第24話

 じゃれ合う中年の男女の姿は周囲からは、さぞ奇異に映るはずだ。特に房子の声は低いながらも良く響く。生憎の天気で人は少ないとは言え、誰も居ないと言うわけでもない。ちゃんと傘をさして買い物袋を下げた主婦と思しき人が、必要以上に二人を避けてすれ違って行った。

 桜並木は川沿いに敷かれた道の300mほどを占めて立ち並び、並木の始点と終点付近にある橋を渡れば、川沿いにグルグルと周回出来るようになっている。並木の中程にも橋があった。 

 二人が休憩を取っていた店は、三本ある橋の真ん中の袂にあり、二人は店を出てから橋を渡って、川向こうの道を尚記の部屋から遠ざかるように並木の終点へ…どちらが始点でどちらが終点か分からないが、今の二人にとっては終点側の橋を渡ってUターンし、尚記の部屋に戻るように、ジャレ合いながら歩いていた。

 休憩を取った店の近くまで戻って来ると、買い物袋を手にした女性が、桜に積もった雪を、もしくは雪の積もった桜の様子をスマートフォンで写していた。

 先ほど二人を異様に避けてすれ違って行った主婦とは別人だ。まず服装が違ったし、写真を撮っている女性は傘を持っていない。

 雪は相変わらず降っていたが、暗くなってから気温も下がり、牡丹雪の状態からサラサラとした雪質に変わっている。服の上で溶けること無く落ちて行ってしまうので、傘をさしていないのは違和感とは感じ無い。

 けれども、何故だか房子は違和感を感じた。何故だろう?暗くて良く見えないが不審な身なりでも無さそうだし、写真を撮っているのは少し目立つが、桜が咲く時期に雪が降るのは珍しい、そう思ってしまえば、すぐに納得出来てしまう程度の事だ。

 房子は違和感の出所を探した。するとその女性が必要も無いのにそこに居る感じがするのだと、房子は明滅している自身の直感をようやく捉えた。捉えた直感を元に尚記と戯れるのを控えて良く観察してみると、女性は写真を撮っているのに外灯から離れた暗い場所で撮影している。

 房子に写真の趣味は無いので、暗い場所で撮影した方が上手く撮れる技法があるのかも知れないが、そこまで撮影方法に拘るなら機材もそれなりの物を使うだろう。女性が使っているのはスマートフォンだ。単純に考えて明るい場所で撮影した方が良さそうだった。あと数10メートル、もうちょっと歩けば店の灯も、橋の袂の外灯もある場所で撮影が出来るのに。女性は何かコソコソと、撮影とは別の目的があるように写真を撮っている…撮っている振りをしている?

 房子は自分が直感で感じた違和感が具体的に何なのか分かったので、尚記に不審な女性が居る事を教えてやろうと、女性から目を離さずに尚記の袖を引っ張ろうとした。しかし想定していた場所に尚記の袖は無く、尚記の腕の重みの抵抗を期待していた房子の手は空振りをし、勢いがつき過ぎた房子はバランスを崩した。雪は積もっていなかったので それほど滑りやすい訳では無かったが、地面は濡れて踏ん張りが利かなかった。

「ひゃっ!」

 転びそうになる房子を予期していたかのように、尚記は落ち着いて支えてくれた。

「あんなにはしゃいでいたら、いつか転ぶと思ってましたよ。今も油断させて、いきなり触るつもりだったでしょ?」

 得意気な顔である。

 房子は支えられていると言うよりも、ほぼ抱きしめられている。

「違う、違う。そないつもり無い…あそこに…」

 あそこに変な女性が居ると伝えたかったが、転びそうになった時に房子は大声を出してしまった。立場が逆転して二人を不審だと思った女性がこちらを気にしているかも知れない。房子は「あそこに…」から先の言葉を呑み込んだが、視線は押しとどめる事が出来ずに、女性が居る方を見てしまった。

 自然、促されるように尚記も房子の視線を追って、暗がりに女性が居る事を認識した。

 案の定、女性は房子の悲鳴に反応して二人の事を見ていた。しかし二人の事を不審者だとは思わなかったようだ。転びそうになった女性を近くに居た男性が助けた。そう思ってくれたらしい。特に訝しんで警戒している様子も無い、普通の声のトーンで

「大丈夫?」

 房子の体勢を立て直すのを手伝うつもりなのか、問いかけながら歩み寄って来た。

 尚記がハッとしたのが、房子には伝わった。何しろ房子は尚記に抱きしめられているのだ。表情だけでなく、息遣いや筋肉の緊張具合まで伝わって来る。女性の声を聞いた途端に尚記は息を飲み、房子を抱き支える腕に力を入れた。結果、房子は尚記にきつく抱きしめられた。

「八崎さん!?」

 房子の耳が尚記の口元近くにあるので、そう大きな声では無かったが、熱を帯びた尚記の声が鼓膜をくすぐり、房子は思わず背筋を伸ばした。


「あぁ、やっぱり沢田さん」

 尚記にヤサキと呼ばれた女性は、その顔の目鼻立ちがハッキリ見えるくらいまで近づいて来た。房子は尚記が起こし切ってくれないので、斜めの視界のままヤサキの表情をつぶさに見て取ろうとする。顔の造形は判るが、表情から心情を探るなら、もう少し明るさが欲しい。房子は自分の老いを恨みつつ、それでも今できる目一杯の能力でもってヤサキを値踏みし始めた。

 雪の似合う女性である。声も表情も落ち着いている。顔立ちは綺麗な部類だろう、だが地味だ。この時間の買い物だ、化粧をしていない所為も有るかも知れないが、顔だけで無く、醸し出す雰囲気に華がない。これもワザと控えめにしているのだろうが、控えめにし続けたせいで、髄まで染みついてしまった感じだ。華奢で体のラインにメリハリが無いのも地味さに拍車をかけている。汎用は効くが凡庸な服を、故意に選んで着ているからだろう。

 きっと、この人が尚記の想い人で、その人は既婚者だと尚記は言っていた。この体勢ではヤサキの左薬指を見る事は出来ないが、既婚者であれば無闇に体のラインをアピールする服を着ていると、世間は未だに眉を顰める風潮だ。普通の顔、普通の服。一度見ただけではとてもでは無いが覚えていられない。

 房子は日本中に居るであろう、鳥籠の中で飼われ続け、飛び方を忘れてしまって、籠の扉は開いているのに飛び立てない小鳥達の、その中の一羽を見た気がした。

「ハチサキさん、この前はいきなり変な事を言って ごめんなさい。寒くないんですか?」

 ハチサキ?房子は尚記の腕の中で怪訝に眉を動かして、名をヤサキからハチサキに変えた小鳥を見た。

「八崎よ。キミと会うといつも同じ質問をしちゃうけど、何をしているの?」

「転びそうになったんで、助けたんです」

 そう言いながら、尚記は体勢の崩れて来た房子を抱きしめ直す。

 房子は女が尚記にハチサキと呼ばれた時の、驚きとその後すぐに驚きが喜びに入れ替わって行く表情を見逃さなかった。

 何なのだろう?今のやり取りは。尚記は最初、確かに八崎と呼んだはずだ。なのに何故、改めて間違った呼び方をするのだろう?おかげで八崎に当てはまる漢字の見当はつけられたが、呼ばれた方も呼ばれた方で、なぜ尚記が改めて名を間違えて呼んだ事に、一言も言及しないのだろう?そして何故、喜ぶ?

 房子が尚記の背中に腕を回したままの状態で疑問を渦巻かせていると、八崎は尚記と房子の顔を交互に見ながら、

「あのぉ、お助けしましょうか?彼の言ってる事は本当ですか?」

 極めて落ち着いて、尚且つ余裕を持って房子に声をかけて来た。尚記の言っている事が嘘で房子を抱きしめいるなら、本当かどうか確認する前に、助けなければならない位に問題なのは、聞いて来た八崎にも分かっている事のはずだ。

 冗談混じりの質問に余裕を感じるが、その余裕は無理に作り出しているようにも感じる。

「本当ですよ」

 答えたのは、尚記だ。

 房子は、房子が何かしらの返答をしようと思ったが、無理な体勢を長く取っていた為に、声を出すには、いつもより多めの空気が必要だった。

 房子がいつもより多く空気を吸っている間に、心外そうな声で尚記が答えたといった状況である。答えながらやっと房子を立たせてくれた。

「暗いけど、人通りのある所で襲う訳ないでしょう。転びそうになってたんですよ」

 暗くて、人通りが少なければ襲う可能性も有りますよ。とも取れる尚記らしい言い方だ。誤解を招くような言い方をしている事を気にもせず、尚記は抱き支えた時に乱れた房子の着衣を直して行く。

「何処か痛い所ありますか?」

 房子の周りをクルリと一周してから、最後に確認の質問をする。房子は首を横に振った。

 傍らで出番が来るまで控えて立っていた八崎は、尚記と房子の一連の行動を見届けたあと、ここが出所と言わんばかりに「分かってるよ、キミが襲う訳ないでしょう」と尚記に慣れたように言い、

「はじめまして、八崎と言います」

 房子に向かって正々堂々と言う表現をしたくなるような態度で挨拶をして来た。お辞儀の角度も分度器で測って合わせたように綺麗だ。

 下げた頭を元の位置に戻しながら八崎は

「えーっと」

 再び尚記と房子を交互に見て、紹介か挨拶を求める。

「あぁ、房子さんです」

 八崎の故意に忙しなく動かしている視線に気付いて、尚記が房子を紹介する。

「こちらは会社でお世話になってる八崎さん」

 続けて房子に八崎を紹介してくれた。八崎を紹介する瞬間、尚記は房子だけに分かるようように両眼をギュッと瞑った。要らない事は言うなよ?房子は無言の意思疎通を強いられた。

「どうも、房子です」

 房子もお辞儀をしながら名前だけを名乗った。心の中では尚記の過剰な警戒心に拍手を送っている。

 八崎が知りたいのは房子が何者であって、房子と尚記はどう言う関係なのか、であるはずだ。もしくは何故、二人はここに居るのか、など…ともかく房子の名前だけでは無いはずだ。なのに尚記は房子が余計な事を言うのを心配して、房子の名前だけで房子の全てが伝わるかのように紹介した。  

 八崎は調子が狂ったはずだ。現に八崎は房子から何かしら自己紹介があるものだと思って、名乗った房子の言葉の続きを待っている。

(言うものか、この女は好かん)

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2月22日にネコをひろう 神帰 十一 @2o910

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