第3話

「何をしているの?」

 八崎からの問いに尚記は、

「ほら、ハチサキさん」

 の後に

「見てください。咲き始めたんですよ。これ、梅ですかね?桜ですかね?」

 そう続けていた。何か喋らないと忙しい八崎はいつも足を止めてくれない。

 八崎は笑って、ため息混じりに答えた。

「ヤサキよ」

 今日は時間に余裕があるのか、尚記の問いかけに八崎は足を止めてくれた。

「梅でしょうよ、男の人ってそんなモノ?」

 花への興味が梅と桜の見分けもつかないくらいのモノなのか?そう言う意味だろう。嫌味さも小バカにしている感じもなく、ただ単に男の人は、私の想像以上に花に興味がないのかも知れない。そんな新事実に、新鮮に驚いていると言った風だ。笑顔が春めいて来ている日差しに溶けるようだった。

「いや、男の人はちゃんと区別できると思います」

 尚記は自分自身は梅と桜の区別が出来ない人間だと思われても良いが、男全般がそう思われては困ると思い、自分以外の男の尊厳を保つためにそのように答えた。

 尚記も梅と桜の区別をつけることは出来た。目の前の花も梅であるであろう事は分かっていた。しかし目の前の梅は梅にしてはあまりにも絢爛としていて、梅だ。と断定する事が出来なかったのだ。あくまで「梅であるであろう」であり、疑問符を完全に取り切れなかったのである。

 少し離れた所に立っていた八崎はトコトコと寄って来て、尚記と梅の間に割って入った。そこはもう舗装されていない植え込みの部分だっだが、八崎はまるで気にする事なく短いヒールを昨晩の雨で柔らかくなっている土で汚した。

「ホラ、枝振りが違うでしょ?」

 湿り気を帯びた枝で咲いている、まだ雨露に濡れた花に顔を近づける。そのあと不思議そうな顔をして、空に向かって伸びた枝をまるで「おはよう」そう言って起こすかのように人差し指で弾いて揺らした。

 それまでは香っていなかったが、八崎に弾かれた事により既に花を咲かせていた梅は、その香りを驚いたように慌てて広げる。尚記はその香りが梅のものであるのか、八崎の香りであるのか一瞬判断に迷った。

 良い香りだ。梅の香りであれば存分に堪能できる。しかし八崎の香りであるなら堪能することに、恍惚とすることに後ろめたさを感じてしまう。尚記はそれでも呼吸と言う生理現象を止められず、香りを含んだ空気を鼻腔の奥に送って、抗えない肉体の仕組みを悲しく思った。

「花の形状も違うのよ。」

 八崎はそう言いながら尚記の方に顔を向けた。尚記は八崎の後ろに立っている。尚記の方が背が高い。八崎は梅の花に顔を近づけたため軽く腰を折っていて、いつもより頭の位置が低かった。その態勢で尚記の方を見上げるようして振り返ったので、右耳に掛けていた髪がパサリと耳から外れた。八崎は外れた髪をまた右耳かけながら体を起こして尚記と正対する。そして尚記の後ろの幹線道路に戻る為に尚記に向かって歩き出してきた。尚記は初めて八崎がピアスをしていることに気が付いた。

「それは、さすがに知っているだろうけど、知っていても見分けつかないかぁ。そんなものかぁ。」

 そう言いながら、尚記の横を通り抜けようと近づいて来る。八崎はまだ出勤途中だ。更衣室に向かわねばならない。

 八崎はもう男の人は梅と桜の区別がつかない物だと確定したらしい。尚記は男達の尊厳を守ることに失敗したようだ。これではいけない。とは思わなかったが、尚記は梅だと断定出来なかった理由を質問のようにして八崎に伝えた。

「いや、この梅って、梅にしては桜みたいに絢爛としていませんか?」

「えっ?ケンラン?」

 八崎は足を止めた。

確かに絢爛と言う熟語は絢爛だけで使われる事は少ないかも知れない。八崎がすぐに理解できないのも納得できる。

「豪華、絢爛の絢爛。なんと言うか、爛漫と言うか…梅にしては奥ゆかしさが無いような…」

 梅は咲き誇ることさえ印象付けずに散っていく。桜よりも奥ゆかしい。だからと言って桜が奥ゆかしくないかと言えばそうでは無い。桜の花も奥ゆかしいと尚記は思っている。一ひら一ひらがあまりに軽く、咲いている時間はあまりに短い。儚い。桜が咲き誇る瞬間はあの散り際であると尚記は思っている。散り際が咲き誇る瞬間である事を思うと少し切なくなる。自然の摂理はもう少し桜に咲き誇っている時間を与えてやっても良いと思う。だが桜の方が散らなくては咲き誇れない。そんな覚悟を決めているような気がして切なくなるのだ。

 何もしてやれない。何かしてあげられるだろうと思うのは傲慢なのかも知れないとも思う。もう少し咲き誇っていた方が幸せだと思うのは尚記の身勝手な妄想なのだ。


「奥ゆかしさ?」

 今度はちゃんと意味は理解しているだろう、しかし八崎は共感ができないと言った風だ。何を言っているの?と言う様にうわ目遣いに覗きこんで来る。

「はい、桜と比べると…そのぅ…他の花と比べても、奥ゆかしい気が…自己主張が少ない気がしませんか?」

「そぉ?あまり考えたこと無かったけど、どちらかと言えば、渋いかな。老成している感じがする。」

 老成か。確かに桜に比べて滑らかさは無く、印象として節くれだっている気がする。梅の枝などはお年寄りの手のような印象を受けなくもない。

「それに桜が絢爛とした印象を与え過ぎなんじゃない?この時期って、もう皆んな桜がいつ咲くかを気にしてない?梅祭りとかは花見を我慢できない人の気を紛らわす為のもの…ってのは言い過ぎかな」

 尚記は微笑んで応えた。微笑んで応えるしかできなかった。「奥ゆかしさ?」そう言ってうわ目遣いに覗きこんできた時から、八崎は横を通り過ぎる事はなく、そのまま尚記の正面で立ち止まり、「言い過ぎかな」と同意を求めているような自己完結したような、どちらとも言えない話し方で尚記を見つめ続けている。それがかなり近い距離だったからだ。

 八崎が何かしらの言葉を求めている事に尚記は気が付いていない。こういう時は笑って、うなずいておけば良いものだと尚記は思っている。尚記がそれ以上なにも言わない事が分かると、八崎は更衣室に向かうために歩き出した。

 春のおとずれを感じさせる日差しの中に咲く梅の花を、まだ八崎と見ていたかったが、尚記も八崎の後を追うために体を反転させた。その瞬間、尚記の頭にあるイメージが降って湧いた。ほとんど反射的に思い浮かんだ事を振り向きざま、八崎の背中に向かって呟いた。

「どうせなら、もっと満開の花を一緒に見たかった」

 桜でも梅でも菜の花でも良かった。もっと満開の、思わず感嘆の声をあげてしまうほどの花に囲まれて、あたたかく柔らかい日差しの下で一緒に花を見て、一緒に驚きの声を上げている。そんな風景と八崎の喜んでいる横顔が思い浮かんだのだ。

 尚記の頭の中にはその光景が思い浮かび、実現したら楽しそうだと思ったから口に出した一言だった。その時はそれ以上深く考えていない。

 八崎はピタリと止まって振り向いた。肩からかけているベージュ色のカバンを体に引きつけ直して、

「キミは……」

 八崎は時々、尚記の事を「キミ」と呼ぶ。普段は「沢田さん」だ。

 尚記は自分が年上なのか八崎が年上なのか知らないが、八崎に「キミ」と呼ばれると何だか膝の力が抜けて崩れそうな感覚になる。崩れて、崩れそうになる自分を八崎が支えてくれる所を夢想してしまう。

 八崎はその先の言葉を継がなかった。代わりに「因みに誰と?」と問うて来た。

「八崎さんとです」

 尚記はその答えがどんな意味を持って、八崎に伝わるか分かっていない。八崎はウンウンと二回頷いた。

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