第4話

 尚記にはこう言う事が多々ある。八崎は尚記のこう言う言動に徐々に慣れつつあったが、今だにドキリとさせられる事がある。

 初めて驚いたのは、尚記が大きな荷物を一人で運んでいたのを手伝った時だ。尚記は台車を使って荷物を運んでいたが、その荷物は大き過ぎて1台では収まらない。尚記は2台の台車を横に並べてその上に荷物を置き、2台の台車を一人で器用に操作しながら運搬していた。

 工場は安全が第一だ。従業員を守るためだ。建前に感じるが真っ当に大切なことでもある。なので会社は安全を守る為に従業員にルールの厳守を求める。尚記の台車の使用方法はルールから外れているだろう。八崎は器用に台車を操る尚記を見ながらそう思った。

 普段のルールから外れて作業を行うには、かなり面倒な手続きを必要とする。たかだか荷物を運ぶ為に、尚記がその手続きをキチンと踏んだとは思えない。八崎はうるさ方に見つかる前に荷物を運び切らせてしまおうと考え、一緒に居た同僚の事務員と共に尚記の作業を手伝った。

 その時、尚記はお礼をしながら言ったのだ。「ありがとうございます。2人とも大好きです」と。八崎と同僚の子は驚いて目を見合わせ、同僚の子は母性をくすぐられたように笑っていた。

 尚記がこう言う言動をする傾向が多い事を知った八崎は 尚記に、「あまり気を持たせるような事を色んな所で言わない方が良いよ」そんなアドバイスを与えた事があった。八崎は既にベテランと言われる立ち位置で、組織を見渡して考える感覚が養われている。そして、その感覚は尚記に注意をした方が良いと囁いていた。         

 尚記は「気を持たせる?ですか?」 怪訝な顔した。良く分かっていないようだ。「その…大好きとか、会いたいとか」

 別に八崎自身の気持ちでは無い。どう言う言葉が気を持たせるのか、それを説明する為だけに口に出した言葉であるのに、八崎は照れてしまい、その照れが漏れて伝わらないよう、かなり意識を集中させなければならなかった。

 良く照れずに言えるものだ。大人になると、こう言ったストレートな物言いはしなくなる。それは社会の中で生きいく上でのマナーでもある。尚記の言葉は肯定的だからまだ良いが、逆に「大嫌いです」や「会いたくありません」をストレートに相手に伝えてしまうと不快感、下手をすると心に傷を負わせてしまう。集団の中で生きていれば、自然と身につく社会性だ。

 アドバイスしたのは純粋に尚記のためと、集団の中での風紀を考えていただけであり、恣意的な要素はどこにも無かった。ともすると、お局様が年下の男性を囲いたがっている印象をもたれそうだが、後ろめたさが無い分、何も気後れする事なく八崎は尚記にアドバイスした。実際、彼はこのストレートな物言いが原因で、今の倉庫の資料整理や共通施設掃除などの、いわゆる閑職についているのだから。

 だが、同時に羨ましくも思う。生きて行く為に分厚く身に着けた社会性は歳と共に重さを増し、やがて自身を身動き出来なくしてしまう。

「大好き」や「会いたい」を何の衒いも無く言う事ができなくなってしまうのだ。

 ややあって尚記は答えた「はぁ、そう言うのが気を持たせるんですね」

 どう言う事が、気を持たせるのかは理解してくれた。しかし続けて、

「わかりました、八崎さんにだけ言うようにします」

 八崎は思わず眉間のあたりを、手で顔を覆うようにして、人差し指で軽く押さえた。泣けてくるほどの察しの悪さであり、理解してもらう為にはどのように言えば良いのだろう?そんな苦慮の顕れであり、また、そう言った表情をしている事を隠すためでもあった。ほんの少し、尚記の演技かも知れないと言う疑念もあったが、今は考えてもしょうがないと八崎は諦めた…訳ではないが、徐々に分かってもらおう、素なのか演技なのかも、その内わかるだろうと思い、それ以上は何も言わなかった。


 尚記に「どうせならもっと沢山の満開の花を一緒に見に行きたかった」そう言われた時、八崎が「キミは…」と言いかけたのは、ドキリとさせられ、全然反省してない事を注意しようと思ったからだが、しかし言いかけて止めたのは、注意すべき事でも無いと思い直したからだ。

 思い直したからだし、八崎は薄々感じていた。尚記が何回か注意を促しても、ときたま気を持たせるような事を言う態度を改めないのは、八崎からの注意を楽しんでいるから、なのではないだろうかと。だとしたら彼は幼い。

 しかし、自分もまた、彼の注意を受けたがる、まさしく注意を引こうとする態度に乗っかっているのを否めない。八崎の方が先輩であり、立場は強い。そして尚記は大抵の場合において素直だ。彼の素直な「はい」には、心を砕いて注意した甲斐があったと言う満足感に浸らせてくれる響きがある。

 怖い。とまでは行かないが、何かしら警戒心のような物が働いた。八崎の中では、誰かに何かを注意するなら、きちんとした大義のような物が必要だ。最初は明確に 尚記が集団の中でもう少し上手くやっていければ良い と思っての事だった。けれど今は…どうなのだろう?私達はやり取りを楽しんでいるのではないだろうか?私は自己満足したいだけなのではないだろうか?

 他人が素直に自分の意見を受け入れた時の満足感は、人が本能的に感じてしまう満足感なのであって、八崎のパーソナリティに起因してるのでは無いのであろうが、八崎は自分の発言は 尚記のため、周囲のためを根本としているのではなくて、自分の庇護欲、支配欲に拠っている可能性があることにうろたえる。

 八崎はこう言った点に於いて、庇護欲、支配欲があって何が悪かろう、そう開きなおれる質ではない。転びそうな時は足をガバっと開いて踏ん張れば良いものを、頑なに両足を綺麗に揃えておこうとするから、うろたえるのだ。そうして、うろたえた虚をついて、主導権を尚記に取られているのではないかと思い、自分が会話の主導権などを気にする人間であった事にまた驚くのだった。

 だが、尚記の素直さに主導権を取られ、操られていると思うと、それは許し難くもあったが、くすぐったい心地良さもある事を八崎は自分自身で認識している。今回もまた許し難さと心地良さの狭間を行き来して、注意されるのを待っているように見える尚記を、今日は敢えて無視して、代わりに「誰と?」そう問いかけたのである。

 尚記が自分だけに言っており、他の者へ変な影響を与えないなら良い。

 

 尚記の言葉は肯定的な物であっても、周囲の人間が勘違いして、変な影響を受けてしまっては問題がある。そんな風に八崎は思っている。尚記が周囲に好印象をもたれるのは良いのだが、尚記の言い方だと、良い方に勘違いされても問題は起きるのだ。

 尚記の「好き」は軽い、思った事を口に出しているだけだ、それに付いてまわる責任の重さを尚記は考えていないのだろう。八崎が尚記に対して下した評価は幼くて率直と言うより、「沢田さんは大人なのに軽率だ」である。それは八崎自身に自戒の作用を働かせるために、自分は「沢田さんのような軽率な発言は控えよう」と八崎が無意識に下した評価だ。

 軽率な人間でなければ、好意を示された相手は、だいたいに於いて好意を示し返してくる事を知っている。

 最初に好意を示した者は、戻ってきた好意をきちんと受け取る。そしてまた好意を送り返す。そしてまた…を繰り返し、そうやって真っ当な、良い人間関係は出来上がって行くのだと八崎は思っている。

 ある程度の人間関係が成り立ってしまえば、安心して、この好意は私の好みではありません。そう伝える事も出来るだろう。好意を持っている相手に、好みで無い事を押し付けてくるような真似はしてこないと信じているからだ。

 しかし八崎の見る限り尚記は違う。

 戻ってきた好意を受け取る責任があると思っていない。確かに責任は無いのかも知れない。それは大人になった人達が勝手に思っている、こうであるべき、と考えている慣習のような規範なのかも知れない…自分も含めた大人達は勝手に規範を押し付けあって、それを破る人は許せない。そうやって勝手にギスギスしているのかも知れない。

 それにもう一つ、大人達は勝手に感じている。いくら好意であっても、重い好意をいきなりまとめて渡されると手に余ると。若い頃のように好意を紐解いて、恋愛に発展できる時間と、そこに注ぎ込める有り余る情熱があれば、手に余ることは無いかも知れない、色恋だけを考えていれば良いのだから。だが大人には生活があり、仕事がある。いきなり抱え切れない好意を渡されても困るのだ、だから大抵の人は手順を踏んで、徐々に自分の気持ちを知って行ってもらうのだ。

 徐々に分かって行き、駄目そうなら取り返しがつかなくなる前に、仕事に差し支え無い段階でそれとなく諦めたり、諦めてもらったりするものだ。

 そう言った暗黙の規範を尚記は破ってしまうだろうと八崎は思う。破ると言うか身に付いていないように見える。手順を踏まずに、重い好意を突然渡してきて、対等の好意を示し返そうとしても、平気な顔で「何ですかコレ?要りません」と言いそうなのだ。

 八崎は結婚をしていて、他者と一線を引く事にも自信がある。だから勘違いをする事は無いが、独身でまだ若い子なら、尚記の物言いを勘違いをする子も居るだろう。そして、その子が勘違いをして示し返した好意を、尚記が無碍に扱ったら?

 恨みを持った女性の恐ろしさを尚記は知らないのではないか?それも好意から悪意へ転換された時の邪悪さは、当人達だけでは収まらない、周囲を巻き込んだ問題を引き起こすのだ。


 「因みに誰と?」と確認したのは、それが八崎以外の従業員だった場合、尚記はペロッと言う可能性があるから釘を刺しておこうと思ったのだ。

 尚記が「八崎さんとです」と答えたので、八崎は他の従業員に言う可能性は無いなと安心した。

 気がつくと尚記が手を出している。

八崎が何?そんな表情をすると、尚記は

「封筒、お預かりします」

 何を考えているか分からない、乏しい表情で答える。その乏しい表情が八崎の心に細波をたてる。

 八崎はいつも外来受付棟に届く郵便物を、出勤前に回収してから事務室に向かう。そして庶務宛の郵便物が無いか確認し、あれば抜き取って、残りの郵便物を郵務担当が持って行くように、発信BOXに入れておく。

 郵務の担当の一人に尚記がいる。彼自身が回収作業を行うことはまず無いが、回収された郵便物の振り分けをしているのは尚記だ。どのみち封筒は尚記の元に行く。八崎もいずれ尚記の手に渡るのは知っていた。

 しかし別の事を…彼は誰にでも臆する事なく好意の言葉を伝えるが、もしも彼の私に対する好意が特別なものならば、それを知った時、彼の傷が1番浅く済むには、私はどうすれば……バカじゃないだろうか、いったい私は何を自惚れているのだろう?

 などと言う事を考えていたので、郵便物を持ったまま更衣室に向かおうとしていたのだ。

 毒気を抜かれる。まではいかないが、八崎はなんだか気が削がれた感じがした。心配している相手、言ってみれば庇護対象のような尚記に先を見越された言葉をかけられ、自尊心を甘噛みされたような感覚になった。

 八崎はその甘噛みされて少し削がれた部分を修復したい、そう明確に思ったわけではないが、何かひとこと言って封筒を渡してやりたい衝動を抑えられなかった。気が削がれた部分を修復したい。そんな思いを完全に自覚してしまう前に。

 あまり時間はない。         

 何か今の八崎の気分を補う、八崎自身はまだ明確に意識に浮上させていない、削がれた自尊心を修復できる何気ない一言を探し、頭を巡りに巡らせた結果、八崎が発した言葉は「キミは明暗の細君のようだね」だった。

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