第13話

 早退した足で、子ネコを連れたまま尚記は沢五郎家へ向かった。

 沢田 五郎、尚記の父親の弟。尚記の叔父。

 

 尚記と裕記の兄弟は小さい頃に両親を交通事故で亡くした。沢五郎夫妻は小さい息子を交通事故で亡くした。

 沢五郎は、息子を一人失ったら、二人になって帰ってきた。剛毅に笑って、当然のように二人を引き取った。養子にはなっていない。

 沢五郎の奥さんは房子と言った。ひとり息子を失ったこの人の気持ちが、尚記と裕記を養子として迎えいれるのを拒絶した。

「あんたら二人は、それはもう可愛くて、可愛くて、いたずらで、ドジで、甘えんぼで、毎日が楽しくて、あの子を亡くした悲しみなんか、あっと言う間に何処かさに行てもうたよ。だから、あんたらを養子に迎えてしまったら、本当にあの子の事を忘れてしまうんじゃないか、思ってな」

 裕記が成人した日、お酒を飲みながら房子は養子に出来なかった理由を、二人にそう話した。養子にしない房子の事を二人は不信に思っているのではないか?房子は後ろめたい思いを、区切りの良い日に降ろしてしまいたかったらしい。

 尚記はそんな話しを聞かなくても、房子には引き取られたその日から全幅の信頼を置いていた。

 

 沢五郎に連れられ初めてこの家に来た日、「今日からお前等の家だ」そう言って、沢五郎が玄関の引き戸を開けると、房子が上がり框の前で正座をしていた。

「おう、房子、こっちが尚記でこっちが裕記だ」

 初対面では無かったが、沢五郎が形式的に二人をそう紹介して、尚記と裕記が何も言わずお辞儀をすると、房子は声を張って宣言した。

「あんたら二人を実の子供のように愛せるかは、よう分からん。でも絶対に幸せにしてやるから安心し」

 尚記はそこでやっと両親を失った不安から解放され、涙ぐみながら「よろしくお願いします」と言い、裕記は房子の覇気が伝播したのか、

「おばさんが、愛してくれなくても、俺がおばさんを愛してやるから安心し!」

 元気いっぱい、空っぽの頭に言葉が響き渡っているかのように答えた。

 房子は笑って「母ちゃんじゃ」と言いながら、片手で裕記の頭をグシャグシャと撫で、もう片方の手でそっと尚記の頭を自分の肩に引き寄せた。


 尚記がネコを連れて沢五郎の家に着いたとき、主人の姿は無かった、代わりに主人より偉い房子が尚記を出迎えた。房子は尚記の顔を見るなりこう言った。

「ちぃとも顔を出さんと思うてたら、なんも連絡せんと突然きて、あんたんとこは皆、死にやすいから、あんたもくたばったかと思うてたよ」

 尚記は頭をしたたかに叩かれた。軽口を言っているが、裕記が亡くなった時、一番悲しんだのは房子であったと思う。

「五郎さんは?」

「何しに来たん?」

 ここでは房子が中心である。房子が質問した以上、たとえ尚記が先に質問したのであっても、尚記は房子の質問に答えなければならない。

 尚記は裕記の持ち物の中に、ネコを飼う為のあれこれが無かったか聞いてみた。

「はぁ!あんたもネコ飼うんかい?あぁ、こりゃもう駄目だ。その歳で可愛いネコちゃんなんか飼いだしたら、こりゃもう絶対、結婚なんか出来ないわ。わたしはねぇ、可愛い赤ちゃんが見たいの。ネコちゃんじゃなくて…」

 房子はダミ声でそこまで言って、尚記の上着の胸元から顔を出した子ネコに気付いた。

「あら、可愛いネコちゃんねぇ」

 今度はネコ撫で声で、あっと言う間に尚記から抱きあげる。

「どうしたのぉ?ママはぁ?お腹は空いてるぅ?どこにいたのぉ?仕事じゃないのぉ?」

 どこまでが子ネコへの質問で、どこからが尚記への質問なのか分かりくい。

「病院はぁ?あんたのお腹はぁ?」

 房子は調子を変える事なく、返事など期待していないのだろう、歌うように質問を重ねながら、子ネコを台所へ攫って行った。尚記も靴を揃えてから房子の後について行った。 

 この家は何故かいつも新木の香りがする。

 尚記が台所に入ると、房子は土鍋の中に布巾を何枚が敷いている、その中で子ネコを寝かしつけるつもりなのだろう。

「あの人はぁ♪パチンコよぉ♫」

 歌ってるような調子が気に入ったらしい。

てっきりこちらの質問なんか聞いていないのかと思っていたら、しっかり聞いていた。


「房子さん」

 呼びかけたきり尚記は、何も言えず房子を見ているだけだ。

本当は先ほど房子が何気なく言った、「赤ちゃんが見たいの」を注意しようと思ったのだが、房子は実の息子を小さい頃に亡くしたのち、子供を授かれない体になった。その言葉に苦しむ人がいる事を身を持って知っているはずだ。

 尚記は迷った。房子も尚記と一緒で思ったことは口にする気質だ。房子の気質に尚記が影響されたのかも知れない。二人とも思った事は口にするが、かと言って誰彼構わず言っている訳ではない。特に尚記は自分の性分を知っているので、そもそも誰彼構わず話しをする訳ではない。しかし房子は尚記と違って、、よく喋る。

 先ほどの言葉が、本当の意味で何も考えずに口に出した一言なら、それは注意をしなければならないと思うのだが、しかし…

 尚記は自分の注意が、房子の「赤ちゃんが見たいの」それと同じくらい、繊細な物であると感じていた。注意するなら房子の傷に触れる覚悟をしなければならない。

 黙っている尚記に痺れを切らしたように、房子が声を上げる。

「気ぃにし過ぎや、ちぃと見ぬまに他人にでもなったんか?ヒサにしか言わん。

ヒサだから言うたんよ。ヒサも遠慮無く、物もうせ」

 房子は優しく子ネコを土鍋の中に座らせた。

 そこまで分かっているなら、分かられているなら。何も言う事はない。尚記も黙って椅子に座った。


 房子がゆっくりと子ネコを撫でると、子ネコは土鍋の中で落ち着いた。

「お腹、空いてますね。なんか有ります?」

 結局、尚記は昼休み中ずっと、子ネコがどうしたら退社するまで安全に過ごせるか思案し、ダンボールの仮住まいを改良したり、どこかに隠して置いておける良い場所はないか探したりしていたので、お昼を食べ損ねた。お昼を抜いて頑張ったが、どうにもならなさそうだったので早退した。

 房子は冷蔵庫の前で一回転してから、扉をガバッと開けた。尚記が久しぶりに帰ってきたから、テンションが高い訳ではない。多少の影響はあるかも知れないが、尚記の知っている限り房子はいつもこうであった。房子はこの家の中心であり、温もりの源でもあった。

 

 冷蔵庫の中の昨晩の冷えたお好み焼きを、房子はレンジで温め直してくれている。その間に二人分の紅茶を入れてキッチンテーブルを挟んで、尚記の前に座った。

「元気?」

 あらためて聞かれて、尚記は面食らったが、

「はい、元気ですよ。房子さんはいつも元気ですね」

 土鍋の中の子ネコを見ながら答えた。

 房子は今年60くらいになる筈だが、瑞々しく美しい。染めているのかいないのか、真っ直ぐに伸びた髪は黒く、いつまでも奢りの春のまま、かき上げる都度、黒い花の花弁にも見える、その髪の香りを艶やかに漂わせた。

 房子は喋らなければ美しい。

 子ネコを見ていたせいか、先ほど房子が「わたしは赤ちゃんが見たいの」と言っていたことを思い出し、

「結婚するなら、房子さんみたいな人がいいですね」

 この家の温もりが何処から来るのかを、あらためて感じながら言った。

 房子は変な声を出して笑った。

「ンハッ、嬉しいこと言ってくれるねぇ、この子は、でもこんなババァじゃ先立たれて寂しい思いするよ」

「あ、ババァは嫌です。もっと若い房子さんです。若い頃の房子さんです」

「ハッ!憎たらしいこと言ってくれるねぇこのガキは、でも若いと、この味は出ないんだよ。ババァにならないとね」

 チーンと良いところで電子レンジが鳴った。その音に子ネコの耳がピクリと動いたが、起きる様子は無かった。

 尚記はお好み焼きを取りに行こうと立ちかけたが「いいから、座り」と房子に制され、ホットケーキのように重なったお好み焼きを出してもらった。

「今だに四人分の分量で作っちゃうよ」

 出しながら房子は言って、今度は尚記の隣に座った。

 尚記はなんと言って良いか分からない。自分が出て行ったことで寂しい思いをさせたなら、スミマセンと言えるが、沢五郎も房子も、早く独り立ちした姿を見たかったのでは無いだろうか?

 それには、いつ迄もこの家に厄介になっている訳にはいかない。そうした理由で家を出たと言う意識も尚記の中にはあった。沢五郎と房子の期待に応える形で家を出たのだから、スミマセンは変な気がする。

 裕記の事については、尚記が謝ったら房子は怒るだろう。迷っていても仕方ないので、尚記はなんとなく会話の受け答えになっていそうな事を言った。

「勿体ないからって、無理して全部食べないで下さいよ?歳と共に消化機能だって落ちるんだから」

「たまにお前が、残飯あさりに帰って来りゃればいい」

 尚記は房子が何処の出身か知らない。房子に聞いても分からないと言う。沢五郎に聞くと、アレは国産だと言ってはぐらかされる。


「で、そんな事より、どうなのさ?」

房子は小指で、お好み焼きを切り分けている尚記の手の甲を突いた。

「いませんよ」

「なぁんだよ、シャキッとせんねぇ。もしかしたらアレなのかい?コレなのかい?」

 今度は親指で尚記の手の甲を突いた。

 房子はケンの事を知らない。知らないとは言え、房子とは言え、尚記は良い気がしなかった。

「あぁ、ゴメンゴメン。しっかし、あんたは誰も連れて来んね。ヒロは高校入ったあたりから、派手なんから地味ぃぃなんまで連れて来てたけど」

 尚記は何も言ってないのに、房子は尚記の不機嫌さに気付いて謝り、尚記はその事を不思議に思わない。

「はぁ〜、おもろない」

 腕を前に伸ばして、突っ伏しながら房子は何か面白いことを求めるように、前に伸ばした腕をバタバタさせた。

 別に尚記の事を煽っている訳ではないだろう。尚記も房子のこう言う態度は不愉快ではない。むしろ楽しい。

 しかし房子には何かしらオモチャを与えなければ、ずっとこの調子でやり続けられる。房子はいつも何か面白い事を探している。単調な生活の繰り返しでは房子の湧き上がる活力を消費し切れないのだろう。

 尚記は何か手ごろな話題は無いか探したが、見つけられず持っていた一枚のカードを差し出した。

「好きな人なら出来ましたよ」

「えっ⁈ほんとう?連れ込んだ?」

 色々と手順を飛ばしていて、質問がおかしい。

「結婚してました」

「えっ⁈えっー⁈やるねぇ!男になったねぇ!」

 房子は本当に嬉しそうだ。

「でも駄目だよ。人のものに手を出しちゃ駄目だ」

「分かってますよ」

 尚記は房子にカードを見せた事をちょっと後悔した。

 房子は少しのあいだ尚記を見守ったが、尚記が黙っていたので、

「なぁにぃ、いっちょ前に辛いの?」

 尚記の表情は他人が見たら辛いかどうかなど分からない。房子はツルッとした尚記の額を撫でるようして、前髪に指を入れてから雑に頭を撫でた。

 房子に辛いのかを問われて、尚記は自分の想いは叶わない事をしっかりと浮き彫りにされた。

 今までは八崎の事を想ったり、話しをしたりして、優しい気持ちになったりドキドキしたり、それだけで心が満たされて、その先の事を考えることは余り無かったが、このまま想い続けていても良い未来は待っていないのだ。例え八崎が尚記の気持ちに応えてくれたとしても、幸せな未来は待っていないのだ。

「辛いんだったら相手するから、死ぬのだけはよしておくれよ」

 房子は真っ直ぐに自分の気持ちを尚記に伝える。

「大丈夫ですよ……髪の毛がお好み焼きに落ちます」

 尚記は撫でられるままに、頭をひとつも動かさずに言った。房子はひとしきり房子自身が満足するまで、尚記の頭を撫で、それからお好み焼きの上を確認した。お好み焼きの上には何も落ちて無かったが、房子は一番上のお好み焼きを手で摘んで取って、ペロリと一口にたいらげた。そしてまたペロリと舌で唇を舐めて、

「ここは…」

 そう言って、尚記と房子を交互に指差して、

「血は繋がってないから、なんなら私が相手になってあげ」

 房子は「相手」と発音する時に、先ほど死んでくれるなと言う時に発音した「相手」とは違い、意味深に色の付いた声を使った。

 尚記は房子の語尾を喰いちぎって、

「嫌ですよ!バカですか⁈どこの星の励まし方ですか!」

 思わず普段より大きな声を出して、房子を制した。

 大きな声は柏手のようなものだ、気が払われる。房子はそれを狙ったのだろう。房子の満足気で闊達な笑い声は、更に気を循環させて行く。

 声を普段のボリュームに戻して、

「だいたい房子さんも、五郎さんのものでしょうが」

 お腹は満ちていたが、手を動かしていたかった尚記は、お好み焼きの二枚目に箸をつけながら言った。

「あぁ〜っ、んん〜?」

 面白かったわぁ、と言う風に目尻を拭きながら房子は

「そうだけど、あんたん物でもあるよ?小さい頃からそうだったろうにぃ。全身全霊を捧げたさ」

 また、尚記の前髪をグシャグシャと乱し、房子は少なくなった二人の紅茶を注ぎ足すために席を立った。その背中を見ながら尚記は小さい頃を思い出した。

 浮かんでくるのは小学生の頃、裕記と連れ立って下校すると、時どき両腕を広げて満面の笑みを浮かべ、玄関先で二人を待ってくれていた房子の姿だ。尚記と裕記は房子の姿が玄関先にある日は、目を合わせてから一直線に房子に向かって駆けて行き、そして体を預けるように房子に飛び込んだ。  

 房子はいつもしっかりと二人を抱きしめた。その時だけに限らず、辛い時も楽しい時も、そして何でも無い時も、確かに房子はいつも全身全霊で二人を受け止めてくれていた。

 目頭が熱くなって来た尚記は、房子が戻って来ないうちに、目頭を冷やす為に別の事を考えねばならなかった。

 尚記はお好み焼きを二枚食べ終えたのに、二枚残っているのに気付き、これ幸いとばかりに思考を切り替えた。  

 このお好み焼き、四人分の分量の一人分が、そもそも間違っているんじゃないだろうか?

 確かに裕記は脳みそが筋肉で出来ているような男だったので、よく食べた。沢五郎も体格はそれほど大きくないが、職業柄、鍛えられた体はその分のエネルギーを欲するように食料を求めた。房子が普通よりも多い分量で1人分を作ってしまうとしても、昨晩の食べ残しでこの量なら多過ぎる。

 これは本当は昨夜の食べ残しじゃなくて、新しく二人のお昼として作られた物だったのかな?尚記がもしかして、そう言おうとした時、玄関をガラガラと開ける音が聞こえ、

「おうい、房子ぉ」

 沢五郎がただいまの挨拶をした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る