第14話

 玄関に置いてある尚記の靴に気が付いたのだろう、沢五郎は、

「なんだぁ、ヒサが帰って来てるんか?」

 自身の姿よりも、声だけを先に台所へ立たせた。

「お邪魔してるよ」

 尚記が台所から、こちらも声だけで答えると、

「お前は、帰省の挨拶が間違えてるって、何回言うたら分かるんじゃ」

 靴を脱ぎながら言った。

「しかし、相変わらず辛気臭い顔だなぁ」

 まだ玄関先で靴を脱いでいる途中である。尚記の顔を見ていないのにも関わらず、そうやって適当な事を沢五郎は言った。いつもの事である。

 それを聞いた尚記は、台所で精一杯変な顔をして、

「まだボクの顔、見てないでしょうよ」

 沢五郎がどのような反応をするか、想像しながら待ち受けた。

「見てなくても、分かるっつーの。どうせフラれた後のションベン垂らしたガキの…」

 口の悪い事を言いながら、廊下を歩いて来た沢五郎は、台所の入り口で変な顔の尚記を見ると、

「下手くそ」

 そう言って、手本を施すために変な顔をしてみせた。尚記は降参したように笑った。

 沢五郎は勝利の報告をする為に…二重の意味での勝利の報告になるが、

「おう、房子ぉ」

 大抵の事は呼びかけるだけで、通じるらしい。沢五郎は今日のパチンコの戦利品を手渡した。代わりに房子は、尚記の紅茶を沢五郎へ渡し、沢五郎は、お前も良く健闘したな。とでも言うように、尚記に紅茶を渡してくれた。

「五郎さん相変わらず勝ってるみたいだね」

 沢五郎は二年前に会社を退職した。退職してからは趣味のギャンブルに磨きをかけて、ほとんど負ける事を知らない。元々負ける事は少なかったが、今やその勝率は100%に近い。

 尚記は家では沢五郎を、ただ五郎と呼び、会社では沢五郎と呼んでいた。

 尚記の会社には何故か、「ゴロウ」と言う名の人が沢山いる。そのほとんどが五人兄弟ではない。吾郎だったり、悟郎、呉郎、護郎だったり、下らないダジャレを言いたくなるほど沢山いた。

 それらの「ゴロウさん」は区別し易くする為に、大体に於いて沢五郎のように、苗字の一字とくっ付けて、◯ゴロウさんと呼ばれる仕来たりが、会社の中でいつの間にか出来あがっていた。更に良くある稀なケースで、苗字まで一緒の場合は、そのゴロウさんがいる部署や工程の名称の文字を頭に加えて、例えば庶務に五郎さんがいたとしたら、庶ゴロウさん。製品を圧着させるプレス工程にいたらプレ五郎さん。そんな具合に呼ばれていた。


「あたぼうよ」

 次男であるのに、五郎と名付けられ、父親の代わりであるのに、息子のような尚記に他人行儀よろしく五郎さん、と呼ばれた男は威勢良く答えた。

 沢五郎は尚記と裕記に、お前らの本当の両親は交通事故で亡くなった両親であり、自分達は仮の両親であると言う事を、何かある度に言葉で態度で示し続けた。

 最初のうち尚記はひとり息子を大事に思う房子の気持ちを慮って、沢五郎はそのような態度を取っている物だと思っていたが、どうやら違うらしい。    

 と言うのも裕記が房子の事を母さんと呼ぶのは咎めた事がないからだ。どうやら沢五郎自身の中に思うところがあって、尚記兄弟に「父」やそれに類する呼び名で沢五郎を呼ばせたくなかったようだ。

 尚記が推測するにそれは、亡くなった尚記の父、つまり沢五郎の兄にあたる一記との兄弟関係に理由が有るのではないかと思われた。沢五郎は自ら率先して一記の話しをしようとした事はないし、尚記が父の事を聞こうとすると、沢五郎は、話すには話してくれたが、いつもの触れれば弾ける鳳仙花の如き反応の早さは失われ、何かしら歯切れの悪い、棘まではいかないが、しこりがあるような話し方になるのだ。

 尚記と裕記の間にも、兄弟にしか分からない距離感があったように、一記と五郎の間にも他人が触れてはいけない繊細な、けれども繊細な故に断ち切れない絆があったのだろう。

 ともかく、父と呼ばれる事を禁じられた尚記は、沢五郎の事を家では五郎さんと呼び、房子の事を、房子だけを母さんと呼ぶのには抵抗があったので、房子さんと呼んだ。そして弟の裕記は、叔父貴と母ちゃん、大きくなってから母さんと其々を呼んで慕った。

 

 「あたぼうよ」と言いながら、キッチンテーブルに着いた沢五郎は、土鍋の中の子ネコに気付き、「わぁ!」っと言って驚き弾けた。

「なんじゃ、こりゃ!今日の昼飯かい?」

「止めてよ、冗談にしても面白ないし。ヒサが拾うて来たんよ。飼うからヒロの荷物の中のネコ道具持ってく言うて来た。あんた、この子、婚期を更に逃すわ」

「おぅ、おう、そうか、男は自分で引退を決めるまで現役だから大丈夫だ」

 沢五郎はその話題から逃げるように、自分の上着の胸ポケットからスマートホンを、鞄からはパッドを取り出して、それぞれを右手と左手で操作し始めた。それを見た尚記は「百の資格を持つ男」そんな通り名は、沢五郎を表すには不足だろうと思った。見ているのはたぶん、競馬か競艇の情報、もしくはパチンコの攻略サイトだろう。神様は沢五郎に才能の使い方の才能を、与え忘れたのか、忘れていないのか、平凡な尚記には分かる由もなかった。

 尚記が感心しながら沢五郎の様子を見ていると、横から、

「あんたご飯は?」

 房子が沢五郎に問いかける。

「おう、要らん」

 沢五郎は肯定して否定する。対して房子はお好み焼きを四分の一だけ皿に載せて、沢五郎の前に置いた。沢五郎は「要らん、と言っただろう」と言う事も無く、パッドをいじっていた右手で、お好み焼きをほとんど見ずに食べ切った。

 尚記は家を出るまでは、この光景を何の疑問を持つ事なく見ていた。気にも留めていなかったので、見てもいなかったのだろうが、たまに久しぶり帰って、この様な遣り取りを見せられると、どれだけ巧妙な呼吸の上でこの遣り取りが成り立っているのか計り知れず、ひとつの奇跡を見せつけられたような気分になる。

 

 お好み焼きを食べ切った沢五郎は、まだ口が寂しかったのか、二つの端末を交互に見ながら、口に物を入れる代わりに、今度は言葉を外に出してきた。

 それは先刻、房子が尚記を出迎えた時の説教と似た内容の文言だった。

「それにしてもヒサ、お前もうちょっと顔出せんのかい?俺や房子はいいけど、親やヒロの仏壇もここにあるんだぞ?いったい誰に育てられたら、そんな薄情に育つんだ?」

 房子が沢五郎には日本茶を持ってきた。沢五郎はそれを受け取りながら、

「俺か」

 一人で質問し、一人で受け答えて会話を進めて行く。

「そうか俺か、それは謝る。でも、もしもお前が俺の育てた尚記くんなら、もう少し頻繁に顔を見せているはずだが、そうしないお前はだれだ?」

 今度は尚記の答えを待っている。

「尚記です」

 尚記はいつものように沢五郎の会話の流れにノッた。

「どの?俺の育てた?」

 言外には尚記か?と続くのだろう。

「はい、そうですよ」

 わざと呆れた含みを持たせて、尚記は答える。

「あれれ?あれれのれ?おかしいな、おかしいな、俺の育てた尚記くんならもうちょっと義理堅いはずだけどな」

 沢五郎は本気で言っている訳ではない。やっている事はギャンブルの情報収集だ、口寂しいから片手間に軽く小言を言っているだけだった。

 尚記はもう少し引っ張って、沢五郎の口から何が弾き出されるか聞いていたい気もしたが、ひとまず裕記の荷物を確認してしまいたかった。

「分かりましたよ、スイマセンでした。これからもう少し顔を出すようにします」

 沢五郎の後ろでニヤニヤしながら聞いていた房子が助け舟を出してくれた。

「ヒロの荷物は二階の、昔あんたらが使ってた部屋に纏めてあるわ。でも、他の荷物もあるから、盗んで行かんでな」

 房子はちょっと迷ったようだったが、尚記と一緒に二階に行く事にしたようだ。

「おいで」

そう言って尚記を二階に促した。

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