11.咎人
「エリ――エリオ――」
ぼやけた視界と耳鳴りのような中でかすかに聞こえる声。
「エリオット!」
肩を揺さぶられて、はっと気が付いた。
目の前には心配そうなアズの顔。
「アズ……」
「良かった……気が付いた……」
彼女がほっと胸を撫でおろす。その髪と肌は、なぜか水が滴り落ちている。
冷たい。
背中が冷水に浸かっているのが分かった。
それなりに勢いがある。
どうやら僕は、川の中で気絶していたようで、アズが重そうにしながら僕を抱き上げてくれていたようだ。
何故そうなったのか、おぼろげな意識で記憶を探る。
ああ、そうだ。思い出した。
身を起して、上を見上げる。
断崖絶壁がそびえており、その先は闇に覆われていた。
そのせいで、どれくらいの高さから落ちたのかは全く分からない。
アズが落車した際、僕も荷台を蹴って、彼女を追って崖下へと飛び込んだのを思い出した。
アズを抱えた後、すぐに突き出た岩にぶつかりそうだったのでケルベロスの鎧を身にまとい庇った。
それから――弾かれるようにまた別の岩にぶつかって――
――後頭部を打ち付けたところからは記憶がない。
痛む後頭部をさすってみるが、怪我はしていないようなので安心した。
ケルベロスの鎧は恐ろしく頑丈だが、すべての衝撃までは吸収してくれないようだ。
そのせいで気を失ったのだろう。
とはいえ、この高さから落ちて無事ですんでいるのだから、ケルベロスには感謝しなくては。
「アズ、怪我はない?」
「はい。エリオットのおかげです。……すいません、私の不注意で……」
今にも泣き出しそうな顔で、彼女は肩をすくめた。
僕が彼女に見惚れていないで、すぐ反応できれば、こんなことにはならなかっただろうから、彼女だけのせいではない。
「気にしないで。無事だったなら、安心したよ」
どうやら谷間に流れる小川に落ちたらしい。
彼女は全身びっしょりと濡れていた。
濡れた髪が彼女の肌に張り付き、妖艶さを際立たせる。
巫女服も濡れているせいで、彼女の凹凸がしっかりした身体の輪郭を、はっきりくっきりとさせていて――
だああああああああああああっ!
僕はこの状況で何を考えているんだ!!
彼女のセクシーな姿を眺めている場合じゃない!!!
頭をぶんぶん振って、邪魔な煩悩をかき消す。
その姿を見て、アズが心配そうに声をかけてきた。
「エリオット……大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫。それより、どうやって戻ろうか……」
話を逸らすようにして、僕らは上をもう一度、見上げた。
目を凝らしても、やっぱり先は見えない。
ケルベロスの鎖を使えば、岩壁をよじ登る事ができるかもしれない。
だが、アズも一緒にとなると……彼女の体力が持つかどうか。
抱えてのぼるという手もあるが……ううむ。
「高いですね……」
アズがぼんやりと上を眺めながらつぶやいた。
崖を登らず――となると、小川の先にある森を進むべきか。
川の先にある木々を眺めていると、何かがキラリと光った気がした。
「――!!」
一瞬の出来事だった。
反応できたのは、奇跡と言ってもいい。
彼女に向って高速で飛んできた物体を、僕はすんでの所ではじき返した。
ショートソードを持つ手が痺れる。尋常ではない威力だ。
弾かれ、地面に落ちたのは黒く細長い矢のような物質。
もしアズに当たっていれば、致命傷だったかもしれない。
「アズ!僕の後ろに――!」
「な、何が――」
まだ状況を把握できていない彼女を引っ張り、僕の背後へと隠す。
すぐさま、黒い矢が続けて二本。今度は僕目掛けて飛んでくる。
ショートソードで払うようにして、一本。返す刃でもう一本を撃ち落とす。
どうやら戻る方法を考えている時間はなさそうだ。
――暗がりの中から、見知った少年がゆっくりと現れた。
川を挟んだ対岸をゆっくりと、こちらに歩み寄ってくる。
そばには黒き猟犬、ティンダロス。
「よう、アイボウ。やるじゃないか」
聞きなれた声、だけど違和感を覚える。
ジェスター。
壊れた人形のように瞳をあらぬ方向へ向け、不気味な笑みを浮かべていた。
一瞬、誰だが分からなかった。
雰囲気は一変していた。
右腕はやせ細り、黒い墨で描かれたようにいびつに折れ曲がり、鋭角化している。
顔の右半分もただれたように肉がそげおち、黒くなっていった。
人の姿とは言えない、異様な姿。
「間違いありません……この瘴気、彼は『
アズが僕の腕をぎゅっと握り、ジェスターを睨んだ。
憂いを含む瞳は、異形と化した彼を憐れんでいるのだろうか。
「どっちからヤろうかな? 目の前で女をぐちゃぐちゃにしてやる方が、楽しいカナ?」
ジェスターの右腕がゴキゴキと音を立てながらうごめきたつ。
抑揚がおかしくなった喋り方に、僕は狂気を感じた。
もうこれは『ジェスター』ではない。
川を徐々に越えてくる『
このままここで交戦するのは、まずい。
彼の狙いは、僕だけではなくアズも入っている。
彼の背後には複数のティンダロスが追従しており、おまけに先ほどの飛び道具。
ジェスターの右腕からトゲのようなものが生まれはじめているので、あれを飛ばしてきたのだろう。
複数の猟犬を相手にしながら、飛び道具も捌く。
背後のアズをかばいながらやりきる自信は――悔しいが、ない。
シェンフーさんも居ない事の状況では、アズを守り切れない。
この状況で、迎え撃つのは分が悪すぎる。
そう判断した僕は――
「アズ、ちょっと我慢してね」
「はい?」
彼女の腰をぐいと抱え、ケルベロスを全身に装着する。
壁にできるものが少ない開けたこの場所より、ジェスターの背後に見える森の中で戦う方が安全だ。
そして何より、アズを安全な場所まで逃がしてやりたい。
ここは一旦、距離を取る。
僕はめいいっぱい地面を蹴って、ジェスターごと小川を飛び越えた。
「逃げんなよぉ!!」
ジェスターがすぐさま反応し、右手から黒く細長い矢を、頭上の僕目掛けて撃ちあげる。
ショートソードを盾にして――弾く。小さな火花が空中で舞った。
飛び越える事に成功したが、着地地点ではすでにティンダロス達が待ち構えている。このまま降りれば、彼らの餌だ。
左手を伸ばし、川の先――うっそうと茂る森の中へと向ける。
狙いは一番幹の太い木だ。
ガシュンッ!
鎖を飛ばし、大木へと突き刺すと――素早く鎖を巻き取り、空中で軌道を無理やり変えた。
待ち構えていたティンダロスが見上げ、通り過ぎる僕らを見送る。
木々に鎖を撃ち込み、僕はムササビのように木から木へと、飛び移った。
鎖を使った、高速の空中移動。
ぶっつけ本番だったが、なんとかなった。
鎖を撃ち込む遮蔽物があれば、三次元的に高速移動ができそうだ。
森の中へと逃げ込む僕らの背後で、ジェスターの笑い声が響いた。
「『狩り』はこれからだぜぇえええ!! エリオットオオオオオオオオオオ!!!」
● ● ●
鎖を撃ち込みながら、僕は木から木へと飛び移る。
動きにも慣れてきたので、一旦、ケルベロスも限定発動へと切り替えた。
だが、逃げ続けてもいられないだろう。
かすかに感じる疲労感。長くは続けられない。
隙をついて、距離を離したが、ティンダロスの群れもすぐに追いついてくるだろう。
僕に抱きかかえられ、されるがままになっているアズと目があう。
「アズ。ジェスターは一体どうなったんだ? 『
「……魔に堕ちた人の事です。『厄災』の魔物には、人々をたばかり――『
「……つまりジェスターは魔物に騙されて、『
「はい。強い怒りや絶望を持った人を狙って、『
私たち……シェンフーさんもその魔物を知っているという事だろう。
アズは思いつめた顔をしている。何やら嫌な過去を思い出したかのように。
もしかしたら、何か関係があるのかもしれない。
「ですが、まさかエリオットの友人が……」
怒り、絶望。
ジェスターがその感情を持った理由は、おそらく僕に負けたことが原因……
僕への復讐心が、彼を『
確かにあの時のジェスターは、この世の終わりのような顔をしていた。
だけど、ここまで僕に恨みを持つとは思っていなかったので、受けたショックは大きい。
「彼は神獣使いです。その力が強ければ強いほど、『
「……もとには……戻せない?」
「……残念ですが。あの姿、すでに神獣も浸食されていました……私の未熟な力では不可能だと――思います」
アズが僕を見つめて、申し訳なさそうに眉をひそめる。
ジェスターを止めるには……彼の命を絶つしかない。
彼女の表情から、解決策がそれしかない事が読み取れた。
アズが、おのれの無力さを悔しがるようにして、目を伏せ――唇をかむ。
「……エリオット。どうにか、彼を祓わねばなりません。放っておく事はできません」
「わかってる」
だが、あの数だ。正面から戦って、簡単に倒せる相手ではないだろう。
何か策を考える必要があった。
「……私が彼の力を封じます。ですから――」
アズが僕の考えを読み取るように提案してきた。
木々の密集している森林だ。遮蔽物も多い。
ジェスターが飛ばす射撃武器も、防ぎやすいだろう。
やるなら、ここで迎え撃つのがベストかもしれない。
だが、今は彼女を安全なところに運ぶことが優先だ。
「……」
何も答えない僕に、彼女はうつむいた。
――だいぶ距離を離したところで、大木の下に小さな窪みが出来ているのが上から見えた。
たぶんアズならすっぽり入って、身を隠せる大きさだ。
僕はスピードを落とし、窪みの近くへと着地する。
「ここでじっとしてて、アズ――ジェスターは僕が何とかするから」
「で、ですが、一人で立ち向かうのは危険すぎます」
「大丈夫。……何かあれば、アズは一人で逃げるんだ」
「エリオット……私の話を――」
彼女が何かを言おうとしたが、僕はすぐに鎖を伸ばし、元来た道を戻った。
彼女を危険にさらすわけにはいかない。
森の中ならあの厄介な攻撃にも、打つ手はある。
アズを残して、僕はジェスターの方へと急いだ。
できる限り、アズとジェスターの距離を離すため。
彼が
ここで楽にしてやる必要がある。
彼女の提案どおり、巫女であるアズの力を借りる事も考えた。
だが、責任は僕だけにある。
彼女に万が一の事が起きたら、自分を許せなくなるかもしれない。
だから、僕は一人で『
最期は最悪な形での別れだったが、四年間、苦楽を共にしてきた『相棒』だ。
「こい、ジェスター。決着をつけよう……」
僕は追いかけてくる憎悪の闇を睨みつけた。
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