一ヶ月前・稽古二十日目

 東京から帰宅した翌日の放課後、私は稽古部屋へ集合するように指示した。しかし三羽黒は、こっそりと寮に帰ろうとしていたのだ。事前に『トブ』かもしれないと察知した私は玄関で隠れて彼女を待ち伏せしていた。


「あれ? 三羽黒様、どちらまで? 稽古部屋は逆方向ですわよ?」


「ひぃぃっぃ。見逃してください。もうワタクシ、東京から数百キロも歩き続けて、ずっと筋肉痛の状態です。ワタクシ、お父様にもぶたれたことがないのに、ぶたれる以上の……筋肉痛という拷問の日々を送っておりますの。振り返れば、まさに地獄の数日間でした。どうか今日かぎりで女子相撲部をやめさせてください。もう退部いたします!」


 私はにっこりと笑顔で微笑んだ。


「駄目です。やめさせません。うふふのふ」


「そ、そんなー。しかしながら、ワタクシの退部するという権利は何人たりとも侵害させられません。もう筋肉痛は嫌なのです。この筋肉痛が明日以降も続くと考えると……安堵して寝れません」


 私は彼女に向かって拍手した。


「それは素晴らしい。筋肉痛になるということは、すなわち、筋肉が破壊されたからに他なりませんからね」


「こ、壊れたのですか。ワタクシの筋肉が壊れたのですか? そんなああっ!」


「しかし三羽黒様。筋肉痛は私も同じです。雨の日も風の日も、ずっと一緒に歩きつづけていましたものね。ただ、違いがあるとすれば、私は原宿で買い物をしなかったので、荷物を持っていなかっただけ!」


「それは随分と違うではありませんか!」


「三羽黒様は甘いです。夜赤竜様に比べたら、まだましです。なぜなら夜赤竜様、マネキンを担ぎながら数百キロの道のりを歩いたのですから。足だけではなく、全身が筋肉痛となっています。私もマネキンを担いで数十キロ歩かせていただきましたが、尋常ではない疲労を感じました」


「夜赤竜様は道中で何度も死にかけていたではありませんか。ああ……それにしてもワタクシの筋肉は……壊れていたのですね。ショックです」


「慌てないでください。そんな絶望的な顔をなさらないでください。筋肉というものは、一度壊れて、修復されるものです。そしてその過程でこそ強くなるのです。すなわち、我々はいま、確実に強くなったとも言えます。三羽黒様ともあろう者が、それに気づいていないと? 強靭な足腰と、荷物を持って帰宅した腕の筋肉値が、尋常でない上がり方をしたのですよ?」


「そうなのです……か?」


「そうです。寮までの帰宅中、私は現地の特産物などを、太っ腹のごとくに奢っていました。宿泊費もです。お金を使わないことを信条にしている私が奢るということは、並大抵のことではありません。皆様を強くしたい一心からです。取組で勝つという経験をしてもらい、その高揚感と充実感を覚えてもらいたい愛心からです。バランスのよい食事をとるようにも誘導しており、まさに私達は《山籠もり》ならぬ、《道路籠もり》という誰も成し遂げたことのない難行を達成したわけです。力が上った証拠もありますわよ?」


「しょ、証拠……」


「三羽黒様、腕を折って力を入れてみてください」


「こ、こうでしょうか」


「どうですか? 何か、ありませんか? その細腕に……」


「……あっ! これは!」


「三羽黒様、これは《力こぶ》と呼ばれるものです。もしかすると三羽黒様には一生、縁が無かったかもしれないものです。今、得ることができました。これも重い荷物を持ち続けられた結果。どういったお気持ちですか?」


「なんだか……信じられない気持ちです。夢のようです。ワタクシに力こぶができるとは……」


「足の筋肉の向上は腕の比ではありません。ここでやめたら。勿体無い。もう少しです。もう少しで、相撲で強い相手に勝つという最高のエンターテインメントを実感できるでしょう。やりましょうよ! もっと強くすることを約束しますので、私についてきてくれませんか? もっと強くなりたいでしょ? カタルシスを感じたいでしょ?」


「わ、分かりました。大砲様。ワタクシ、もっと強くなりたいですわ」


 三羽黒は目を輝かせながら言った。他の4人にもいえることだが、彼女らはとても純粋な心を持っている。別の言い方をすれば、単純なのだ。


「……とはいえ、私たちはまだまだ細身な体です。一般平均以下の体重しかありません。ようするにモヤシです。ひょろひょろです。まだまだ強くなるには、幾つもの階段をのぼる必要があるのです」


 私と三羽黒が稽古部屋に行った時、すでに3人が集まっていた。


 実は3人とも退部を考えていた節があり、三羽黒と同じように事前にそれぞれにフォローをしておいた。


 私はもしかすると、かなりの策士なのかもしれない。


 とはいえ、彼女たちが相撲が好きという気持ちと、強くなりたいという思いが芽生えたからこそのフォローであり説得だった。

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