第10話

 尚記は過去に囚われながら、午前中の仕事をこなした。尚記の仕事はルーティンワークであるので、体が覚えてくれさえすれば、勝手に手足が動いてくれる。頭は別のことを考えていても特に支障はなかった。自分がした作業に漏れが無いか確認する時だけ、こちらの世界に戻ってくれば良い。

 昼休みを告げるチャイムが鳴ったのを聞いて、尚記は過去から戻って来た。だだっ広い資材倉庫に居るのは尚記だけだ。フォークリフトのエンジンを切って、シートに座ったまま腰を伸ばす為に上を見た。空は無かった。フォークリフトのヘッドガードの裏、尚記が座っている方に、主の居なくなった蜘蛛の巣が張ってあった。

 久しぶりに二人の事をしっかりと思い出した。いつも心の何処かには居るが、尚記はいつも視線を外して別の事を考えるようにしている。二人の事を思うと尚記の中には孤独が広がる。孤独は虚無への入り口であり、虚無は破綻をもたらす事を尚記は経験上知っているからだ。

 一度、正気を失った事を自覚した人間は、その後、自分が正気かどうかをずっと疑って生きて行くしか無い。

 尚記の唯一の救いはこの世に正気の人間など居ないと思える事だ。正気でない人間達が寄り集まって出来た社会はそもそも壊れている。壊れた社会が通常なのだから、壊れている自分もまた通常だ。個性とは言わば壊れ方の違いなんだ。

 二人が亡くなった当時、虚無感に堕ちて破綻した思考で尚記が考えついたのはそんな事だった。

 自分は今でも壊れたままなのだろうが、それでもやはりあの時ほどの壊れ方は二度としたくない。それ故、尚記は普段はわざと視線を外して、二人の幻影を直接見ないようにしている。今もチャイムが無ければ危うく虚無感に引き摺り込まれるところだった。

 自分は今どれくらい正気なんだろうか?

 寄木細工が尚記を泣かせてくれなければ、尚記はもっと壊れていたと思う。尚記の手には負えない感情の奔流が、涙となって流れていかず、尚記自身を飲み込んでいたら尚記はいったいどうなっていただろう?

 尚記は小箱を開けた後、バラバラにした寄木細工を元に戻せなくてまた泣いた。行き詰まって何処にも行けなくなったケンの想いを解放してやりたい一心で組み解いたが、元に戻せないと分かると、想いを隠したがっていたのがケンの本来の心の形なのではないかと考え、泣きながら小箱を本来の形、封じ込めた想いを誰にも触れさせないように、箱ではなくて単なる木の直方体と思わせるような、あの静謐な形に戻るように、泣きながら無心で木片を組み上げた。

 泣いて、泣いて、泣いて、たぶん苦しみから逃げた。ケンの寄木細工が苦しみから逃してくれたのだと思う。


 まだ、過去に囚われているな。尚記は資材倉庫のシャッターの前に置かれた、『フォークリフト運搬作業中、立ち入り禁止』の標識を裏返し、自分も頭の切り替えが必要だと思い、シャワールームに向かった。

 シャワールームに行くためには、また共通棟に戻らねばならない。尚記はどうしようか迷ったが、再び建屋の合間の通路とは呼べないスペースを通って近道をした。

 そこは本来、作業区域とされているスペースで、専門の作業員以外の立ち入りは禁止されている。誰も守ってはいない。と言うのは言い過ぎだが、守っていない作業者は多い。通行しているのが見つかっても、注意をする人としない人がいる。

 通行禁止の建前としては、建屋の壁面などに蔦のように這わせてある、蒸気の配管、工業レベルの太さの電線など、それ等が万が一劣化して配管に亀裂があったり、絶縁体の被膜が破けていたりしたら、通行した作業員が蒸気を浴びて火傷を負ったり、感電する可能性があるからだ。

 確かにそう言う場所もある。だが今、尚記が歩いている場所にはエアコンの室外機しか置かれていない。工場棟区域側の建屋の合間は危険なので尚記も歩かないが、事務棟区域側にそれほど危険な場所は無いのだ。

「その油断が危険なんだよ」

「配管や送電線は無くても、足場が悪いだろう。転倒し易いんだから、通っちゃダメだ」 

 などと言いそうな、沢五郎を含めた、主任クラスの顔を何人か尚記は思い浮かべたが、彼等の顔はまるで抑止力にはならない。なぜなら彼等もまた規則に縛られない人達であったからだ。それに無駄なものは無駄なのだ、正規のルートで行けば5分くらいのロスはするだろう。

 尚記は躊躇なく規則を破るところがあった。先ほど裏返した『フォークリフト運搬作業中、立ち入り禁止』の札も、本来であれば複数のフォークリフトを使用する時に表示する物であり、尚記一人の作業時に表示するものでは無い。

 だが尚記は体が動くに任せ、頭の中は過去に飛ばしたり、時には未来に飛ばしたりして、心ここにあらずでフォークリフトを操作している、そんな所に行動の予測出来ない他の作業員が入ってきてしまうと危険なのだ。  

 今まで尚記が午前中に作業していて、資材倉庫を訪れたのはたった一人だが、尚記は危ないと思い、自分が作業している時は勝手に立ち入り禁止にしていた。


 細い獣道のようなスペースを通って、尚記は幹線道路に出た。共通棟はすぐそこだ。やはり正規のルートを辿るのはバカらしいと思ってしまう。

 朝、八崎と会った幹線道路は事業所全体で言うと東側にある一番太い通りであり、東1号幹線道路と言った。北東にある通用門から南下して延びていて、北の各幹線道路と中央を横断する道路、そして南側の各幹線道路を突っ切って、事業所の南辺を東西に横断する南1号幹線道路にぶつかる。

 尚記は東と南の1号幹線道路がぶつかかる場所にいた、言わば事業所の東南の角だ。共通棟、正確には共通3号棟は東南区画の共益ゾーンになる。尚記のように所定の作業場所を持たず、事業所のあちこちで作業する従業員が使う事が多い。

 2月とは言え、閉じ切った倉庫内は蒸す。ある程度はパレットに載せ、まとめてフォークリフトで運搬するが、パレットに荷物を載せる時は人力で行う場合もある。シャワーを浴びる必要があったのは、頭の切り替えのためだけでは無い。

 着替えを持って来ていない事に気付いたが、しょうがない。首からかけていたタオルをクルクルと回して、尚記は共通棟の扉を開けようとした。

 共通棟の扉の左右には、外壁から人ひとりが通れるくらいの幅を空けて棟の外周を囲うように、ツツジなのか、サツキなのか、生垣が植わっていた。その中からネコの鳴き声がした。ガサガサと音がして子ネコを咥えた親ネコがあらわれた。

 事業所は市街から離れた、ほとんど山と言っても良いような場所にある。事業所内で野生の動物を見る事など、そう珍しくもない。ウサギ、タヌキ、キジ、イタチ、2メートル近いヘビ。事業所の外には鹿や猪も居る。ネコなど珍しくもない。

 工場の南側は基本的に車両の通行が多い。危険だと判断した親ネコは、車両の通行うんぬんで言えば、比較的安全な事業所内の中央側に子ネコを連れて移動しようとしているのだろう。

 尚記は勝手にそう受け取って、孟母三遷の教えだね。ウンウン。親ネコに理解を示した。(でもあっちの方は蒸気とか配電盤があるから気を付けてね)

 親ネコは警戒するように尚記をじっと見る。尚記は子ネコを咥えた親ネコを驚かしたくは無かったが…驚かして急に親ネコが駆け出したりしたら、子ネコが振り回されると心配したからだ…しかし、いつまで見つめ合っていてもしょうが無いので、なるべくゆっくりと扉に手を伸ばした。

 すると親ネコがトコトコトコと、驚く風でもなく普通に寄って来て、尚記の足元に子ネコを置いて立ち去った。

 あっと言う間だった。

⁈と思う間も無く、親ネコは既に生垣に上半身を潜り込ませており、見えているのはボンボンのような尻尾だけだった。その尻尾も2〜3回ピコピコと揺れて、見る間にシュルっと生垣の中に吸い込まれていった。

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