第5話

 尚記はポカンとした。メイアンノサイクンが何なのか分からなかった。

最初は一続きの言葉かと思ったが、「の」で切れる事が分かると、前半の部分は「明暗」であろうと見当をつけた。しかしサイクンが分からない。漢字が当てはまり、明暗のサイクンが何なのか分かったところで、なぜ八崎が今このタイミングで言うのか?それは八崎の説明が無いと、分からないままの気がした。

 直前までの会話と何かしら関係があるのかしら?そう思い、尚記は少し前を思い返してみた。

 八崎が明暗のサイクンと言う前、尚記は話題を変える事に意識を集中していた。会話の流れが、以前に幾度か注意をされた 尚記の「気を持たせる態度」に再び及びそうだったからだ。

 八崎が尚記の事を「キミ」と呼ぶ時は何かしら注意を与えたい時が多い。八崎の方が立場が上だと言う事を示したい訳ではないだろうが、注意を与える側と受ける側の図式上、尚記の事をキミと呼んでしまうのだろう。

 

 そんな年長者風な八崎の態度を思い出して、尚記の思考は一度、明暗のサイクンから離れ、八崎の年長者風な態度についてに及んだ。

 基本的には尚記は上から物を言う時の八崎の態度を楽しんでいる。甘えているといっても良いだろう。

 八崎が注意する尚記の「気を持たせる態度」は殆どが天然由来のものだ。尚記は計算して発言しているわけではない。優しくしてくれた人には好意を持つ。持った好意を、何も計算せず、何も考えずに発言するから、「好き」と言う言葉が発せられるのだ。

 しかし、計算しないのは意図的である。生まれ出た言葉にあれやこれや肉付けをして、単二重と衣装を着せて、体裁を整えてから外に送り出すのは尚記にとっては嘘と一緒だった。

 全ての嘘が悪いとは思わないが、尚記はなるべく素のままの言葉を使っていたかった。

 素のままの言葉は荒削りで丸みが無い。代わりに劈開に沿って上手く割れた場合、そこから生まれ出る言葉の真っ直ぐさは美しいと尚記は思っている。

 その美しさは鋭利な美しさだ。取り扱いを間違えれば周囲の者は傷つくだろう。尚記本人も傷を負う。それは分かってはいるが、尚記は体裁を整える時間をかけたくないのだ。

 逢いたい時には「逢いたい」と、行って欲しくない時には「行くな!」と言えるようでいたい。もう、後悔はしたくなかった。

 そんな体裁を省くようにしている尚記の言葉使いは、鋭利すぎて誰かに注意を与えるのには向かない。その点、体裁を整えてから発する八崎の言葉は相手からすると受け止めやすい。

 そして八崎は体裁を省いて話す尚記と比べても、体裁を整えてから話すまでの時間が遜色ないくらい早い。まるで八崎の素の心その物のように聞こえる。大人の女性の見本とでも言うような鮮やかさだ。

 だが、素の思いでは無いだろう、あまりにも整い過ぎている。

 

 八崎と話していると、どこまでが着飾った部分で、どこからが裸の心なのか分からない事が多い。尚記の事を心配しているのは本心であろうが、そこまで心配する理由が分からない。集団の和を考えてのこと、そんな言いぶりだが、尚記はそれが立前なのか本心なのか見切れないでいる。

 八崎の立前の下、八崎を構成する基盤の下がどうなっているかなど、建前が組み上がってしまっている以上、尚記には八崎の本心を掘り起こすことは不可能だった。それを考えると尚記はあらためて、八崎の心には何処からか覗けぬ一線があり、普段はその一線が在る事すら認識させぬ器用さで八崎は諸事、物事を行なっているのだなと思った。

 卒なく物事をこなす八崎の本心は見えない。見えない本心は不信に繋がっていきそうだが、尚記は思う。これほどしっかりとした美しい建前が創り上げられているのだ、心の礎となる部分には無いはずだ。

 尚記は信頼して、その信頼に甘えるように八崎の前ではより一層 思ったままを口にする事ができた。

 思ったままを口にする事は出来たが、八崎の頭の良さの弱点は敢えて口にしなでいた。八崎は頭が回り過ぎるのだ。尚記の事など、故意に計算せずに話している。そう見抜けば、それで終わりなのに、それで尚記の底は割れるのに。八崎は良く回る頭でその先を考えようとするから、八崎自身に綻びが生まれてしまうのだ。

 尚記が故意に計算しないで話すのは、単なる好みの問題だ。しかし八崎は好みだけで、周囲と不和を起こす危険を孕み、実際に問題を起こして尚記自身に損失を与えた態度を改めようとしないのが信じられない、何かしら意図があると思ってしまうのだろう。意図は無いのだ、理由はあるが。

 尚記はその理由を八崎に話したことはまだ無い。わざわざ言う類いの事ではないし、八崎が勝手に深読みして、いつもは年上然として毅然としている眉尻が誰にも見つからないように下がるのを見て、密かに楽しんでいたかった。

 

 今日は、楽しんでいるのが伝わってしまったのだろうか、八崎はいつもほど説教めいたことを言って来る気配はない。けれども、いつ方針を転換して、お説教を始めるか分からない。

 尚記達がいるのは出勤者がひっきりなしに通って行く幹線道路の傍である。八崎に注意を受けるのは嫌いでは無いが、この衆目の中でやられるのは遠慮したい。八崎が方針を転換する前にこちらで誘導した方向に会話の進行を転換させてしまいたい。

 尚記は珍しく、話題を変えたいと言う意図を持って、「話題を変えませんか?」ではなく、表面的には別の意図を持つ、「封筒、お預かりします」と言う言葉を発したのだった。

 尚記は直前の状況を思い出し、この珍しく意図を持って、本心とは違う事を言った自分の言葉が どう言う反応作用を引き起こして明暗のサイクンに繋がったのかは、それはもう八崎の説明を待つしかないと、不思議な言葉と共に手の上へ置かれた封筒の宛先を確認しながら八崎の思考に思いを馳せるのを諦めた。

 

 八崎はクルリと踵を返して歩きながら、説明の第一歩としてまず、「夏目漱石の『明暗』って知ってる?」そう聞いてきた。

 やはり漢字としては明暗か。尚記は読んだことは無いが、それが夏目漱石の作品で未完だと言う事は知っていた。

「はぁ、題名だけは」

 読書は趣味ではありません。

 その声と表情からは本に興味の無い事が伝わってくるが、尚記は本を良く読む。「明暗」は未完だったので、読んでいなかったのだ。

 八崎は、尚記が「明暗」を読んだ事がないとき用の説明を、進行形で組み立てつつ、ひとまずサイクンは細君であり、奥さん、夫人の事だと言うことを伝えた。尚記の頭にやっと「明暗の細君」という言葉が出来上がり、もう少しで解けそうだった暗号に最後のキーワードがあてはまり、やっと謎が解けたスッキリとした感覚を味わった。

 だが、まだ謎は残っている。なぜ尚記が「明暗の細君」みたいなのだろうか。尚記は男である。

「良く覚えてないけど、確かお延さんって名前だったと思う。主人公の奥さんなの、主人公だったかも知れない」

 尚記は歩きながら説明する八崎に付き従った。八崎は背が小さいのに歩くのが早い。と、突然止まって振り向いた。急いで付き従った尚記は勢い、八崎の横を通り過ぎそうになって慌てて立ち止まった。

 八崎はまた正対して尚記の事を下から強く見つめた。

「キミ、さっき空を眺め回していた時、外来受付棟から出てくる私の事が視界に入っていたでしょ?」

 唐突な質問だったので、さっきの事を思い出すのに、さっきという割には時間をかけて、空を眺め回していた事を思い出した。

「はい」

 八崎の質問の意図が見えないので、余計な事は言えない。

「勘違いしないで欲しいんだけど、挨拶をしろとかって言うんじゃないの」

「はい」と答えつつも、八崎の姿を目に留めたのに、そのまま何も言わずに空を見続けた事に、一言もの申したいのか?と考えたが、八崎はそう言う人ではない。挨拶の形式とかに頓着しない人なのは、八崎と真ともな挨拶を交わさない尚記が一番良く知っている。

「でも、そのぉ、何も思わない?」

 尚記は三回目の「はい」に疑問符を付けた。質問の意図ではなく、主旨が分からなかったからだ。

「知り合いに気が付いた訳でしょ?

そのぉ、優先順位が…」

 確かに尚記は空を見回す事を優先した。しかし、八崎を気に留める事を優先して…優先して、やはり挨拶をしろ。と言う事を言いたいのだろうか?つい先ほど、挨拶をしろ、そう注意するつもりはないと言っていたが。

「ごめん、優先順位じゃないね。気が付かれたのに、そのまま素知らぬ振りをされる人の気持ちって分かる?」

 尚記は立場を変えて想像してみた。尚記が居るのに気にも留めず空を眺める八崎と、空を眺める八崎を見つめる自分。

「……特に何も思わないんじゃないですか?」

「そうだよねぇ。キミはそう言う人だよねぇ。お延さんとは違ったわ。例えが下手だった」

 八崎は勝手に話を締めようとしたが、尚記には何か心に突っかかる物があって、八崎の幕引きの話をあまり良く聞いていなかった。

「明暗の冒頭の方にね、お延さんが主人公である旦那さんの帰宅を玄関先で待ってる場面があってね。玄関先から見える通りに旦那さんの姿を認めたはずなのに、お延さんは旦那さんに声をかけられるまで、あらぬ方向を向いているの」

 尚記は心に突っかかっている物が気になって、話半分に聞いていたが、

「ねっ?場面的には似ているでしょう?」

 そう質問をされ、なにかしら答える事を余儀なくされた。それには一度、何が心に突っかかっているか、探すのを諦めねばならなかった。

「そうですね。場面的には似ていますが、自分とお延さんが似ているかと言うと…」

「そうだね、似ていないね。だってキミ、今の話を聞いてお延さんがどう言う人か、人物像が浮かび上がってこないでしょう?」

 尚記は慌てて記憶を巻き戻した。うわの空だったが まだ再生は可能なはずだ。相手の存在に気付いているのに一顧だにしない人。そんな態度を取る人の人物像を答えれば良いはずだ。

 ……確かに思い浮かばない、その行為がその人物の特徴を浮かび上がらせる行為だとは思えない。尚記は夜明け前を思って、反射的に空を見回しただけだし、お延と言う人も、何かに気を取られたとかで、気付かない振りをした訳ではないんじゃ無いだろうか?

 尚記は「明暗」を読んだ事がないので、前後の描写がどうなっているか分からない。それでも、敢えて言うならば、

「傲慢、ですかね」

 八崎は弾かれたように笑った。

「まぁ、どう言う人物像を思い描くかは、読んだ人によって違うだろうから。そっか、傲慢か。言われて見れば、漱石はお延さんを、傲慢な人として読者に映るように書きたかったのかも知れない」

 何かしら元の話題から、会話に流されてどんどん遠ざかっている気がしたが、尚記は八崎が笑った事で、お延が傲慢な人としては書かれてはいない事を推測し、八崎のお延に対する人物像を聞かずにはいられなかった。

 と共にその質問をした時に、心に突っかかっていた物の正体が、ポロッと姿をあらわした。

 八崎も尚記と一緒のはずなのに、八崎も尚記のように、「気が付かれたのに、そのまま素知らぬ振り」をされても何も感じない人間のはずなのに、「キミはそうだよねぇ」と、八崎自身は違うような、素知らぬ振りをされたら、気にする人のような言い方をしたのは何故だろう?

「八崎さんは違うんですか?」

 会話の流れ上 八崎はこの尚記からの質問を、お延の事を傲慢な人だと思っていないんですか?そう言う意味に捉えた。尚記も最初はそのつもりで質問したが、質問した瞬間に別の疑問が遡って姿を顕したので、八崎が、「わたし?わたしのお延さんの印象…」と答え始めているのにも関わらず、急遽、質問の内容を変えるために八崎の言葉を遮った。

「あ、いや、違うんです。八崎さんも気にしませんよね?空を眺められていても」

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