3月29日に雪が降る

第16話 3月29日に雪が降る

 それから一ヶ月くらいが過ぎた。黒飴は元気に育った。元気過ぎた。尚記の部屋にあった割れやすい物は、きちんと片付けておかないと悉く黒飴に壊された。壁紙は見るも無残な姿になり、尚記は敷金を心配した。

 後手にまわってしまったが、尚記は爪研ぎとトイレはしっかり躾る事にした。黒飴はすぐに爪研ぎとトイレだけはしっかり覚えた。しかし後はもう自由だった。尚記も後は放置することにした。ネコの本来である自由気儘な姿を、人如きがどうこう出来るわけが無いのだ。せっかく分解して持って来たゲージの、脱走しないように苦労して取り付けた扉はいつも開放されており、ゲージは黒飴が自由に行き来できるジャングルジムと化した。

 黒飴のおかげで尚記は部屋をきちんと片付けるようになった。片付けて置かないと黒飴が全てを破壊して行くと言うのもあったが、黒飴の誤飲を防ぐ為でもあった。

 部屋はどんどん綺麗になって行く。黒飴に限った事では無いと思うが、ネコは隙間を見つければハマる。特に子ネコのうちはあり得ない所に嵌ってそのまま寝てしまうので、最初のうち尚記は帰宅してから黒飴を探すのが日課になった。閉じ切らなかった引出しの中、開けっぱなしにしてしまった電子ジャー、戻し忘れた一冊の本のスペース。探すのが大変だった訳では無いが、すぐに見つけられないと、探してる間は何処かへ逃げてしまったのではないかと心配になる。その心労を何度も味わうのが嫌だったので、尚記は不必要な物をどんどん捨てて行き、部屋になるべく物を置かないようにした。

 不必要な物を捨て、部屋が綺麗になると、尚記の気持ちもなんだか軽くなったような気がした。囚われていた重い過去よりも、今 やんちゃに軽快に走り回る黒飴に夢中に成らざるを得なかったからだろう。房子も尚記達を引き取った時はこんな感じだったのかも知れない。

 最初のうちは日課だった黒飴探しも、最近は段々と探さなくて良い日が増えていった。黒飴の活動時間が伸びたのか、眠りが浅くなって来たのか、黒飴は尚記が帰ると「わたしを放って、何処へ行っていたのだ?」そんな風に出迎えてくれるようになった。

 ネコがこんなにも意思疎通が図れる動物だったとは…これまでネコを飼った事の無かった尚記は驚いた。黒飴は好きと嫌いをハッキリと主張し、尚記の気分をちゃんと読み取って、二人の距離感が居心地の良い物になるように振る舞ってくれている。尚記自身がそう思いたい。そう言う人間のエゴでは無いと言い切れた。

 たとえば尚記がPCで作業している時に、たまに黒飴は「遊んでぇーよ。遊んでくれないと…」 わざわざキーボードの上に寝そべり…他にスペースは沢山あるのに、わざわざキーボードの上なのだ…グーにしたような前足をペロペロ舐め、この前足で何をしてやろうかな?そんな風に尚記を見る事があった。しかし、尚記が本気で忙しい時は、尚記の様子を見て離れて行ってくれた。尚記にはそれがとても不思議だった。

 尚記は他人から良く、何を考えているか分からないと言われる。ケンにも能面のようだと良く言われた。楽しいのか、悲しいのか、怒っているのか分からないと…

 尚記自身は黒飴に「どいてくれよ」と言う時、忙しくても忙しくなくても態度を変えていないつもりだ。なのに黒飴は尚記の微かな違いを察知して立ち去って行く。

 そう言えば動物は無駄な争いをしないと聞く。もしかしたら人よりも心の機微を察する能力に長けているのかも知れない。それが異種間同士でも通用する物なのかは分からないが…

 尚記は今まで描いていたネコへのイメージを変えなければならなかった。黒飴が「ネェ」とか「ナァ」とか、まるで呼びかけるように鳴いて、尚記を見上げる時、そこに居るのはネコでは無くて…ネコなのだが…意思のある一つの小さな命と向き合っている。と感じた。


 窓辺に見えているあの黒いのは、黒飴の本体の方だろう。外から入る光の角度から言って、黒飴の影であるならもっと窓際の下の方に伸びているはずである。週末、遅い朝食。いわゆるブランチと言う物を摂り、尚記は朝からずっと窓辺に座って、外を見ている黒飴を目の端に捉えてそう思った。

 黒飴は本当に黒い、影と良く見間違う。毛に光沢が無く、まるで光を吸い込むかのような黒さだった。尚記はベット脇に脚の短いテーブルを置いて、その下に黒い斑模様のカーペットを敷いていたが、黒飴がそこで寝そべると、間違って踏んでしまいそうになるので敷くのを辞めた。

 黒飴を飼うにあたり、多少の出費があった。次のカーペットが買える予算の都合がつくまでは、このまま過ごそうと尚記は決めている。

 三月なのに床に直接ついたお尻がしんしんと冷える。一週間くらい前からチラホラと桜が咲き始めていた。本当なら今日 明日の休みで愉しもうと思っていた人は多いはずだが、生憎あいにく 天気が悪くて寒い。果たして皆どうするのか。

 尚記は遠赤外線の小さなファンヒーターのスイッチを捻って、黒飴の愛しい背中を見た。無防備で丸みを帯びた、一見すると野性を忘れてしまったような背中だが、そのじつ恐ろしく俊敏に動く。今は背後に尚記しか居ないので、完全に気を抜いている。尚記はそれがまた堪らなく愛しく思えた。

 「飴」

 尚記は我慢し切れなくなって、つい声に出して呼んでしまった。本当は一人の…一匹の時間を邪魔したくはない。黒飴と名付けたが、実際に呼ぶ時は結局、「飴」と略して呼んでしまう事が多い。黒飴は振り返ることなく返事をした。窓の外に興味を引く物があるようだ、「なに?ちょっと待って、いま目が離せないの」と言っている。

 ふと、尚記は八崎のことを考えた。

 休日、もしも自分と八崎が一緒の部屋にいるような関係であり、あんな風に八崎が窓の外をいつまでも眺めてるのを見たら、尚記は後ろからそっと近寄って、抱きしめてしまうだろう。そして八崎が何を見ていたかを教えて貰うのだ。

 黒飴の背後からそっと近づいて、何を見ているのかと窓の外に目をやると、雪が降っていた。どうりで寒いわけだ。桜と雪の取り合わせはさぞ風情があるだろう。黒飴にとっては生まれて初めて見る雪ではないだろうか?

 近づく尚記に気付いていた黒飴は、ちょうど良い所で振り返り、「あれは何?弱そうだけど、危害を加えてこない?」生まれて初めて見る雪の正体を知ろうと、尚記を見て鳴いた。それまで黒飴に八崎を照らし合わせていた尚記は、黒飴は黒飴だった事に気づき、「ごめん、ごめん」と謝って、黒飴の肩甲骨あたりを五本の指でつまむように撫でた。

「雪だよ」

 外の空気を体験させてみようと、黒飴が出れない程度に窓を開けた。黒飴は隙間から入り込む冷気と雪の匂いをスンスンと嗅いでいたが、やがて「寒い」急に興味を失ったように ストンと窓枠から降りてベットの定位置で丸まってしまった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る