなんだが」

 「あのままだったら俺は殺されてた。アンタ、一瞬で倒しちまった」

 「まあ、伊達に特殊部隊の隊長は張ってないってことだ。行こう。おいガキども、もう終わったから出てきて大丈夫だぞ」

 ヴァシリがそう言うと、どこに隠れていたのか、オレグとジャンが走ってやってくる。ヴァシリを先頭にして、一行は歩き出した。

 バルゴの首無し死体は置いて行かれたままだ。しかしそれも、追い剥ぎ《スカベンジャー》が根こそぎ持って行って、明日までには綺麗さっぱりなくなっているだろうが。

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