第17話

 黒飴に相手にしてもらえなかったので、尚記はなんだか独りでいる事が無性に寂しくなった。同時に八崎に逢いたい想いが強烈に込み上げてきた。

 『逢いたい』

 この涙が出そうになるほどの想いを何と呼べば良いのだろう?今までに経験した事が無い強い感情だった。初めての感情に相応しい言葉を尚記は自分の中に探したが見つけられない。そこには尚記の強い感情とは、かけ離れたように思える「雪」があり、言葉はその雪のした深く眠ってしまっている。

 黒飴を拾ってから数日後、尚記は自分の気持ちを八崎に伝えていた。その時も自分の気持ちを「好き」と呼ぶのかどうか分らなくて、婉曲な言い回しをしてしまった。

「あなたの事を大切に思うんです」

 自分の気持ちを言い表すには程遠かったが、尚記の気持ちを言い顕せられる精一杯の表現だった。

「えっ?それは好きって事?」

 八崎は婉曲だった表現を率直に言い直した。率直に言い直された事で尚記の気持ちとは、かけ離れてしまったが、尚記は他に言葉を持たない。頷くより他に仕方なかった。

「ないないない、だって私、結婚しているもの」

 尚記は「結婚していなければチャンスはあったって事ですか?」そう聞きそうになったが、それも「ないないない」と三回も否定されたら挫けてしまいそうだった。

「分かってます。気持ちを伝えずに後悔するのが嫌だったんです。困らせてすいません」

 謝る事で会話を終わらせようとした。

 八崎は強く否定した事を申し訳なく思ったのか「気持ちは嬉しいけど…」尚記の好きな困った表情をして、足の力が抜けたように尚記の前の椅子に座った。

 そこまで思い出した時、突然頬に冷たい風が触れた。先ほど開けた窓がそのままで、そこから時期外れの冬が入って来ている。黒飴が居なくなった窓辺は空疎で、もの悲しかった。もとから八崎は居なかったのに、何かしら大切な物を失ったようにカーテンが虚に揺れている。

 この部屋の窓辺に八崎が立っていた事など無いのに、尚記は八崎が窓辺に立っていた思い出を辿るかのように、窓の近くに寄ってガラス戸を閉めた。

 窓辺に近づくと、もう一度、八崎を背後から抱きしめる場面が思い起こされたが、八崎を抱きしめているのは尚記では無くて、顔の知らない八崎の旦那であった。その時、尚記は生まれて初めて味わう激しい劣情が体に走ったのを感じた。

 こちらも今までに経験した事が無い強い感情だったが、尚記は…尚記の肉体はこれが劣情である事を尚記に教えてくれた。

 劣情は走り抜けず、尚記の中で周回して尚記を掻き乱す。尚記はしばらく動けなかった。 

 誰かに嫉妬をすると言うのも、こんなに明確に味わったのは久しぶりだった。今まで付き合ってきた女性は何人かいたが、付き合った女性の近くに、たとえ寄り添うように異性が居ても、このような嫉妬をした事は無かった。

 別にその女性達と適当な気持ちで付き合っていた訳では無い。尚記の中では出来得るかぎり、皆と誠実に向き合って来たと思っている。ただ尚記はそもそも淡白で独占欲が少ない。今、生まれて初めて味わった激しい劣情や嫉妬が、愛に拠るものだと言って良いならば、今まで付き合って来た女性に対して感じていた愛は、黒飴を愛しく思う気持ちと同じようなものだったのかも知れない。 

 穏やかで居心地の良い愛。女性達は皆、穏やかなだけでは物足りなくなってしまったのか、尚記の元から離れて行ってしまった。

 

 持て余す八崎への想いの理由を考えていて尚記は気が付いた。そう言えばこれまで、自分から人を好きになった事は一度しか無かった。八崎で二人目か。

 一人目は一目惚れだったが、結局その女性に想いを伝える事は無く、付き合う事もなかった。なので尚記が付き合って来たのは全て、相手に好きになってもらい、相手の気持ちを受け入れた形によって始まる付き合いだった。

 尚記は生まれて初めての告白を既婚者にした事になる。

 

 八崎と出会った時 尚記は何も思わなかった。出会った時の記憶が曖昧なので、何の興味も持たなかったのだと思う。ただ目の前に事務員がいて、尚記にとっては必要な事務手続きをこなしてくれる人だった。人で無しな言い方をするなら発券機のように思っていた。

 年に一度、車両通行許可証を発行する為に尚記は八崎と…発行手続きをしてくれる事務員と会う機会があった。

 尚記が免許を取ったのは30代に入り何年か過ぎた後だった。車に全く興味が無く、車の任意保険は任意なんだから入らなくても良いだろうと思っていたくらいだ。入らなくても罪に問われる事はないが、会社は通行許可証を発行しない方針であった。

 初めて通行許可証を取る時、

「沢田さん、任意保険にご加入頂かないと、通行許可証が発行出来ませんよ?」

 そう言ったのはたぶん八崎だったと思う。

その時は車以上に、対応してくれる事務員に興味が無かったので覚えていない。

「なぜ?」

 尚記はそう問い返した。

普通の事務員なら「会社の規則ですから」で済ませそうな物だが、その事務員は丁寧に説明して尚記を納得させた。だから八崎だったのでは無いかと思うのだ。

「沢田さんは絶対に事故を起こさない自信がありますか?沢田さんが起こさなくても、他人の不注意で起こる事故を回避出来る自信がありますか?」

 それから八崎だと思われる事務員は、事故が起きた時に自賠責保険だけでは保障が間に合わない事を説明し、不足している保険だけに入っている人には、通行許可証が発行出来ないという流れで尚記に説明してくれた。

 その事務員が八崎だとしたら、少し丁寧に説明をしてくれる発券機。初めての印象はその程度だ。

 そう考えて、尚記はなぜ、そしていつ、八崎を好きになったのか記憶を辿ろうとして、記憶を手繰る時の癖で遠くを見た。窓の外ではいよいよ雪が降って来ていた。

 雪だ、やはり雪がある。尚記が雪を感じたとき、インターホンが鳴った。

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