第19話
二年前の八月二十四日、尚記と裕記は火災現場に居た。火災現場は裕記の住む所からすぐ近くのアパートだった。この数日前に尚記は裕記から電話をもらい、会う約束をしていた。裕記がわざわざ電話を寄越して、しかも裕記の部屋を会う場所に指定するのは、よっぽど良い事があったか、何か問題が起きたので手伝って欲しいかである。
良い知らせを期待しつつも、また面倒事に巻き込まれるのだろうな。そう半ば諦めて尚記は裕記の部屋に向かっていた。
裕記の部屋の近くの交差点まで来ると異臭がした。何やら焦げ臭い。最初、尚記は誰か焚火でもしているのだと思った。最近はマナーに反する為、この辺で焚火をする人は居なくなったが、尚記が子供の頃はあまり気にせずに庭先で焚火をしている家は結構あったものだ。今でもお爺さん お婆さんが昔と同じ感覚で焚火をしている時がある。今日は風も無く焚火日和りである。尚記は、そんな お爺さん お婆さんが焚火でもしているのだろうと思って、さして気にする事なくゆっくり歩いて交差点を曲がった。
交差点を曲がると数100メートル先に裕記の住むアパートがある。その手前に建っているアパートの二階の一室、その窓の隙間から煙りが昇っているのが見えた。(火事か)と思うよりも先に、煙りくさいのはアレのせいかと尚記は思った。そして野次馬がいるのを見て、(あぁ火事か)と思い至った。
アパートは鉄筋なのだろう、もしかしたらマンションなのかも知れないが、尚記はアパートとマンションの定義がよく分からない。裕記が住んでいるボロいアパートよりはずっと立派だったが、マンションと呼ぶ程の事も無いような建物だった。ただ鉄筋であり、防火設備はしっかり整っているらしく、燃え広がる様子はない。そもそも外から火の手は確認できなかった。窓の隙間からスーッと細く黒い煙りが出ているばかりで、付近の雰囲気に逼迫感が無い。
尚記はその先の裕記のアパートに行くために野次馬の集団の中を通過していたが、聞こえて来るのは、買い物に行きたいのだけれどこの場を離れて大丈夫かしら?などと言う会話である。そう言えばサイレンの音も聞こえない。
聞こえているのは、建物の中から薄っすらと聞こえて来る火災報知器の音だけである。その音も夏空の青の中に吸い込まれて行き、役目を果たしていないように聞こえた。
これだけ人が居て誰も通報していないのだろうか?それとも自動で通報される仕組みなのだろうか?そんな事を考えられるなら、尚記自身が通報すれば良いものを、尚記は自身を棚に上げ、訝しんで責めるように野次馬を見回した。
と突然、大きな破裂音がした。窓ガラスが割れ、先ほど黒い煙を細く吹き出していた窓から、黒煙が今度はドッと吹き出した。
「オーッ!」
野次馬は悲鳴では無く、歓声のような驚き声を上げる。
黒煙が勢い良く吹き出されたのを見て、尚記はその場を早く立ち去ろうと、裕記のアパートに足を向けた。しかし、もしかしたら裕記がこの野次馬の中に居るかも知れないと思い直した。住んでいる所から、ほんの数10メートル隣での出来事である。気付いていれば、裕記ならここに居ても不思議ではない。そう思った尚記は、今度は裕記を探す為に野次馬を見回した。
その時また、「オーッ!」と言う歓声が上がる。見ると、先ほど窓が割れて煙りが吹き出したせいで、視界が効かなくなっている一階の煙の中から、煤けた裕記が飛び出して来た。腕には少年を抱いている。
「トウ!」
尚記は咄嗟に裕記を呼んだ。尚記の声は届いたようだが、尚記が何処に居るか分からないようだ。
「トウ!こっちだ!」
尚記は自分から走り寄って行く。
裕記はこんな時なのに尚記を見て、爽やかにニカっと笑った。顔が煤けていたので、白い歯とのコントラストが強くなって、一層爽やかに見える。
「おぅ、尚記。久しぶり。この子ちょっと預けるわ」
裕記は状況を理解出来ない尚記に少年を預け、踵を返して戻って行った。
「バッ…おい!」
子供を見ると、色々と煤けてはいたが火傷はしていないようだった。中学生くらいだろうか。息はあり、ぐったりとしている。短く刈り込まれた髪は、地毛なのか、美しい金色だ。所々 灰を被ってしまっている。
気絶しているのかも知れない。尚記に受け渡された後も、目は閉じたままだ。目尻から流れた涙の部分だけ、一直線に煤が洗い流されている。
尚記はほとんど迷う事なく少年を壁にもたれかけるように座らせ、裕記の後を追った。
そのアパートは四階建てで、各部屋に行くには建物内の廊下を通っていかねばならないタイプのアパートだった。雨が降ったら鉄製のタラップのような階段が小気味良く雨音を響かせ、酷い時は部屋に着くまでに半身がずぶ濡れになってしまう裕記の安いアパートとは大違いだ。
造りがしっかりしているのだろう、防火性の素材や密閉性の高い建築方法の壁や天井は延焼を立派に防いでいた。しかしそのおかげで、と言うか、そのせいで二階の廊下は、煙突の中はきっとこんな風なのだろう、と思わせるくらい煙で充満していた。尚記はTシャツをたくし上げて口と鼻を覆い、裕記の走っている足音が聞こえる方に腰を屈めて走り出した。
火事が起きている部屋はすぐに分かった。
少し開いた扉から煙りが出でいる。その前に裕記が立っている。裕記は少しだけ開いた扉の隙間を気にしているようだ。上から下まで隙間の幅を確認した後、躊躇うことなく扉を開けた。
「裕記っ!」
尚記は素人考えでバックドラフトのような現象が起こるのではないかと思い、思わず叫んでしまった。爆発のような現象はおきなかったが、それでも今まで以上に大量の煙と、炎の赤い舌がチロチロと廊下まで伸びて来るのが見て取れた。裕記は熱気と煙をモロに浴びたはずだが微動だにせず、尚記を見て、
「なんだ尚記、付いて来ちゃったのか。あの子は大丈夫なんだろうな?」
尚記は煙で喋るのがやっとなのに、裕記は普通に喋る。
「裕記…お前…なにやっ……」
「尚記、俺行くわ」
裕記は親指を立てて笑って見せた。
尚記は熱くてそれ以上、裕記に近づけない。尚記の位置から部屋の中の様子は見えなかったが、既に火の海になっていると推測できた。裕記の親指を立てて見せた腕の皮膚は、真っ赤に染まり水膨れのような物が、後から後からプツプツと湧き上がるそばから破けて行く。Tシャツの裾は燃え始めていた。
「馬鹿!」
尚記が弟に掛けた最後の言葉である。
尚記は本当は「行くな!」と言おうとしたのに……何故か実の弟に、行って欲しくない気持ちが知られてしまうのに抵抗があって、素直に「行くな!」と言えなかった。
その瞬間、ケンに「逢いたい」と言えなかった時の後悔が蘇り、あらためて声を発するために息を吸ったが、煙を呑んで噎せるばかりだった。
裕記は「お邪魔します」とでも言うように、事も無げに炎が渦巻く部屋に入って行ってしまった。
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