10.追走、追撃、峠攻め

 ぽよんぽよん――


 馬車の揺れに合わせて、二つのお山が柔らかそうに上下する。

 見てはいけないのだが、どうしても視線を外すことができない。


「ん……」


 寝息を立てるアズが僕の方へと身体を預けてくる。

 右腕に、重量のある――ほどよい柔らかさの『もの』がむにゅりと押し付けられる。


 耐えろ。耐えるんだ。


 旅の疲れか、『八咫烏』の力を使った影響か。

 荷馬車に乗せてもらった後、アズは僕の隣で眠りについてしまっていた。

 静かな寝息をたてて、気持ちよさそうにしている。



「巫女殿にお触りは、厳禁です」


 対面に座るシェンフーさんが化け猫のようにニタリと笑う。


「そ、そんな事するわけないでしょう!!」


 声を荒げて反論すると、シェンフーさんは指を立てて静かに――と僕を茶化す。



「アズリエルは巫女になってまだ日が浅い。力の使い方に慣れてないのはお前と一緒なんだ。ゆっくり休ませてやってくれ」

「わ、わかってますよ……」

「思春期の少年には酷だが、まあ、我慢してくれや」

「……だから、変な事しませんって……」



 とはいえ正直、この状況は拷問にも近い。

 至近距離で女性に身体を寄せられる事は初めてだ。

 アズリエルは可愛いし、スタイルもいい。意識しない訳が無い。



「んん……」



 僕が大声を出したせいだろうか。眠る彼女が眉をひそめ、身をよじる。



 ぽふりと、僕の肩に顔を乗せる。

 彼女の艶やかな髪が僕の頬を撫で、甘い吐息が僕の首筋を刺激する。

 その上、僕の腕へと豊満な肉体を押し付けてくる。



 ……わざとじゃないよね。


 彼女に聞きたいが、起こすわけにはいかない。




 僕の中のケルベロスが、目の前のご馳走に飛びつこうとしている。

 それを理性という鎖が必死に押さえつけ、出ていかないように引っ張りあげて阻止するが――

 ズリズリとケルベロスの方に軍配が上がりつつある。



 耐えろ。

 頑張れ、僕の理性――



 うう、髪の毛さらさら……

 お肌、ぷにぷに……




 アズの首筋――そこから垂れる三つ編みだけでもしゃぶりつきたい。

 僕の中の獰猛な三つ首の獣がそう訴えている。





 と――








「おい、エリオット」


 荷車から外を睨みつけ、シェンフーさんが声をかけてきた。


 そこで、僕もようやく気が付いた。僕らを追走する何かの気配に。



「あえ……?どうしました?」


 寝ぼけているアズを座らせたまま、僕も荷車の後方へ行き、追いかけてくる気配を探す。



 陽が落ち、山道に入って少し経つ。周りは木々に囲まれていて真っ暗だ。

 土で踏み固められた街道もほんの少し先しか見えない。



 だが、確実に、後ろから何かが迫ってきている。


 正体はまだ暗くて分からないが、一体ではない。複数の気配だ。




 ハッハッハッ――


 馬の蹄、馬車の車輪、荷物の揺れる音。

 それに混じってかすかに獣の息が聞こえる。



「エリオット……お前の元相棒ってやつは、ずいぶんと執念深いな」



 シェンフーさんが呟いた。彼の目がじっと後方の闇を捉えている。

 僕にも追いかけてくるものの輪郭が分かり始めた。



 大型犬がものすごいスピードで迫ってきている。

 黒い墨のような猟犬。ティンダロスだ。

 だが――



「何か……様子が変です」



 知っているティンダロスの形とは何かが違う。

 スマートな大型犬のフォルムしていたはずのティンダロスはいびつに膨れ上がり、とげとげしい。

 左右対称に整っていた顔は狂気にゆがみ、醜く恐ろしい形相になっていた。

 まるで、別の存在――


『厄災』の魔物のように。




「じいさん、スピード上げてくれっ……後ろからやべーのが来てる!」

「え……うわあっ!!」


 ベンスさんが振り向き、悲鳴を上げて馬を急かした。

 荷車が激しく上下に揺れ、スピードを上げる。

 だが、ティンダロスはよだれを垂らしながら追走――距離を縮めていく。



「エリオット……彼は、魔に堕とされたのやもしれませんっ」


 振り落とされないようにしゃがみ込んだアズが僕の裾を悲しそうに引っ張った。


「『堕ちた』……?」

「ちっ! 説明は後だ。追いつかれたぞ!」


 イラついた表情でシェンフーさんが、右腕を虎化させた。

 ティンダロスが牙をむき、荷車へと飛び掛かる――が、先に反応していたシェンフーさんの右拳が猟犬の顔面を捉え――木々の隙間へと吹き飛ばした。



 僕も腰からショートソードを左手で引き抜き、迎撃の構えを取る。

 ケルベロスを装着しようとして、シェンフーさんの右腕を見て思い出す。




「限定発動……」


 今ここで、全力を出して息切れしては意味がない。横で奮闘する、偉大な先輩のアドバイスを実践してみよう。


 右手だけに意識を集中させる。

 ケルベロスを限定的に装着させるよう――

 イメージしながら力を込めると、意外にあっけなく成功した。


 右手から肘あたりまでのみ、ケルベロスの灰色をした籠手が包み込んでいる。


 限定発動は成功。であれば……



 荷車の目前まで迫るティンダロスへと視線を落とす。右手を弓を射るようにして猟犬に合わせて――


 ガシュン!


 手甲から鎖を矢のように射出する。

 しかし、ティンダロスがいち早く反応し、身体をずらしてよけた。


「くそっ」


 右手を引いて鎖を巻き上げる。

 その隙をつくようにして、ティンダロスが跳躍――喉笛を噛みちぎろうと僕へと迫った。


 

 すぐさま、左手に意識を集中させる。

 素早く籠手が腕を包み込み――ショートソードごと鎖を射出。



 ティンダロスの胸下を突き刺しながら、鎖が猟犬を吹き飛ばしていく。



「ふう……!」



 とっさの対応だったが、うまくいった。 

 左手の鎖も巻き取る。鎖の先にはショートソードが連結されて僕の手へと戻ってきた。

 剣をつなげて撃ちだす事もできるらしい。

 

 実戦でいい事を学んだ。




 改めて、右手を構えティンダロスへと鎖を射出。



 僕は次々と迫りくるティンダロスに両手の鎖と剣を撃ち込み、追い払った。





「くそっ!キリがねえな!」


 シェンフーさんがティンダロスを叩き落としながら、悪態をついた。

 ジェスターが今の力で呼び出せる数は――同時に四体のはずだ。

 だが……今、馬車を追いかけてくる猟犬の群れは、四体を優に超えている。


 倒しても倒しても、次々と闇の中から黒き猟犬が迫ってきた。

 ギリギリのところで追い返しているものの、このままでは数の暴力に押し負けるのは目に見えている。


「この先は崖道になっておる!!このスピードのままだと落ちてしまうぞ!!」


 馬のシルバーに檄を飛ばしながら、ベンスさんが叫ぶ。

 振り向いて、進行方向を確認すると切り立った崖がもうすぐそこまで、迫っていた。


「前門の虎、後門の狼ってか……虎は俺だけどよっ!」


 シェンフーさんは冗談交じりに言うが、顔は笑っていなかった。

 追いつめられた状況であることは僕にもわかる。



「なるだけスピードは落とさないでくれ! この数に追いつかれちゃ……ひとたまりもねぇ!!」



 闇が蠢くように迫るティンダロスの群れ。

 彼の言う通り、この数を一度に相手するのは無理がある。

 背後で不安そうに僕らを見守るアズを守り切れる可能性は――限りなく低い。



 じわじわと、ティンダロス達との距離が近くなる。

 その上、進行方向には崖。

 一気に状況が悪くなってきた。




「……巫女様たちや! 荷馬車の荷物をできるかぎり捨ててくれ!!」


 ベンスさんが意を決したように僕らへと叫んだ。



「どういう――」

「いいから! はよ!!」


 ベンスさんに何か策があるようだ。僕らはすぐさま荷物に手をかける。


「アズはじっとしててっ!」

「あ、はいっ……すいません!」

「おらっプレゼントだ! 受け取れ!!」


 手伝おうとしたアズを安全な位置に下がらせて、僕とシェンフーさんは手当たり次第に荷物を放り投げた。


 ティンダロスにぶつかり、あるいは避けられて積み荷が木端微塵に散乱していく。


 曲がりくねった崖道が目前まで迫る。

 もうスピードを落とさないと、曲がり切れずに落ちてしまう。

 だが、そうすればティンダロス達が――





 ふいにベンスさんがにやりと笑い、昔話をし始める。




「わしとシルバーはのう、昔はよく、『走り屋』としてこの山を攻めていたんじゃよ……!」

「じいさんっ――この大変な時に何を――」

「しっかりつかまっておれ!!振り落とされるなよぉおおおお!!!」



 ベンスさんの身体から青い光が漏れる。



「人馬一体!駆けよシルバー!!駆けよ『グラニ』!!」



 ヒヒヒーーーン!!!



 馬のいななきと共に、ベンスさんから青い肌を持つ馬が飛び出す。

 青い馬の神獣『グラニ』は駆けるシルバーに重なると、シルバーの身体に軍馬のような鎧が現れる。



「おいおい、じいさんも神獣憑きかよ……!」



 壁にぶつかったかのように、空気の層を感じさせてシルバーが加速する。



「引退前に最後の峠攻めじゃ! ハイヤーーーー!!」


 人が変わったかのようにベンスさんが雄たけびを上げる。

 スピードを落とすどころか、急激にスピードが増していく。

 僕らは風圧に吹き飛ばされないように、荷車にへばりつた。



「え、エリオット……」


 激しすぎる荷車の揺れに弾き飛ばされそうなアズを僕は捕まえて抱きかかえる。

 尋常じゃないスピードに僕も耐えるので必死だ。

 ティンダロスは諦めることなく追いすがるが、距離が徐々に開き始めている。


 このスピードなら逃げ切れる。だけど――



 断崖絶壁の崖が見えるカーブにさしかかった。

 このスピードでは、崖に自ら飛び込むようなもの。


 ベンスさんは笑みをこぼし、手綱を強く引っ張る。



「我らが奥義! 見よ!! 怒離不峠ドリフト!!!」




 ガリガリガリッ!!


 シルバーの足が土煙と火花を上げる。急激にカーブを曲がり、荷車が遠心力に耐えられず滑っていく。

 ものすごい重力がかかり、僕らは悲鳴を上げた。


「うわああああ!」

「きゃああああ!」

「まじかよおお!」



 一瞬だけ、荷車が宙に浮いたのを感じた。




 ドスンッと重い衝撃の後、馬車はほとんどスピードを落とさずにカーブを曲がり切っている事に気が付いた。

 なんて荒業だ……


 ちらりと背後を確認すると、同じスピードでカーブに突入し――しかし、勢いがつき過ぎて曲がり切れず、崖から落ちていくティンダロスの群れが見えた。


「まだまだぁ!!」



 ベンスさんが吠える。

 

 目の前の崖道は幾度もカーブを描いていた。

 彼はそのすべてで奥義を使っていくつもりらしい。



 アズの顔が青ざめていく。 





 静かな夜の峠に、僕たちの絶叫だけがこだました。


「うぅ……エリオット……わたし……はき……そ――」

「まって……我慢して……ここで吐いたら……大惨事に――」

「うおおおおおじいさん、すげええええええええ!!!」









 ――崖道がなだらかな下り坂だけになったころ、ようやくベンスさんの峠攻めが終わった。



「うぅ……助かりました……ベンスさん……うぷ」


 憔悴しきった顔でアズがベンスさんにお礼を言った。

 僕とシェンフーさんは背後の峠道をじっと見つめる。

 暗がりに動く気配はない……


 どうやらベンスさんのおかげで、ティンダロスの群れを引き離すことに成功したようだ。


「いえいえ。若い時を思い出して、年甲斐もなくたぎってしましましたわ……お怪我はありませんかね?」

「はい。ありがとうございます。おかげで魔物もふりきれたようです」


 僕がまだ気分が悪そうなアズに代わってお礼をのべる。

 ベンスさんもちらりと後ろを確認し、安心したように大きく息を吐いた。


「やるねーじいさん」

「お恥ずかしい話ですが、昔はわしも相当やんちゃをしていまして……」


 シェンフーさんが見直したぜっとベンスさんの肩を叩く。

 シルバーも嬉しいのか、一度いなないてみせ、元気さをアピールする。


「大丈夫? アズ」

「は、はい。風に当たれば……落ち着くと思います」


 アズは苦笑いを浮かべると、立ち上がって馬車に当たる風を気持ちよさそうに受けた。

 目を瞑り、風と一つになるようにして酔いを醒ます。


 そんな彼女に、つい僕は見とれてしまう……



 ふとした瞬間、その一つ一つが絵になる女性だな。

 藍色の髪をなびかせてたその姿をずっと見ていたい気持ちにさせる。



 夜風に当たるアズを、ただただ、ぼーっと眺めていた。





 ――その油断がいけなかった。




 ガタン。



 馬車がほんの小さな石にひっかかり、荷車が上下に揺れた。

 なんということは無い、小さな揺れだった。



「あっ――」



 アズにとっても、ほんの少しバランスを崩しただけのつもりだっただろう。

 だが、一度崩れた姿勢を戻すことはできず――



 荷車から滑るように――

 


 落車していく――




 シェンフーさんはちょうどベンスさんと会話をしているタイミングだった。



 僕は――彼女を眺める事に夢中で――反応することに遅れてしまった。






 自分に何が起こっているのか分からないという目で、彼女は僕を見つめた。




 しまった。

 焦って追いかけた時にはすでに遅く――

 

 

 彼女は崖下に吸い込まれていった。





★  ★  ★

神獣『グラニ』 ―装着型―


青い肌を持つ馬の神獣。

伝説の神馬スレイプニルの血を引いているとされる名馬。

宿主ではなく、彼のもつ愛馬へと鎧が装着されるような形で出現し、力を授ける。

グラニの力を持ってすれば、どんな山も一日で越え、断崖絶壁の崖すら下り、河の上すら走り切ると言われている。

宿主のベンスは若き日々、相棒のシルバーと共にグラニの力を借り、峠『最速』を目指していたという。


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