第11話
キュゥ。水筒の蓋を締め、パッキンが引き絞られる感触を楽しんで、八崎はお昼ご飯を切り上げた。後から休憩室に入って来た後輩が、お弁当を片付けている八崎の様子を見て、「あら、八崎先輩もうお昼終わりですか?」そう訊ねてきた。
「えぇ、F棟に行ってくる」
資料作成のノルマは午前中に終えた。朝礼で言った通り、八崎は午後からF棟で状況確認を行う予定だった。昼休み中に移動を済ませ、本当に言葉通り午後イチから確認作業に入るつもりでいる。ほとんど抜き打ちに近い。昼休み中にF棟の管理者3名に話を通し、有無を言わさず休憩明けから始める算段だ。
「ちょっと整理があるんで待って下さい」
などと言おうものなら、
「せっかく昼休みを削ってここまで来たんです、本来、整理されてあるはずの事ですから、整理は昼休み中に終わらせておいて下さいませんか?皆さんはその後、休憩を取るのでも宜しいのでしょう?庶務の在庫管理業務にご協力頂けると嬉しいです」
取り付く島を作らずに言うつもりであった。もちろん笑顔を添えて。
お箸を箸箱にカチャカチャと仕舞いながら、そう言えば、八崎に「お昼終わりですか?」そう尋ねてきた後輩に対して、あの返答だけでは、ちょっと言い方が冷たかったかなと思い、その後輩には午後の予定がある事を知りつつ八崎は
「一緒に行く?」
間が空いた事も気にせずに付け加えてみた。
先輩から受ける誘いは指示や命令に近い場合がある。驚いた後輩は真意を測るために八崎を見た。そして八崎がいたずら顔でニコニコ笑っているのを見ると、
「イヤですよぉ、めんど臭い」
あけすけに物を言った。
その言葉をニコニコと笑いながら聞いて、
「じゃぁその内ね」
今のところ一緒に連れて行く気は当分なかったが、八崎は将来の為に伏線を張っておき、その場から立ち去った。
閉まりかけた休憩室の扉の隙間から、「イヤですよぉ?」念を押すような声が追いかけて来たがF棟に向かう八崎が止まることは無かった。
八崎がF棟付近まで来ると不審な人物がいた。尚記だ。
事業所の区画は基本、綺麗な碁盤目状に作られている。そして構内を走る車両の事故を未然に防ぐ為、見晴らし良く設計されていた。なので八崎はかなり遠くから不審な動きをしている人物を認め、何者なのかを確認する為に歩を早めたが、それが尚記だと分かるとまたスピードを緩めた。
沢田さんがまた何かしている。八崎は自分の心境が良く分からなかった。何をしているんだろう?そんな積極的な興味もあったし、また何かやらかしているよ。と言う情けない気持ちもあった。どちらかと言うと、どうやら情けない気持ちの方が勝ったらしい、八崎は一つため息をついて、『トホホだわ』そんな言葉が込み上げ、思わず本当に声に出しそうになってビックリした。
そんな情けなさが少し
尚記は問題行動を起こすが大きな事故に繋がるような事はしない。そう言った信頼もあったし、あの先は確かどん詰まりのはずだった。八崎はどん詰まりに追い詰められた尚記を想像してニヤリとした。しかし本当に沢田さんは何をしているのだろう?
最初に不審者を認めた時、八崎は南1号幹線道路を歩いていた。F棟は南1号幹線道路沿いの、東の果てにぶつかる少し手前に建てられている。そしてその奥、東と南の幹線道路が交わる曲がり角にあたる部分の東幹線道路に面して共通3号棟が建っていて、出入り口は西に向かって作られている。つまり東に向かって歩いている八崎から出入り口は丸見えだった。
共通3号棟の出入り口にいた不審者は踊っているようだった。踊っているようだったから不審者だった。不審者は踊るようにして東1号幹線道路に飛び出し、八崎から見て右に進路を取り、斜向かいにあるF棟脇の小径へと歩いて行く。非常に不自然な歩き方で肩を大きく回したかと思えば、突然向きを変えたりのけ反ったり。今はF棟の脇の小径に曲がった為、八崎からは不審者である尚記の背中側の右半身が見えている状態になる。
八崎はチラリと腕時計を見て、まだ時間に余裕がある事を確認してから尚記が入って行ったF棟脇の小径のセンターにポジションを取った。尚記は逃げたりしないだろうが逃しはしないと言う意思の顕れである。
尚記の背中が見える、相変わらず奇妙な動きをしている。八崎はその様子を見て、やっと尚記の動きを表現する良い言い回しを思いついた。うなぎだ、うなぎを捕まえているようなのだ。
「何をしているの?」
計らずとも、朝と全く同じ質問になった。しかしその語勢は朝とは全く違う。朝は何をしてるかは分かったが、何故それをしているかが分からないから質問した、柔らかい「何をしているの?」だったが、今は本当に何をしているかが分からない。詰問に近い語勢で問い正した。
八崎の目から見た尚記は全くもって不審者以外の何者でもない。まさか本当にうなぎを…尚記なら有り得るのが怖い。
そう思った時、振り向いた尚記の腕の中には真っ黒な子ネコが抱かれていた。
「あっ、八崎さん」
八崎は正しく呼ばれているのに「ヤサキよ」と訂正しそうになった。
なぜ不審な動きをしていたかは判明した。子ネコが大人しく抱かれていないのだ。尚記の体をつたって登ろうとしたり、いったい何処に向かって跳ぼうとしているのか、尚記の腕を小さな後ろ足で一生懸命に蹴っている。尚記はその勢いを殺したり、跳び出しそうになる子ネコを抑えようとしたり…
なるほどこれでは、あのような奇妙な動きになる訳だ。疑問は解けたが、八崎は動き回る子ネコにハラハラしながら、同じ質問を繰り返した。
「何をしているの?」
朝の「何しているの?」が、「キミはなんで空を見回しているのかな?」そんなニュアンスであれば、先程のは「貴様!そこで何をしているっ!」と言うニュアンスで、今回の「何しているの?」は
「わたしは何と言って質問すれば、キミのしている事が理解出来るの?」
そう言う思いが含まれている。
「この子を保護しようと思いまして」
尚記はそう言って、それまで子ネコの腕白を許していたのに、突然、首根っこを摘んで持ち上げた。子ネコは観念したように四肢としっぽをダランとぶら下げた。
「ちょっと!」
八崎は尚記の突然な乱暴な扱いに驚いて両手を差し伸べた。すると尚記は差し出された八崎の両手の上に、子ネコをちょこんと置いた。
やられた。
尚記のことを見ると、憎たらしいほどニッコリと笑っている。
「やっぱりね、受けとめてくれると思いました」
八崎は心の何処かを、今朝よりもはっきりと噛まれたのが分かった。何か言ってやりたかったが言葉が出ない。とつぜん手渡された子ネコをあやすのに手一杯なのだけが理由ではなかった。
しっかりと噛まれたのに、痛さも不快さもない。けれど八崎は自分の下唇を噛んでいた。
何も言えずに子ネコの相手をしていると、尚記はどん詰まりの先へ行こうとする。八崎はまた、「ちょっと」と言いそうになったが、さっきから何度も同じ台詞を言わされている。八崎はここに来てから「何をしているの?」と、もう一回言ったら「ちょっと」しか言っていない事になる。
振り回されている感じが否めなかった。しっかりしなくては…
時間にまだ余裕はあったが、
「ねぇ、あまり時間が無いの」
八崎自身も驚くほど不機嫌な声が出た。それは時間が無いのにも関わらず、付き合わされている不機嫌さでは無い。過剰に不機嫌な声を出してしまい、失敗したと思って尚記を見ると、尚記も驚いたようにこちらを見たが、驚いた顔は笑顔に変わり、
「時計を見てたじゃないですか」
!見ていたのか。
「時間を確認してから、ここに来たってことは、多分まだ大丈夫なんでしょう?」
八崎は動揺を深めた。ここ数年来で一番深く動揺した。だから自分が時計を確認した場面を、ちゃんと思い出せなかった。ただ一瞬しか見ていない事は覚えている。その一瞬を見ていたのか?どの辺りから尚記は八崎の存在に気付いていたのだろう?わたしは誘い込まれたのだろうか?
だが、それだと子猫も用意しなくてはならないし、私がF棟に来ることも知っていなくてはならない。猜疑心が瞬時に湧いて、瞬時に消えた。
それよりも尚記を憎たらしく思う気持ちが強かった。なぜ質問形式なのだろう。分かっているなら、大丈夫だ。そう断定してくれれば良いのに。人は質問されると、反射的に何かしら返答しなくてはいけない思いに囚われる。
それに気付いて八崎は、子ネコをあやすのに集中した振りをして無視してやろうかしら?とも思った。しかし、
「キミの行動が遠目からでも不審だったから、時間はないけど優先したの。だから何をやってるか教えてちょうだい?」
「あ、そんな遠くからボクの事を気にしてくれてたんですか?有り難うございます」
続けて、困ったような顔で尚記は、
「んーと、だからその子の保護をしようと思って。」
さっきも言ったでしょ?とでも言いたげな目で八崎を見た。
わたしの中で切れそうな、これは堪忍袋の緒と言うのだろうか?でも切れても、溢れ出るのは怒りでは無いのが分かる。ただ何が溢れ出るか分からない。
何が溢れ出るか分からないが…分からないから、決して切らしてはいけないと八崎は本能的に思った。怒ってはいなかったが、切らしてはいけないと言う必死さは、怒っているような声音を語調に付け加えた。
「だから、ここで何をしているの?ここで、この子を飼うつもりなの?」
「はい、ちょっと待って下さい。」
尚記にとっては、それを今から説明するから、ちょっと待ってくれと言う意味だ。八崎も普段通りの平静さがあれば理解していただろう。だが今、八崎は心穏やかとは言い難かった。
穏やかでない心は少し荒い言葉を弾き出してきた、『はい、だぁ⁈』
尚記の事を変わり者だとは思っていたが、バカではないと信じていた八崎は、信じられない。と言った表情で尚記を見たが、そのとき尚記はもう、どん詰まりの先に消えてしまっていた。
消えてくれてしまって良かった。切れる対象が居なくなってくれた事で、八崎は感情を決壊させずに済んだ。
八崎はうな垂れて息を抜き、力の入っていた肩をスゥっと落とした。それに合わせて、手の中の子ネコの位置もスゥっと下がった。変な浮遊感を味わったのだろうか?上を向いた子ネコと、うな垂れた八崎の視線が合った。
子ネコを抱いていた事も、八崎にはとっては幸いした。思わず力が入って、声を荒げてしまいそうなところだったが、子ネコを気にして力を込め切れない。それがうまい具合いに、八崎の迸りそうな感情の抑止材として働いてくれていたのだ。
「キミはあのバカから逃げようとして、ヤンチャしてたのかい?」
八崎の手に移ってからは、見違えるほど大人しい子ネコのクリッとした目を見ながら、八崎はほんの数滴だけ腹の中に残っていた苛立ちとは違う、必死な思いを出し切った。
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