第23話

 気にしなければ良いのに、と房子は思うが、尚記はあまり長いこと飲食店に居るのが耐えられる性格ではない。やたらとメニューを見て何か頼む振りをしたり、コーヒーのお替りを頼もうか迷っている。そんな尚記の様子を見て、また何処からか誰かに見られているような感覚もあったので、房子も落ち着いて居られなくなり、本当は暖かくて落ち着ける場所でまだ喋っていたかったが、仕方なく外に出た。

 喋っていたい理由は尚記に伝えたいことがあるからだ。

 房子の目的は尚記を独りにしないことである。生涯孤独と言うのは房子にとっては死と同等か、それ以上に恐ろしいことだ。歳を重ねるにつれその思いは強くなる。

 尚記にも出来るだけ早いうちに、誰か素敵な人がそばに居てくれるようになれば良い。もう結婚とか言う形式には拘らない。この前、尚記は非常に不愉快そうにしたが、本当に性別も厭わないとさえ思っている。尚記の死を看取ってくれる程の関係を築いてくれるのなら、どのような形態の関係性でも良かった。尚記と添い遂げてくれる人が出来たのを見届けてから死にたい。

 房子は尚記に必要とされている自負がある。だからこそ、尚記が孤独を必要としていたとしても、この房子の独り善がりかも知れない、尚記を孤独にしてはいけないと言う考えは 正しいと言える自信があった。

 

 尚記が一人暮らしを始めたのは、高校を卒業と同時に働き出してから、二年くらい経った時だったと思う。確か最初に勤めた所を辞めて、沢五郎の紹介で今の会社に入った頃だったはずだ。尚記は甘え過ぎだと思ったのかも知れない。沢五郎のコネで今の会社に入社するのと引き換えに家を出て行った。

 それ以来、尚記は殆ど顔を出した試しがない。一年に一度も顔を見せなかった年もある。社会人になったのだ。房子は小うるさい事は言わなかった。沢五郎とは工場で会う機会もあるだろう、それに尚記は大人しくて…頼り甲斐は無かったが、裕記のように破天荒な事はしないと言う信用もあったので放っておいた。何より、生きている時は裕記に対しても そうだが、絆があると信じていた。

 房子か沢五郎がいる限り、会わない日が死ぬまで続いても、尚記は決して独りでは無い。尚記はそう思ってくれるはずだ。そんな風に愛してきた。

 今は私達がいるから大丈夫、でも私達がいなくなった後、尚記を孤独から救ってくれる人が絶対に必要だ。


 尚記は女性に対して優しい。これに関しても房子は自信があった。いけない事だと感じつつも、女性への対応はどうしても自分好みに教育…調教かも知れない…してしまった。尚記達の反応には苦労させられたが、概ね房子の期待通り二人は育ってくれた。問題は尚記が孤独を愛してる事であり、本人がそれに気が付いていない事だ。

 尚記は誰かを好きになったりするし、独りを寂しいと感じる事もあるようなので、まだ房子の願いが叶う希望はある。

 それには独りが好きな尚記を愛してくれる女性が現れてくれれば良い。やはりどうせなら女性が良い。その為には尚記自身が独りでいる事を好きなのを自覚して、独り好きを曝け出さなければいけない。独りでいる事が好きな理由を含めてだ。

 

 手を繋ぐ尚記の爪が伸びているのを後で注意しようと思いつつ、房子はそんな事を考えていた。

 桜並木に来た時とは違い、房子の手を引いて尚記は前を歩いている。手を繋ぐ事に慣れてしまったのか恥ずかしがる様子は無い。房子は尚記の薄い背中が規則正しく上下に動くのを目で追っていた。何の特徴も無い普通の背中だ。とても誰かの死を背負っているようには見えない。そんな背中を見ていたら房子の頭に疑問がポッと浮かんだ。

 本当に独りが好きなのか?

 房子の思考はこの疑問が浮かんだ事によって一瞬停止した。それから疑問の核心の周囲をウロウロするように、ふたたび思考を動かし始めた。

 あの背中には両親が亡くなった交通事故で負った傷跡が残っている。その傷跡の理由を尚記はまだ勘違いしたままでいるだろう。

 尚記と裕記は事故が起きた時、車に一緒に乗っていた。尚記はショックのあまり、記憶が混濁したらしい。裕記は事故が起きた瞬間は寝ていたようなので、そもそも事故の記憶がない。しかし尚記は経験した事実をショックのあまり違う事実にすり替えてしまったのだ。

 房子と沢五郎は尚記の上書きされた記憶を訂正する事が出来ないままでいた。出来ないままズルズルと先延ばしにしていたら、このままでも良いような気さえして来ている。

 独りが好きなのか?大切なモノを失うのが怖いのか?

 房子が実の一人息子を亡くしたのは、房子が十分に大人になってからだった。子供を亡くす耐性などは無かったが、その時の房子の心は柔らかくも脆くも無かった。尚記と裕記が来た事も救いになり、心は知らぬ間に修復されていて、今では手を合わせる時に目尻を濡らす程度で済んでいる。

 房子は大切な者を失う怖さを知っている。それでも心が育ち切らないうちに受けた心的外傷が、人格形成に於いてどのような影響を与えるのか想像できない。想像が出来ない以上、尚記が独りで居る理由は、独りが好きだからなのか、それともその根底には大切な者を失うのが怖い、そんな意識があるせいなのか分からず、房子は尚記に導かれながら尚記の核心の周囲をウロウロするしか無かった。

  

 何周したのだろう?房子は尚記の核心の周囲を同じ道筋を辿って歩いていた。現実でも意識の中でも尚記が手を引いている。

 現実で半歩ほど先を歩いていた尚記が房子の方に顔を向けて

「やっぱり房子さんは黙ってると綺麗ですね」

 不意打ちを食らわせて来た。房子自身の教育の賜物とは言え、油断している所に突然言われると、こそばゆくなってしまう。房子はいつものように素早くリアクションが出来ずにいると、すぐに何も言わなかったせいだろう、いつもと違う反応の房子を心配して、尚記は房子に向けた顔を房子に近づける。辺りは顔をかなり近づけないと表情が窺えないくらいまで暗くなっていた。

「大丈夫ですか?疲れましたか?寒いですか?」

 たて続けに質問をして、房子が何かを言う前にグイッと房子を引き寄せる。頭を撫でるくらいのスキンシップは今でもするが、こんなに密着面積の多いスキンシップは、いつ振りになるだろう。房子は鼓動が早くなるのを感じて、その対象が実の息子のような相手であった為、倒錯しそうになった。

「あん、いけずぅ」

 犬に手を噛まれたら、無理に引き抜こうとせずに逆に突っ込め。その理屈の応用で、房子は自ら尚記に体を押し付けて行き、倒錯しそうになった気分を、努めて明るい方法で元に戻した。

「やめて下さいよ」

 ため息をつきながら、尚記が腰を逃して行く。

「元気じゃないですか、心配して損しました」

 腕も離そうとするので、それはさせまいと、房子は必死に尚記の腕を掴んだ。再び倒錯感を味わいたかった訳では無い。実際に寒かったし、最近歳のせいか鳥目がひどかった。尚記に手を引いていて貰うと安心だったのだ。

 房子の必死さから、完全におふざけでは無い事を感じ取ってくれたのか、尚記は腕を絡めておくのは許してくれた。が、房子がふざけて腰に手を回そうとすると、それは許してくれず、笑いながら先程と同じように腰を逃していった。房子の手は逃げる尚記の腰を追いかける。尚記は笑いながら腰を引く。じゃれ合う事に夢中になって、房子は考え事をしていたのを忘れてしまっていた。

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