第7話
八崎がいるのは庶務室とは言っているが、本事務所棟の中にある総務室の一部をパーテーションで仕切った、最大8名が座れる一角の事を便宜上、庶務室と読んでいるだけである。正式な見取り図上では総務室に内包されてしまっており、庶務室なる物は本来存在しない。
協力会社などを含め、5000人規模の事業所の中で、細かく庶務室と言う呼称を必要としているのは、総務に関連する仕事に勤める、50人に満たない従業員だけだ。その50人でさえ全員が全員、必要としてるかは怪しい。
時計はその総務室の入り口の対面、要するに部屋の1番奥の東側壁面、窓と窓に挟まれた、柱のような幅の壁に架けられてあった。
時計に目をやった時、八崎は二本目の電話を切り終わった所だった。庶務の様々な仕事の中で電話の対応は、かなりウェイトの重い部類に入っている方だと八崎は思う。そのため八崎は拘りを持って電話の対応に臨んでいる。
八崎のデスクの電話は少し古く、コードレスではあるが、受話器は本体に置いた時に、本体側のフックが押し込まれる事で通話が終わるタイプの物を、わざと選んで置いてある。しかも本体のフックは、受話器の耳を当てる側にある物でなければならない。たまに送話器側、口の方にフックが付いている電話があるが、それでは駄目なのだ。
八崎は相手が電話を切るのを待って、フックに添えていた手をゆっくりと押す事で、通話を終わらせたいのである。送話器側に付いているフックは押し込みにくく、また受話器その物に「切」ボタンが付いているものは、通話が終わった後、いちいち受話器を見てボタンを押して、キチンと切れた事を確認する為に、再び受話器を耳に押し当てたくなる衝動に駆られ、いちいちな行動をいちいちしなくてはいけないので好かない。
それにボタンの「切」はなんだか味気なく思う。プツンと全てが終わってしまうような、大袈裟だが、通話中だった過去と、通話を切った今は繋がっていないような気がしてしまうのだ。
八崎はフックをゆっくり押し込む時、自分の対応に失礼はなかったか、などを考え、言わば相手の姿が見えなくなるまで見送るようにしてから切るようにしている。例え相手の態度が失礼で、思わず罵りたくなるような態度だったとしても、八崎は丁寧に切る事によって自分の心の安寧を保った。
二本目の電話の相手は堅苦しく無い程度に礼儀正しく、ストレス無く見送るようにして通話を終えた。緊張が解けたと言うほどでは無いが、拘りを終えた。その感覚は 八崎に受話器を置くとは別の、意識外の行動を伴わせた。時計を見たのである。
見るともなしに見た時計の近くの窓の外に、なにやら小さな黒い影が飛び跳ねている。
窓枠に切り取られた外の風景は、充分に間隔を空けて建っている隣りの棟の、無骨な建築物の様相が大部分を占めている。残りは少しづつ蒼さを増して来た空が、窓の上の方に申し訳程度に見える。
隣りの棟の外壁を走っている配管の上を、小鳥がピョンピョン飛び跳ねて渡って行く。黒い影の正体だ。
外部からの電話対応を終えた八崎は、時計を見て、目の端に動く小鳥に視線をを取られた、小鳥を見た八崎は そう言えば、お延があらぬ方向を見ていた事の言い訳に使ったのも、隣りの家の庇に小鳥がいたから。では無かっただろうか?そんな事を考えてしまった。
八崎は続いて、「明暗」を読んだのなんて高校生の時くらいだったから、もう内容もあまり覚えていない。そう朧気に考えた。八崎にとってはこれも些事であったので何の問題もなかった。
必要の無くなったメモを捨てるように「明暗」を読んだ時期はいつ頃で、内容はどんなだったか?と言う考えを捨て、資料作成に必要な情報を得るために、総務室の奥に並ぶ資料棚の方へ歩いて行った。
資料棚は部屋の奥にあり、部屋の奥には時計と窓があった。資料棚に近づくにつれ、必然的に窓にも近づき、窓の外の風景も広がりを見せて行った。
2月、幹線道路脇の木々の葉はまだ少ないが日差しは柔らかい、部屋の中にいたので忘れていたが、ビニール袋のようなゴミが空に舞ったのをガラス越しに見た事で、今日は風が強かった事を八崎は思い出した。
外で感じた風は、冬の冷気を引き剥がして、慌ただしく春の陽気を送り込もうとしているようだった。だが引き剥がされて、砕けた冷気の粗い粒子が含まれている風に吹きつけられると、容赦なく体温は削られた。その冷気の粗い粒子を含んだ風が空を研磨していている。高く、薄く、蒼い。そんな空へ先程の小鳥が羽撃いた。
八崎は羽撃いた小鳥を追って空を見上げた。瞬間、今朝の 空を見上げる尚記の姿が脳裏をよぎった。
時計を見ていなければ、小鳥の姿を目にする事は無かっただろう。小鳥を見ていなければ、「明暗」を思い出すことはなかったし、「明暗」を思い出していなければ、羽撃いた小鳥を追って、空を見上げた時も尚記の事を思い出していなかった。そして尚記の言葉を思い出す事も無かっただろう。
「八崎さんも気にしませんよね、空を眺められていても」
わたしは肯定したんだっけ?
自嘲して苦笑した八崎は、苦笑の最後の部分にくっついていた、間違って貼られた付箋のような自分の意識を手に取り、ゆっくり刻みつけるように読み取った。
付箋には、「お前も間抜けだ」と書かれていた。
気恥ずかしさから立ち上がった感情は、矜持を支えるための軽い怒り、そして怒る事ではないと言う諦めに嗜められ、一気に八崎の中を駆け抜けて行った。
八崎は自分が、軽率で間抜けな尚記と似ている事を、間抜けな形で思い知らされたが、駆け抜けた先で感じた思いは、途方もない安堵感であった。
そうか、わたしと彼は似ているのか。
総務室のデスクに挟まれた通路で、短い間ではあったが、つむじ風のような感情の変化が収まるまで足を止めていた八崎の後ろから、八崎が軽蔑してやまない総務部長が、「おい、八崎くん邪魔だよ。立ち止まらないでくれ」声をかけて来た。
八崎は不自然にならない程度に、それでも総務室になるべく響くように声を大きくして、ニッコリと笑みを浮かべながら、
「部長、邪魔って言い方は酷いんじゃありませんか?体調を心配して下さっても宜しいでしょう?」
そして、部長は絶対に知らない事を分かっていながら、
「それよりも、昨年度の下半期の営業利益の報告書はどこにファイルされていますか?データーベースの数字と照合する必要が有ります」
断定的に、照合する必要の有無を問われる隙の無いように問いかけた。
案の定部長は、「知らないよ」と言ったので、八崎は溜飲と頭を下げて資料を探しに行った。
午前中ずっと扱いに苦慮していた三割の部分は、わたしと彼は似た者同士だ。その結論に達してから、見違えるように大人しくなっていて、後の資料作成はかなりの捗りを見せた。
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