第8話

 人は絶対に孤独だ。似ている事はあっても、最後は絶対に理解出来ない、共有出来ない部分がある。その最後の部分の違いは、似た者同士ほど異なりが激しく、人は最後には、やはり孤独を思い知らされるのだ。

 八崎と別れたあと共通棟の事務室から資材倉庫に向かう道を歩きながら、尚記はそんな事を思っていた。

 好意を持っているのだから当たり前だが、尚記は八崎に親近感を持っている。八崎は絶対に認めないだろうが、尚記と八崎は根本的な思考は似ていると思う。しかし、思考を行動として現すときに、周囲に抵抗なく馴染ませるように発露させるのか、周囲に突き刺すように発露させるのかが、尚記と八崎は決定的に違う。この決定的に違う部分が目立ち過ぎて、大半の似通っている部分が隠れてしまっているのだ。

 でもそれで良い。人は絶対に孤独だ。尚記は三度、同じ事を頭の中で繰り返した。

 八崎と自分は大半の部分は似ている。その思いが尚記を誘惑し、誘惑に負けそうになるので、最後は違う。最終的に人は孤独なのだ。どうせそうなのだから…

 だから何度も人は絶対に孤独だ。そう思い直そうとしているのである。そうしないと尚記は、今まで誰とも共有出来なかった思いを、八崎となら分かち合えるのではないかと淡い期待を抱いてしまい、八崎の最後、最奥にまで触れてみたいと望んでしまいそうになるのだ。それは叶えようとしてはいけない望みであった。


 いけない、いけない。尚記は誘惑を打ち消すように頭を振りながら、資材倉庫への近道をする為に、室外機などが置かれてある建屋と建屋の間の、以前は一面に砂利が敷かれていたのであろうが、今は雨風によって土の下に沈んでしまい、昨日の雨で大部分がぬかるんでしまっている、道とは呼べないスペースの、浮島のように残った砂利の部分を飛びつたいながら通り抜けていた。

 建屋と建屋の間から空が見える。

 その空は、どんなに気の知れた友人であっても、どんなに似ている感性の人間であっても、見ている空の青さが一緒である保証は無い。そんな事を教えてくれた人達が昔いた事を尚記に思い出させた。

 例えば、大切な人と歩いている時に、「空が青くて気持ちが良いね」と問いかけたとする。喧嘩でもしていない限り、大切な人は肯定してくれるだろう。

「うん、そうだね」

 その言葉は、まるで魔法に掛かったように…お互いがどんな青を見ているか分からないのに、同じ価値観を共有していると勘違いさせてしまう。

 勘違いしたまま、同じ価値観を共有している人がそばに居てくれている。そんな幸せを感じさせてしまう。

 尚記は幼い頃から、人と人とは、大半の部分が似通った心の有り様であるにも関わらず、突き詰めて行った根幹、核の部分は共有出来ない感覚を切なく思っていた。

 幼い頃、降る雪を見ながら抱えていたのは、一人ぼっちの孤独な魂と共鳴する誰かは居てくれるか、そんな思いと、共鳴する魂を持つ自分達は、出会えた時に共鳴している事に気付くだろうか?と言う不安であった。

 この不安感は尚記が成長して人間関係を築くにあたり、大きな影響を与えた。広い人間関係よりも、狭く深い人間関係の築き方を尚記は選んだのだ。 

 自分たちは共鳴しているか?一人の人が発する全ての音を聞き漏らさぬように、その人の深くから発せられる微かな音にも尚記は耳を欹てた。最後まで同じ感覚の人達と付き合いを持つ事で、不安を払拭したかったのだ。

 しかし結局、人は孤独であると言う事を思い知らされた。例え、孤独である事を知っている誰かと出会っても、人によって何を孤独に感じるかは違っている。


「どんな蒼さが見えている?」

 そう聞いて来たのは、幼なじみの二人であり、

「見ろよ、雪が踊るように降ってくる」

 涙ぐみながら、そう言ったのは弟の裕記であった。

 皆、もう亡くなっているので、尚記は何故、彼等がこの様な事を言ったのか、言葉の出所、言葉の真意を教えて貰うことはもう出来ない。

 

 尚記は今日までに五人の近しい人間を亡くした経験をしている。二人の幼なじみと、三人の肉親。

 幼なじみの二人は田島賢一と羽田七海と言った。尚記と二人は幼稚園に上がった頃から良く一緒に遊んでいた。これに弟の裕記がたまに加わった。尚記は幾つになっても、幼い頃からの呼び方を変えず、二人をケンとハナと呼んだ。弟は、「おとうと」の「お」を省いてトウトと、更に面倒なときはトウと呼んでいた。

 五人は別々に亡くなった。五人とも事故で亡くなった事になっているが、ケンの死はハナの死を受けての自殺だったと思っている。

 弟の死はケンとハナの死とは全く関係ないが、裕記のあんな馬鹿な死に方は、自殺としか思えなかった。あれは絶対に自ら命を絶つ行為だった。

 両親の死は、尚記が小学校に上がる前後の頃だったと思う。交通事故で亡くなった。両親だけ出かけていて、留守番の尚記と裕記はTVゲームをしていた。近所の小母さんが、「あんたらのパパとママが事故にあったよ!」慌てて駆け込んで来たが、あまりに現実感が無く、理解も追いつかず、「そうなんだ。」そう言って裕記とコントローラーを取り合っていた気がする。小さかったので良く覚えていない。

 

 幼なじみの二人は、まずハナが先に亡くなった。

 当時、ハナは一人暮らしをしていた。節約の為か、単に料理が好きだったのか、はたまたその両方か、ハナはきちんと料理をする子だった。

 その日、ハナは料理中に包丁を握ったまま、キッチンからテレビのリモコンを取りに行く時に転倒した。そして運悪く包丁が腹部に刺さった。

 ワンルームだ、そんなに歩いた訳ではないだろう。たった数歩がハナの命を奪った。もしかしたら逆に数歩だったから、ハナは包丁を持ったまま移動したのかもしれない。とにかく手の届くような短い距離が、ハナを遠いところへ連れ去ってしまった。

 ハナは自力で救急車を呼び、病院に搬送されたが間に合わなかった。救急車の中では意識があり、包丁が腹部に刺さったいきさつを自分で説明したらしい。急な事だったので、両親もケンも、もちろん尚記もハナの死に目に立ち会う事は出来なかった。

 

 続いてケンが亡くなった。トラックに轢かれたのだ。

 当時、ケンとハナは付き合っているとばかり尚記は思っていた。おそらく付き合っていたのだとは思うが、それは普通の男女の関係だったのか、尚記には分からない。そしてと言うか、だからと言うか、ハナの死がケンにどのような衝撃を、どれくらいの心の傷を負わせたのか、尚記には推し量る事ができない。

 トラックに轢かれたのは、自殺のような物だと尚記は思っている。ケンは心身喪失のような状態で彷徨っていたのだろう。きっと楽になりたいと思ってしまったのではないだろうか?ハナを失った喪失感から解放されたいと思い、導かれるように、自ら望むように、赤色の交差点を歩いて渡ろうとしたのではないだろうか。

 ハナの死後、ケンは尚記と会うのを避けるようになったので、ケンが当時どう言う精神状態だったのか尚記には分からない。幼い頃から一緒にいたのに分からない事だらけだった。

 最後にケンに会ったのは、ハナの葬儀の時だった。尚記はケンに声をかけた。何と言って声を掛けたかは覚えていない。「大丈夫か?」だったかも知れないし、ただ、ケンの名前を呼んだだけかも知れない。

 ケンは打ち拉がれて泣いていた。声をかけた尚記に対して、もう話しかけてくれるな。そんな風に、ケンの肩に触れようとした尚記の手を振り払って立ち去ってしまった。そのあと一度も会わず、ケンは死んだ。

 ケンに手を振り払われた事は単純に、けれども深く尚記を傷付けた。何かしら力になってやれるだろうと、当然のように思っていた尚記は、知らず知らずのうちに憐むような目でケンを見ていたのかも知れない。ケンは手を振り払う事でそれを尚記に教え、自分の中に憐む気持ちがある事に気付いた尚記はそんな自分を嫌悪した。

 尚記は葬儀のあと、幾日もケンを心配した。何度も会って話しができないか連絡を取ろうとした。しかしその度にハナの葬儀の時に手を振り払われた記憶が蘇り、怖くて電話をする事が出来なかった。

 自分が居なくても、ケンは立ち直るだろう。何かしてやれるなんて、思い上がりなのだ。今はそっと、一人にしておいてやるのが良い。

 本気でそう思っていたのか、言い訳のようにそう思っていたのか、尚記はもう自分でも分からなくなっている。   

 ハナの死で尚記もショックを受けていたのだ。冷静に考える事も、判断する事も出来なかった。今でも分からない。あの頃、自分はどれくらい正気で、いま自分はあの頃より正気なのだろうか?

 ただ分かるのは、自分がどんなに傷ついても、自分がどんなに傲慢でも良いから。

「会いたい、会ってお前を助けたい。」

 その思いを伝えるだけでも良い。ケンに連絡すれば良かったと言う事だけだ。

 そう伝えた結果、ケンを助けられなかったとしても。今ほど後悔していない事だけは分かる。

 

 ケンの死後、ケンの両親から鍵のかかった小箱を渡された。両親がケンの遺品を整理していた時、ケンの日記を見つけ、日記には「いつか尚記にこの小箱を渡せる勇気が出る日は来るのだろうか?」

 そんな一文があったそうだ。ケンの部屋にそれらしい小箱は一つしか無かった。

 小箱は寄木細工で出来ていた。買った物なのか、自作した物なのか分からない。ケンは手先が器用で、好奇心が旺盛で、凝り性だった。素人目に見ても精巧な物だと感じたが、ケンなら作り方を調べて、自分で作ってしまいそうな気がした。

 色々な幾何学模様に覆われている。きっとそれぞれの模様に名前があるのだろうが、尚記がかろうじて分かるのは市松模様と、波くらいだった。

 ただでさえパズルのように開けなければならない、一筋縄では開けられない寄木細工の箱を、ケンはバンドのような物で更に縛って小さな南京錠をかけていた。

 誰にも中を見られたくない気持ちが表れた小箱だったが、日記の文面からは尚記に小箱を渡したい気持ちが伺える。ケンの両親は勇気を出す事なく亡くなってしまった息子を不憫に思ったのだろう。代わりにその思いを果たしてやりたい、当然の親心に従って、何が入っているか分からない小箱を尚記に渡した。

 鍵の心当たりはすぐに思い浮かんだ。ハナが尚記の誕生日プレゼントにくれたペンダントトップが鍵のモチーフだった。あまりにもお洒落に興味の無い尚記を見かねて、ハナがくれた物だった。ケンはその時、用事があるとかで一緒には居なかったが、ハナはお金を出したのは殆どケンで、選んだのが自分だと言っていた。尚記は一度だけつけて、あとは引き出しの中に仕舞ってあった。

 ケンの両親が帰ったあと、尚記は自分の部屋でその小箱を開けた。幼なじみを二人立て続けに失い、尚記の心は疲弊仕切っていた。どんな思いで、どんな風に小箱と向き合って組み解いて行ったか思い出せない。

 上面を動かせば、右の側面が動かせなくなり、右の側面を先に動かすと、やがて底面が動かせなくなる。

 尚記は泣いた、寄木細工が開けられなくて泣いているように見えたかも知れない。実際もどかしくて泣いたのかも知れないし、木片の一つ一つを動かす行為が、ケンとハナとの思い出を解き放って行く代替行為のように思えて泣いたのかも知れない。

 尚記は何度も行き詰まって、何度も箱を最初の状態に戻した。戻す度に、この行き詰まった状態が完成形なのかと思うと、やり切れない気持ちになった。

 継ぎ目さえほとんど見えない完成された小箱は、けれども行き詰まった状態なのだ。このままでは、自分が知る事によって成就されるだろうケンの思いを天に返せない。尚記はまた泣いて、中に何が入っているか分からないが、小箱の中に押し込められたケンの気持ちを解放してやりたい一心で、ただ木片を動かし続けた。

 小箱の中には手紙が入っていた。ケンから尚記へ宛てた手紙の形を取っているが、ほぼケンの独白のような手紙だった。そこにはケンがどれだけ尚記を愛しているか、そして想いを伝えられないのが、どれだけ苦しいかが書き綴られていた。

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