第18話
訪問者は房子だった。
「ヒサァ、入れてぇ。雪が降って来たっけよう」
困ってる割には声が明るい。季節外れの雪にテンションが上がっているようだ。インターホンからの房子の声に黒飴が反応した。
房子は尚記の部屋の鍵を持っていたが、尚記がいる時は必ずインターホンを押した。尚記が居ない時でも部屋に入る時は、尚記に部屋に入る旨の連絡を入れてから入った。
黒飴は房子によく懐いた。房子の事が好きなようだ。好きな人には自分から寄って行き、喉をゴロゴロと鳴らして顔や体を擦り付ける。今もインターホンからの声を聞いただけで喉を鳴らし始めた。好きでも嫌いでも無い人の場合は、大人しく撫でさせはするが、自ら近寄ったりはしない。嫌いな人には体を触らせない。触ろうとすると牙を剥いて「触るな!」 威嚇の声を発する。沢五郎は嫌われた。高い高いされたのがトラウマになったのだろう。
予定外の房子の登場で、尚記は寂しさから解放された。雪は本格的に降り始めたが、尚記の部屋は日が差したように明るくなった。房子のテンションは高かったので晴れた上に虹が出たような雰囲気である。
尚記は房子が羨ましい。いつも明るく単純明快に見える。房子の個人的な性格によるものなのだろうか、それとも母親とは押し並べてこう言うものなのだろうか。出迎えた黒飴を抱っこして房子は、
「黒飴ぇ。久しぶりぃ。アメアメアメちゃーん、だけんども、今日は雪さぁ。雪が降ってるさぁ。ネコは炬燵で丸くならねばいけねぇ」
尚記の部屋に炬燵は無い。房子は部屋を見回し、
「なぁにぃ。あんた結局、こんなちっさなヒーターで越冬したのかい?私の為に炬燵は買うてくれなかったね…しかし本当に何も無くなってしもうた」
元々、男の部屋にしては綺麗だった尚記の部屋は、ほとんど何も無くなっていた。黒飴の為に片付けたのだろうが、房子はなんだか危うく思えてしまう。生活感が無いのだ。本当にこの部屋で生きている人はいるのか不安になってしまう。房子は黒飴を撫でた。黒飴は温かく、確かに生きている。
裕記が無くなった直後、房子も裕記の死にショックを受けたが、それ以上に尚記も逝ってしまうのでは無いかと心配した。尚記を心配する事で心を支えた。だが、杞憂だったのかも知れない。尚記は死に慣れてしまっているように見えた。
この子は大切な人を失い過ぎている。きっとこの子は違う価値観で世界を見ている。
房子は尚記と裕記を引き取ってから、だいぶ早い段階で理解者たろうとする事を諦めていた。房子自身の価値観がまともかと言えば、房子は「私は常識的でまともだ」そう言える自信は無かった。だが、集団の中で自分を無理なく主張しつつ、周囲に合わせて上手くやって行く自信はある。
尚記と裕記は違った。房子が育てたようなものだが、何と言うか、こちらが意図した入力とは違う形で出力が返ってきた。これは沢五郎の言葉だが、「あの子達はモニターにAを表示するつもりで、キーボードのAを押すと、シャットダウンするからな。OSがまるで違うんだ。それくらいの気持ちで接してやってくれ」
房子はパソコンに詳しくない。沢五郎の比喩は馴染めなかったが、二人と接してみてすぐに沢五郎が何を言いたかったか分かった。
アクセルを踏むと止まる、ブレーキを踏むと加速する。ならまだ良かった。何となく規則性が見つけられそうな気がする。この子達、特に尚記の方が顕著だったが、こちらがアクセルを踏むと、二人はボンネットを開いて見せた。
房子は二人の理解者にはなれない事を悟り、その代わりに二人には理解者が居なくても生きて行けるように、誰に理解されなくても、人と違うその心は稀少な故に大切にしなければならない物だ。そう教えて来たつもりだ。
房子から見ると兄弟のうち尚記の方が内向的で繊細だった。裕記も内向的な面は多分にあったが、活発でよく行動した。女友達も沢山連れて来た。尚記は40歳を超えて未だ独身だ。最近では珍しく無くなったとは言え、その人達は独身でいる生涯設計を立てた上で独身でいるのだろう。尚記の場合、独身でいる理由が不安なのだ。独身でいようと決めた訳でも無く、特に理由も無さそうに独りでいるのが不安だった。しかも最近、心に宿った人は既婚者だと言う。人を好きになるにはなるが、その先を考えていないように見えてしまう。
弟の裕記は離婚したとは言え、一度は結婚して10年は続いた。だから何だと言うわけでは無いが、少なくとも裕記は他人と一緒に生活が出来る心のゆとり、朗らかさがある。
尚記も穏やかだ。声を荒げる事は滅多に無い。しかし房子からすると、その穏やかさは極めて微妙なバランスの上で保たれているように見える。穏やかでいる事を維持する為に、とても気を張っているように見える。尚記が一生懸命バランスを保って生活している中に、他人がはいり込む余地は無いだろう。
房子はそう考えて思い直した。
尚記は心の余地の部分にしか他人を招き入れないだろう。それでは彼女になる
頭の中ではそんな事を考えつつ、手は黒飴とじゃれあい、口では尚記と黒飴の近況に探りを入れて、目は部屋の様子と、尚記の行動を観察する。房子にとっては当たり前の事だった。見ていると尚記は一度、冷蔵庫の中のスポーツドリンクを房子に出そうと、手に取ったが止めて、今は紅茶を出す為にお湯を沸かしてくれている。
冷蔵庫を開けた時、チラリと中が見えたが、ガラガラだった。どうせ碌なものは食べていないはずだ。房子はそう勝手に決めつけ、乗って来た車の中に食料が入っている袋がある、私は黒飴の相手で忙しいから取って来い。と尚記に命じた。案の定、尚記は迷惑そうな顔をしたが、
「あにぃ?あんたは忙しいんかい?今日」
食糧をくれてやるのだ。四の五の言わずに取って来い。
房子は高圧的に出る事で、「食糧を貰っている」そう感じてしまうかも知れない、尚記の申し訳なさを緩和してるつもりである。更に黙って車の鍵を差し出して、これは房子が決めた事で、尚記に選択肢は無い、貰うしか無かったんだと言う事を印象づけた。
尚記は「特に無い」とかなんとか、口の中でモゴモゴ言いながら、紅茶と房子の車の鍵を交換して、大人しく食料を取りに行った。
房子は高圧的に出る事で、尚記が「今」忙しいかどうかでは無く、尚記の「今日」の予定が空いていると言う情報を手に入れた。
普通に今日の予定を聞けば、「えっ?なんで?」とか言って来そうである。
房子が今日ここに来たのは、顔を見せない尚記に業を煮やしたからだ。尚記もいい大人なので今までは放っておいたが、ネコを飼い始めた。どうせ…という言い方は無いが、房子が尚記に対して心配しているアレコレと比べると、どうせ子ネコの世話に付きっ切りなのだろう。ならばこちらから出向いてしまえ。それが房子の性分だった。それに房子も黒飴に会いたかった。
黒飴を飼う時に、尚記は自分の部屋の鍵を房子に渡してきた。尚記が昼間いない間、たまに黒飴の様子を見て欲しいとの事だった。
房子は尚記の部屋に自由に出入り出来る様になり、いつ来ても尚記のキッチンのシンクが汚れていた事が無いのに驚いた。尚記がきちんと自炊をしているなら、専業主婦でも難しいレベルで家事をこなしている事になる。房子は自らの沽券に関わるような気がして、尚記は料理をしていないと決めつけていた。
今日は来たついでに、何日か分の保存の利く料理を作っておこうと思っている。チラッと見たところ調味料は一通りあるようだ。調理器具も一通りある。房子は勝手に決めつけた尚記像が早くも崩れて行く音が聞こえた気がした。もしかしたら尚記はちゃんと自炊している可能性がある。しかし房子はその可能性を強引に握り潰した。尚記が自炊していようがいまいが関係ないのだ。私が作ってやりたい。
「ね、それで良かよね?」
房子は黒飴に問いかけた。
食材の入った袋と、房子のオーダーには無かったダンボールを抱えて、尚記は戻って来た。
「房子さん、このダンボール、裕記の荷物ですよね?ボクに渡すつもり持ってきたんでしょ?勝手に車から持って来ちゃいましたけど…」
「あぁ!そうそう、忘れてしまっていたわ。
まだ、もう何箱かあったでしょ?全部そうだから持って来てぇ。おばさん、ちょっと料理しちゃうから」
「えっ?料理ですか?」
「えっ?ナニカ、モンクアル?」
軽い威圧を含んだ房子の言い方に、再び尚記はモゴモゴと「特に無い」とかなんとか言いながら、雪の降りしきる中を駐車場まで戻って行った。
それから二往復、二箱ずつ。食材を持って来た時の一箱と合わせると、計五箱のダンボールが尚記の部屋に並んだ。黒飴は隙あらば入ってやろうと目を輝かせている。
「ねぇ、これ、この中」
房子は料理の下準備が終わり、区切りのついた手を拭きながら、【本・ノート・書類】と書かれたダンボールを開けて中から数冊のノートを取り出した。
それは黒飴を初めて沢五郎家に連れて行った時に尚記が読んだ、裕記の備忘録のようなノートだった。あの時は黒飴の救出の為に全部を読んだ訳では無かったのだった。
「あんたが、その子を連れて来た日に、あんた等が帰ったあと二階に行ったら、これが読みかけのまま置かれてあったんよ、ゴメンナサイしながら、ちぃと読まさせてもらったけど、これはあれかい?裕記の日記かい?」
尚記は、どうやら裕記は小説のような物を書いていたらしく、ノートには事実と虚実が入り乱れて書かれてある事を、房子に説明した。
「事実も書かれてあるんかい?そしたらアレかい?裕記が…裕記が居なくなった日の前後の事も何か書いてあるんかい?」
後の事は書かれていないだろうが、探せば亡くなる直前の数日間に、何があったかは書かれてあるかも知れない。
ただ書かれてあったとしても、書かれている内容が、あの日、裕記が何故あのような行動を取ったか、その理由の解明に繋がる事が書かれているかどうかは分からない。それよりもまず、あの日、八月二十四日に一番近い日付けを見つけ出すのが一苦労だ。裕記は日付を順番にして書いてくれていなかった。
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