銀狼Ⅴ

 ロシア情報軍所属、リアルト・ヴォルガノフ大佐は情報軍にしては珍しく生身の体を持った人間だった。しかし、オーバーテクノロジーをその身に入れないままその地位まで上り詰めたということが、この老いた男がとてつもなくやり手であることを示しており、それが特殊作戦群α分遣隊アルファスペツナズの指揮を任されている理由であった。

 眠らない街モスクワ。深夜だというのに店は開き、その宣伝の光が街を彩り、多くの人が出歩いていた。リアルトもまたとあるレストランで食事を行っていた。サーモンのソテーに冷えた炭酸水。最後の一切れを食べ終え、口を拭ったあと、彼は彼の部下へと連絡を取った。

 ≪襲撃者の身元は判明したか?ヴァシリ中尉≫

 モスクワの中心部から離れた場所にある団地、その地下駐車場の出入り口で、ヴァシリは上司からのメッセージを受信した。

 ≪軍人ではないようです。ハルフォードが雇った賞金稼ぎでしょう。IDを送ります≫

 モスクワを生きる人たちには基本的にプライバシーというものはない。個人の情報は番号で紐づけられ国家に管理される。その代わり市民はその生活においてテクノロジーの恩恵を受ける。襲撃者の情報がリアルトへと送信された。

 ≪こちらでも調べておこう。くれぐれも人狼を死なせるなよ≫

 人狼は自由にさせる。そして軍内部で人狼を抹消しようとしている勢力を特定し、排除する。それが彼らの狙いだった。そのためには人狼が本当に存在して、という証拠が要る。

 ≪ご安心を。あの二人は私が知っている賞金稼ぎの中では一番の腕利きです≫

 地下駐車場から2輪バイクが自立運転モードで起動し、ヴァシリの傍らまで自動でやってくる。全速で飛ばせばまだ追いつくはず。ヴァシリはバイクにまたがって、モスクワへ向かって飛び出していった。



 「人が、すごい数だ!これがモスクワなのか!?」

 アルトを匿うため、ヴァシリの指定した場所はモスクワの中心部で、深夜といえど道には人が多く、熱気に満ち溢れていた。それは、地下の隠された研究所で過ごしてきた少年にとっては超がつくほど刺激的な光景だった。

 「そうだアルト!ここがこれからお前が暮らす街だ!」

 集団の一番後ろを歩くローガンが応えた。街の中心部は車ではとても通れないので、途中で乗り捨てて徒歩で目的地へと向かっていた。

 「アルト、ちゃんとついてきてね」

 初めての光景に気を取られて、アルトがはぐれないように、カタリーナ検事がその手をしっかりと握っていた。

 ≪見られてるな。予想通りだが、付かず離れずで嫌な感じだ≫

 先頭を歩くフリッツがプライベート回線でローガンにそう発信すると、ローガンの視覚デバイスグラストラックを通じて眼前に字幕が浮かびあがった。こういった仮想的な会話ヴァーチャルコミュニケーションは当然通信傍受シギントの危険性があるが、第三者に視覚的な情報は与えず、言葉や文章を実際に発生するよりはるかに早く伝えることができるという点で口頭の会話バーバルコミュニケーションより優れていた。

 ≪軍かな。統制が取れている感じがする。ところで、三つ目トライアドは?≫

 ≪わからん。今のところは見つけていないが、これ以上介入する気がないのかもな≫

 ローガンに別の回線からの通信キャッチが入る。

 「うわあ知らないIDだ」

 思わずローガンが立ち止まると、カタリーナがそれに気づいて尋ねる。「どうしました?」

 「いや、まあ…ちょっと危険になります」

 ≪追手の場所が分かった。地図にスポットする。つかず離れずの距離を保ってるな≫フリッツからのテキストも来る。ヴァーチャルとバーバルを同時にやると、非常にややこしかった。

 「…次の追手ですか?」

 「そうですね…ちょっと外れましょう。ここだと人が多すぎる」

 一行は大通りを外れて、入り組んだ路地へと入っていく。フリッツは付かず離れずだった追手の気配が少しずつ近づいてくるのを感じた。 

 「肌がざらざらする。追われてる」

 アルトがフリッツにそう言った。

 「ああ、ハルフォードが差し向けた刺客だ。車降りた時くらいからツケられてる」

 「違う、そっちは遠くに五人。他に、近くに二人いる。匂いでわかるんだ、俺らを追ってきてる」

 「…なるほど、たいしたもんだな。アルト、大丈夫、そっちは味方だ。気にするな」

 「味方…?」

 アルトに不敵な笑みを返し、ローガンはさっきから着信音を鳴らし続けている通信回線を開いた。

 『銀狼、君の居場所は分かってる。早く人狼を引き渡した方が貴様の身のためだぞ』ローガンが通信回線を繋げるなり、相手はそう告げてきた。これは電波を使った口頭の会話、つまり電話であった。

 「そのふてぶてしい声とツラ!ハルフォードのトマス・グレゴールか。渡せと言われて渡すわけないだろうが」

 会話を聞いたカタリーナが、トマス?と顔を顰めた。通話相手の名前や、設定していれば容姿やその他プロフィールが表示される。トマスは自己顕示欲が非常に大きな人物なので、顔写真は当然、彼のそれまでの成り上がりの経歴や最新の著書などのデータがローガンの視界には大量に表示されている。

 『おとなしく人狼を渡すのなら、相応の対価を払おう。貴様らのようなネズミではとても稼げないような金額をな』

 「賞金稼ぎバウンティハンターだって仕事相手は選ぶぜ、アンタみたいな下品な奴はいくら積まれてもごめんだね」

 トマスの額に青筋が入るのをローガンは感じた。

 『そっちがその気ならなァ!貴様ごとき消すのは訳ないぞ。ハルフォードに楯突くことがどういうことか教えてやる!』

 「なめんなよおっさん。モスクワがどういう場所か、思い知らされるのはお前の方だ」

 ローガンが通話を切った。こちらを見張るように遠くにいた気配が一気に動き出したのを検事以外の三人は感じた。

 「来るッ」

 アルトが叫ぶ。髪の毛と、頭頂部付近についた二つの耳の毛が激しく逆立ち、フードが頭から勢いよく外れた。

 「ああ。アルト、検事、もう少し下がって、そこのでかいゴミ箱くらいまで」

 ローガンが道の端においてある、大きなごみの収集箱を指さす。

 「え、ええ」

 「アルト、この街で生きていくのなら、時にはためらわず戦うことが必要だ。自分の力でな」フリッツが振り向かずにそう告げた。

 「何を―――」

 その瞬間、収集箱の方から大きな音が鳴り―――

 「…行ったか?」

 「行った。敵は五人だ。散るぞ」

 「オーライ」

 ―――検事とアルトの姿は消え、フリッツとローガンは反対の方向に走り出す。

 ≪頼むぞ、博士ドク

 疾走した勢いで、ローガンは道の傍らにある別のゴミ収集箱に跳びあがる。そのまま箱を踏み台にして真上に跳び、建物の2階の窓の縁に右手をかけ、体を引き上げながら左手で少し上にある排水用のパイプを掴む。両手で体を引き、窓の縁を踏み台に、反対側の建物の屋根へと、体を反転させながら跳び移った。屋根を走り、奥の道へと飛び降りると、一直線上にが二人いる。それはどうやら二人とも生身の人間だった。

 ≪バラクラバが邪魔だ。目を見ろ≫

 二人が、ローガンが走ってくる音に気付いて振り向く。バラクラバから唯一覗く二人の目を、ローガンはきっちりと見据えた。

 二人の隊員はすかさずアサルトライフルを構え、引き金を引く―――が、弾丸は発射されなかった。その隙に距離を詰めたローガンは、右側の隊員の首に、右手で握ったナイフを突き立てる。それと同時に左手で腰のホルスターから旧式の回転式拳銃リボルバーを取り出した。もう一人の隊員がアサルトライフルを手放し、ナイフを手にする前にローガンが左手で握ったリボルバーで男の頭を撃ち抜いた。男は崩れ落ち、ローガンは左手のリボルバーをしまい、首筋にナイフを突き立てられて、死にかけの男に向き直る。

 「生体認証バイオメトリクスは結構簡単にハックできるんだ。だからこうして、旧式の銃を使う。勉強になったなあ。それとも、賞金稼ぎネズミなら簡単に出し抜けるとでも思っていたかい?」

 突き刺さったナイフを両手でつかみ、首を切り裂いて男を終わらせた。

 ≪二人倒した。そっちは?≫撃ち殺した男に念のための二発目を撃ち込みながら、ローガンはフリッツに通信する。

 ≪一人始末した。あと二人だ…"花火サリュート"、情報軍所属の部隊だ。内ゲバってことか。…しかし、軍人の割にはあんまりたいしたことない奴らだったな≫

 ≪いーや、俺らが強すぎるんだ。証拠が集まってきたな。ぶっ倒してヴァシリに送ろう≫

 生身の男は再び、パルクールで屋根まで駆け上がる。

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